柏原城(滝野城)は、永禄年間(1558年~1570年)に滝野貞清が築城した平山城である。天正2年(1574年)に滝野貞清が没すると、滝野十郎吉政が継いだ。天正9年(1581年),織田信長の第二次伊賀攻めにより柏原城に約1600騎の土豪などが立て籠もったが、織田信長軍の猛攻に力尽き、降伏し、筒井順慶に明け渡された。城は、四方を二重の堀と土塁に囲まれた堅固な本廓と西側にも堀切と土塁により防御を固めた廓がある二連複郭式の城である。本廓南側に虎口がある。
[所在地:三重県名張市赤目町柏原字滝野]
<アクセス>近鉄大阪線・赤目駅下車徒歩約20分
▼柏原城(滝野城)の概要
▼決戦之地柏原城の碑
勝手神社の北西脇(勝手神社外側) ▼柏原城址(滝野城址)
▼本廓(四角い廓)
▼本廓(四角い廓)
▼本廓の周りの土塀の石垣
▼柏原城(滝野城)の概略図
2015/09/22 訪城
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天正伊賀の乱 天正9年(1581年)
天正7年(1579年)9月、伊勢国の北畠(織田)信雄が、8,000騎で、伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年(1581年)9月27日,織田信長は、45,000騎の大軍勢で、伊賀の6つの入り口から一斉に攻め込み、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に惨殺した。最後の拠点、柏原城(滝野城)で約1,600騎の土豪が最後まで抵抗したが、10月28日、城主、滝野十郎吉政が筒井順慶に柏原城(滝野城)を明け渡し降伏した。天正9年(1581年)の伊賀再討は伊賀全土が焦土と化した。