伊勢の国司北畠氏の養子となっていた織田信長の次男北畠信雄は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を狙っていたが、天正6年(1578年)2月、伊賀国の郷士下山甲斐が北畠信雄を訪れて、伊賀国への手引きを申し出たので、北畠信雄の第一次伊賀攻めの際の拠点とするべく、北畠信雄の家臣の滝川雄利(滝川一益の娘婿)に命じて丸山城を築かせた。城は、比自岐川の南岸の標高180m~213mの丘陵上に築かれ、山頂部の本丸には三層の天守閣があり北、西側の尾根筋には堀切りで防衛された多くの曲輪や櫓台も存在する。南側の谷を隔てた丘陵地にも出丸がある。伊賀地域の中では本格的な大規模な山城である。この築城が、「天正伊賀の乱」の要因となった。天正6年(1578年)10月,伊賀の土豪・国人衆はこの城を攻撃し滝川雄利を敗走させます。翌年の天正7年(1579年)9月の「第一次伊賀天正の乱」でも北畠信雄軍8000騎を伊勢国に敗走させますが、天正9年(1581年)9月の[第二次伊賀天正の乱」では、織田信長自ら45,000騎で伊賀に攻め込み、土豪・国人衆の立て籠もる丸山城を始めとする伊賀の城砦をことごとく陥落させ、伊賀を完全に領国とした。織田信長は、滝川雄利に伊賀郡、名張郡、阿拝郡を与え、丸山城は滝川雄利の持城となった。天正12(1584年)に伊賀国から伊勢国松ケ島城の城主として入城したために丸山城は、廃城となった。
[所在地:三重県伊賀市下神戸]
<アクセス>伊賀鉄道・丸山駅下車、丸山城・本丸まで徒歩約20分
▼北側より見た丸山城 ▼川を渡ると丸山城登山口
▼丸山城跡への表示板(丸山城登山口) 北側から山道を登っていく
▼丸山城・本丸への道 山道を登っていく
▼丸山城・本丸付近 ▼丸山城の石碑(山頂に建つ)
2015/10/16 訪城
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天正伊賀の乱 天正9年(1581年)
天正7年(1579年)9月、伊勢国の北畠(織田)信雄が、8,000騎で、伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年(1581年)9月27日、織田信長は、45,000騎の大軍勢で、伊賀の6つの入り口から一斉に攻め込み、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に惨殺した。最後の拠点、柏原城(滝野城)で約1,600騎の土豪が最後まで抵抗したが、10月28日、城主、滝野十郎吉政が筒井順慶に柏原城(滝野城)を明け渡し降伏した。天正9年(1581年)伊賀再討は、伊賀全土が焦土と化した。