ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

演劇ユニット マーシュマロウ 旗揚げより3年 PART 1

2008-07-29 14:51:29 | Weblog
 さあ、今日からテンプレートの絵柄もリニューアルして、また題名も新しくしてお話して行こうと思います。

 前回は2005年の僕の初めてのオリジナル作品の上演、「真夜中のレストラン」についてのエピソードをご紹介しました。
 このブログの場を借りて、自分のささやかな演劇の経歴を語るに至ったのは、今年5月に多治見のまなびパークで公演した、演劇ユニット マーシュマロウ 第3回公演「ゆうすげ綺譚」の公演が終了して、1週間経ってのことでした。
 最初は、簡単にその心境を話そうと思っていたんですが、ふとした僕の気まぐれな思い付きから、こんなに長く語ってしまうことになりました。

 多治見で地元ラジオの仕事をさせてもらったのをキッカケに、高橋和子さんという方と知り合い、高橋さんが昔お芝居をやっていたということを知って、じゃあ一緒にやりませんかとお誘いしたのが、その2005年の夏のこと。
 お話して1ヶ月余りで書き上げたのが「女房はシェイクスピアがお好き」という戯曲でした。
 演劇ユニット マーシュマロウ という名称で、双方の家族も巻き込んで2006年5月に第1回公演を催し、翌2007年に第2回公演「帰りなむ、いざ」。
 そして、今年の第3回公演「ゆうすげ綺譚」という運びになったのです。
 
 仮にも表現することを生業とさせてもらっていますので、この芝居公演を趣味や道楽で続けているわけではありません。また文化芸術の担い手などと、大上段に構える気もありません。だからといって、こういった活動で、お金儲けを目論んでもいません(出来たらいいなと思うのは本音ですが、出来ようもない話でしょう)。また、今の経済至上主義の社会においては、これを仕事、ビジネスとも呼ばれにくいでしょうし、そう思われる傾向にもない。しかし僕は、この演劇活動を大きな意味での仕事、事業だと考えています。
 1回から3回と、公演の数を重ねながら、僕らは僕らなりのハードルを上げ、そして、来て下さるお客さんの事を考えながら、芝居創りをしてきたつもりです。
 今回特に考えたことは、私たちが生活する地域、いわゆる中央に対して地方と呼ばれる場所において、「演劇は必要か?」という問いでした。
 この問いは中央地方、有名無名プロアマを問わず、演劇人がしばしば問うてきたことだと思います。
 必要でなければ消滅し、必要ならば存続できる。その可能性をギリギリまで追求してみたいと思っています。
 演劇が、あるいはメディアを通してのテレビドラマや映画というものが、すべて中央発信のものに依存しているだけ、ということで果たしていいのでしょうか。
 私たちが私たちのものとして所有し、身近に体感するリアリティーの場を、僕は演劇空間において作り出して行きたいと思っています。
 新しいコミュニティーの発想や、思考の循環としての演劇空間。それは与えられるものではなく、共に創り出していくものなのです。
 なんて小難しい話はこれくらいにして、ようは芝居って大変だけど面白いですよ、観るのも創るのも・・・ということをより多くの方に知ってもらえたらというのがその第1歩でしょうか。 

「芝居公演を終えて1週間が経ちました」から約2ヶ月が経ちました。PART 6

2008-07-27 14:37:42 | Weblog
 今日は市内の文化会館で行われた「保育のつどい」にゲストとして出演させてもらい、斉藤隆介・作「モチモチの木」を語らせてもらいました。
 子供たち一人一人が、良く生命を養い、明るい未来を切り拓いて行けるようにとの願いを込めて、語らせてもらいました。

 さて、お話のつづきを書いていきます。
 ジャズダンスの先生Mさんとのコラボレーションとして立ち上がったこの芝居公演の企画は、ピアノの先生Yさんにも参加してもらい、名称を「トレフルの会」として、スタートさせました。
 トレフルとは、フランス語でクローバーのこと。三つ葉のクローバーを意味するトレフルで3人だけの芝居が始まったのです。

 芝居の題名は「真夜中のレストラン」。フランスを思わせるヨーロッパのとある国のとある町、つぶれかかったレストランのオーナーと、そのレストランに棲みついた2人の幽霊の織り成す、時代と時空を越えた恋の物語。
 踊りに歌に生ピアノ演奏を取り入れた1時間余りのステージを創りだそうと始めましたが、それは山あり谷ありの1年でした。
 芝居は初めてだというYさんと、学生時代以来というMさんのために、まずは本番公演の日時を決めず、出来ると自信が付いたら、という約束ではじめたのです。
 読み合わせから半立ち、立ち稽古と進めていくのに、どれだけの時間を費やしたでしょう。
 いろいろとぶつかり、これはもうダメかなと考え、暗礁に乗り上げかけたこともありました。
 しかしそれが芝居つくりの基本。解らなければ解らないといい、言葉を尽くす。
そして納得した上で、次に進む。葛藤の日々でした。

 そうして、半年が過ぎた頃ようやく出来そうな気配が生まれて、翌2005年3月27日を公演本番と決めて、再スタートとなったのです。
 週に1日程度の稽古。それも稽古場はなしお金もなし。公民館の部屋を借り、会場費は3人で割り勘で負担し、掛かった経費はすべて後でチケットを売った売り上げでペイしようという、自転車操業的芝居公演でした。

 そして、 約160名の観客を動員し、そのたった1回きりの本番公演は、無事終了しました。1年の成果をその1回きりの公演にかけた、結晶のような舞台でした。家族や友人、多くの方々に応援してもらって実現できた舞台でした。
 僕はこの芝居が出来なかったら、もう2度と芝居はやめようと思っていました。まあ、何度もそう思ってはまたやっていると、これまでを読まれてこられた方は、思われているだろうと思いますが、そうですね。まったくそうみたいです。でもその時は真剣です。2年前の舞台でのある種のトラウマを払拭させるための自分自身への挑戦でもありました。
 MさんもYさんも本当に最後までよくついて来て頂けたと、今もって感謝に堪えません。
 いろいろあって「トレフルの会」での第2回公演は実現が難しそうなのですが、これが、毎年僕が演劇活動を続けていくようになる、キッカケを作ってくれた舞台でした。

 さあ、次回はいよいよ、最初に戻って、演劇ユニットマーシュマロウの話が出来ると思います。

「芝居公演を終えて1週間が経ちました」から約2ヶ月が経ちました。PART 5

2008-07-26 13:58:44 | Weblog
 とにかく暑い日が続きます。僕がPCをおいてブログを書き込んでいる部屋は、現在気温34度です。
 窓を開け放ち扇風機を回していますが、エアコンはありません。長時間は無理なようですから、今日は短くなると思います。

 さて、お話のつづきです。僕が5年前に出会ったダンスと音楽とナレーションで描く、チャーリー・チャップリンの世界という企画は、実験的に公開練習という形で行われましたが、ちょっと行き詰まってもいるようでした。
 それで、ひょんなことから、ナレーションで参加してみないかということになったのです。
 それがMさんとの出会いとなりました。この企画は紆余曲折し、とうとう実現には至りませんでした。このとき最終的には僕がオリジナル台本「永遠(とわ)の微笑み」という作品を書いたのですが、これも公開リハどまりでした。
 その時、演劇にも興味があるといったMさんに、じゃあ僕が戯曲を書くのでお芝居やってみませんかとはなし、この辺りではあまりやられていない、ちょっとモダンで大人のラブストーリー的な芝居を・・・ということで、別の企画が立ち上がったのでした。それが、2004年の早々のことだったと思います。

「芝居公演を終えて1週間が経ちました」から約2ヶ月が経ちました。PART 4

2008-07-23 13:40:28 | Weblog
 さて、2日目の舞台です。まだ2ステージが残っています。演出や共演者に、大丈夫ですと取り繕いながら、とにかく芝居にだけ集中しようと思いました。
 ここをああしよう、あそこをこうしようなんて余裕はかけらもありません。1ステージずつを無事に切り抜けよう、間違いなく演じ切ろうとただそれだけを念じました。セリフのとちりはありました。真逆の意味のことを言ってしまったという、失敗はおかしましたが、何とか最後まで役柄のまま、舞台に立ち続ける事が出来ました。装置を撤収し、すべてを終えて劇団の稽古場で打ち上げをしました。
 真似事だけビールに口をつけて、安堵の胸を撫で下ろしたのですが、それから半年、僕はまた振り出しに戻った如くの症状を抱えながら、仕事を続けていく羽目になりました。
 しかし、この大きな舞台を経験させてもらえたことに今は何の後悔もしていません。むしろ感謝し切れない思いです。この経験がなかったら、僕は自分のオリジナル作品でまた舞台に立とうなんて、考えなかったと思うから・・・。
 それから1年後、ある出会いを果たします。地元でダンス教室を開いているMさんと、チェリストのTさんという人がコラボして、チャップリンを題材にした踊りと演奏のステージを、実験的にやるのだけれど観に来ないかと誘われて、とあるスタジオに出かけたのです。それが今から5年ほど前のことでした。

「芝居公演を終えて1週間が経ちました」から約2ヶ月が経ちました。PART 3

2008-07-21 00:14:10 | Weblog
 4日ぶりの更新になります。毎日暑い日が続きますねえ。どうぞ体調には気を付けて下さいね。
 さて、話のつづきですが、進行具合が遅いので芝居公演から、2ヶ月以上が過ぎて、まだ本題に入っていません。もう少しご辛抱を・・・。
 市民創作劇「曙光は見えたか」の本番舞台は、大変な事態となってしまいます。
舞台前半のクライマックス、間半兵衛が尾州公からの献上された杯を、叩き割ってしまう場面があったのですが、そこでテンションのあがった僕はさっと血の気が引けて、それからはどんどんどんどん、冷たい汗が流れてくる状態になったのです。
 鬘に着物、それに舞台のライト、そして久しぶりの舞台という緊張。本番前にしっかり食事も摂れていませんでした。それで脱水症状を起こしてしまったのでした。いいえ、昔の発作がこんな時にぶり返してしまったのです。
 ホールを埋める600名近い観客を前に、まだ後半の長い芝居が残されています。僕の心臓は割れ鐘のように早い鼓動を打ち、震えは一向に治まりません。気持ちに押しつぶされてしまえば、そのままスーッと気も遠くなり掛けていくようです。しかし、僕はこれまでにもそんな状態を幾度となく味わって来ていました。とにかく芝居に集中して死ぬ気でやろうと思いました。
 人間そんなに簡単に死ねるものではありません。そして、倒れてしまうものでもありません。
 何とか初日の舞台を終了し、お客様を見送り、着替えをしメークを落として
「すみませんでした、大丈夫です」
 と家に帰ったのですが、その晩は震えと不整脈が治まらず、ほとんど眠れないで一夜を過ごしました。
 さあ、それでも次の日は2ステージの長丁場です。これを乗り切れるか・・・。
 この仕事を始めて6年、とにかくどんな状態であっても決して穴を開けないというのが僕の心情です。なにがあろうとやり切るんだと思っていました。
 

「芝居公演を終えて1週間が経ちました」から約2ヶ月が経ちました。PART 2

2008-07-16 11:56:17 | Weblog
 2002年(平成14年)、今から6年前のことになりますが、市民創作劇中山道中津川宿1868「曙光は見えたか」の主役間半兵衛秀矩役を、実行委員会の代表Sさんから依頼を受けました。
 Sさんは僕がお世話になった劇団の主宰者でもあり、これまでの経緯からもいろいろとご迷惑をかけてもいましたし、この大きなプロジェクトの主役ということにも魅力を感じ、熟考の末お引き受けしました。体調も少しずつ整ってきていたし、このあたりで冒険、チャレンジも必要だろうと考えたのです。
 それが5月のことで、7月から稽古が始まりました。10年ぶりの芝居の舞台、そして劇団の人たちとの共演でした。
 稽古場に入って、瞬くうちに10年の歳月がタイムスリップされて、昔に戻ったという感覚が、僕の中に湧き上がってきました。
 まあいろいろあって、3ヶ月近い稽古を楽しく過ごしたのですが、もう本番まで1ヶ月をきって、風邪を引いたり、疲れが取れなかったりと、少しずつ体調に異変が出始めました。
 時代劇なので、稽古はずっと浴衣で通しましたが、本番は鬘を付け、着物もしっかりと着なければなりません。僕はそこまで考えていませんでした。愚かでした。
 僕は大変な凝り症状に悩まされていたのですが、それに拍車をかけるに決まっている舞台になるに違いありません。
 僕はその辺りから、非常にメンタルになり、ネガティブになっていきました。

「芝居公演を終えて1週間が経ちました」から約2ヶ月が経ちました。PART 1

2008-07-14 00:51:49 | Weblog
「芝居公演を終えて1週間が経ちました」のタイトルからはじまって、僕の過去をふり返ってきましたが、約2ヶ月かかってまたここに立ち戻ろうかと思います。
 
 劇車「銀河鐵道」という名称で、ひとり語りの活動を始めて、今年で13年目となります。いろんなところでその名称についての由来は語ってきていますが、ここでもあらためてお話します。
 宮澤賢治の作品との出会いはそんなに古くなく、僕の高校生の時。演劇部に入部して、初めてやったのが「注文の多い料理店」。その紙芝居になったものを学校放送で流すのに、太った紳士の一人をやらせてもらったのが最初でした。それから興味を持ち始め、ちょっと作品を読み始めたのかな? あまり覚えてはいませんが・・・。きっと他の作品を読んでも今ひとつピンとこなかったのかもしれません。何しろ理解力弱かったですから、あの頃は。
 しかしその後、「銀河鉄道の夜」のアニメ作品を観たんです。高校卒業後のことだと思います。りんたろう監督作品で、ますむらひろしのネコのキャラクターによる漫画作品をアニメ化したものです。
 これは衝撃的でした。読んでもいまいち入り込んでこなかったものが一気に入ってきたという感じでした。それから、でもなんとなくなんですが賢治ファンを名乗るようになっていきます。今から思えばエセ賢治ファンです。
 それからは偶然なのか奇縁なのか、「僕の東京俳優修行」の中でも紹介した通り、養成所の卒業公演で、賢治没後50年を記念し「グスコーブドリの伝記」を演って、賢治本人の役もやらせてもらい、新婚旅行では岩手県花巻市など、賢治ゆかりの地をめぐり、そして旗揚げした翌年、本格的なスタートの年となる1996年は、宮澤賢治生誕100年となる年で、世間的にも盛り上がりを見せるなか、僕もその年の8月に、賢治にゆかりのあるという人の持ち物だった、旧酒蔵の資料館で、生誕100年を記念した朗読と語りの会を催させてもらいました。
 そうして、少しずつレパートリーを増やして、ひとり語りという仕事を続けてここまで来たのですが・・・。
 やはり僕の原点はお芝居。そのお芝居を中途半端に放り出してもう僕は語りの人間だからだといっていていいのか、そんなキッカケをもらったところの話から、徐々にもとのところに話を戻していきましょう。なかなか戻らなくて御免なさい。

決意の夏、始まりの秋 PART 3

2008-07-11 15:44:52 | Weblog
 35歳は人生のターニング・ポイント。当時そのようなテレビ番組もやっていましたが、僕も正しくそうだと思っていました。

 さて、旗揚げ口演に何を演ろうか? もちろん、息子の保育園で読んだ絵本「なんげぇはなしっこしかへがな」は朗読するつもりでしたが、メインになるものは朗読ではダメだと端から考えていました。
 そして、レパートリーの詳細解説でも紹介していますが、いつかは演りたいと思っていた さねとうあきら氏の作品「おこんじょうるり」の原作をそっくり覚えて語ろうと思いました。
 僕は演劇をやっている頃から、セリフ覚えがそんなに良い方ではありません。稽古をしながら身体で覚えていくタイプでした。丸暗記なんて、受験勉強をしっかりやらなかった付けが回ってきたのかと思いました。
 毎日本当に1行2行と覚えて、まるで土台にレンガをひとつひとつ積むように創っていって、約1ヶ月で覚えると、後は残りの1ヶ月、本番まで語り込んでいきました。
 そうして、1995年10月27日の本番の夜を迎えました。
 約4年のブランクがありました。その間にはもう声も出ないというような時もありました。この夜の僕は、今までにない緊張感にすべてを蔽い尽くされていました。スタッフとして手伝ってくれた妻も、ガタガタと膝が震えたといいます。
 その日のお客さんは、これまでお世話になった友人知人、場所を借りた友人のお店の知り合いの人、そして息子の小学校の担任の先生など、10数名の方たちでした。
 一応それを生業としていくということで、一人300円の木戸銭を頂いたと思います。
 語り始めて30分、僕の緊張は頂点に達して、だんだんキリキリと胃が痛みだし、何とか脂汗を流しながら語り終えた時には、もうそのまま旗揚げのお礼も挨拶も出来ない状態で、一旦外へ出てしまいました。
 ひとり語りをやろうと決めた日から、最初はウォーキングそして次第にジョギングと、毎日2キロばかりの距離を走っていましたが、未だ本番をやり通すだけの体力がなかったものと思います。それでも最後まで演れたことは、ネクスト、継ぎえの力となっていきました。
 それでも最初のうちは、いや5,6年くらいはいっぱい仕事が来たらどうしようと、思っていたほど体力的には自身がありませんでした(まあ、その頃はまだいろんな症状にも悩まされてもいました)。
 1995年は暮れの12月までに、旗揚げ口演より8本の仕事を頂きました。声を掛けて頂ける、呼んで頂ける、そのことがどんなにうれしかったことか。初期の頃に聴いていただいた方々には、本当に拙い語り、朗読をお聴かせしてしまったものと、今もって申し訳なく思いますが、それがあって今があるわけですので、本当に感謝のしようもありません。まだまだ発展途上の語りではありますが、これからも怠けず取り組んで行きたいと思っています。
 それでは今日はこのへんで・・・。
 

決意の夏、始まりの秋 PART 2

2008-07-09 15:51:00 | Weblog
 今から13年前の1995年平成7年という年は、阪神淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件といった、大きな災害や事件がおき、内面的にも外面的にも、揺らぎを感じ、いろいろと考えさせられることの多い年の幕開けでした。
 世紀末を迎えて人々の心は、一抹の不安を抱えながら時代の変化、うねりというものを予感し始めていました。
 そんな時代の中にあって、僕も例外にもれず、新しい自分を模索し始めていたのです。
 とにかく経済的なことは二の次にして、今やれること、できることをやって、それを形にし、自分自身を見つめていく、そんな生き方をしていくしかないと思ったのです。
 前回も書いた通り、ひとり語りなんていう芸能の分野があることも知らず、ただことばだけでも表現できる芝居風のスタイルを、と考えて始めたのがひとり語りというものでした(ひとり語りについてはこのブログの最初の方をご参照ください)。
 1995年の夏、あれは8月のことだったでしょうか。仕事に行けなくなって、数日たったある日の午後のことだったと思います。川べりの公園の芝生の上で、妻とふたり、川の流れを見つめながら、僕はこの何日かずっと頭の中で思い巡らしていたことを口に出していました。
 「もし少しよくなって仕事に復帰したとしても、また同じことを繰り返すことになると思う。身体をだましだましそうやって働くか、それとも身体を本気で治すための仕事を始めるか・・・」というようなことから切り出したような。
 そしてまるで突拍子もない、ひとりで口演してまわるということを妻に語ったのです。
 何の根拠もありませんでしたが、必ず仕事になると思っていました。一人当たりの口演料をコーヒー代くらいに設定して、10人くらい集めて始めて、徐々に規模を大きくしていく。まったく単純にそんな風に考えていました。
 それに対して妻は反対はしなかったと思います。どう答えてくれたのか詳細は忘れましたが、いざやることを決定すると、まず会社への辞職願いを出しに出かけ、社長にことの詳細を説明して承諾をもらいました。健康を取り戻したらまた来い、といってもらいました。それはそうでしょう、そんな語りか何ぞでやっていけるなど、誰も思わないでしょうから・・・。
 話はとんとん拍子に進み、10月に友人のお店のスペースを借りて、旗揚げ口演を催すことに決まりました。逆算して口演当日まで、2ヶ月ちょうどくらいでした。

決意の夏、始まりの秋 PART 1

2008-07-07 15:14:08 | Weblog
 今日から題名が変わります。思いつくままに書き進めて、時間の経過や内容もわかりづらいかもしれません、ごめんなさい。一応、年齢とこれまでの経過をおさらいすると、20歳で上京し21歳の1年を東京の俳優養成所で過ごし、22歳となる年帰郷。25歳で、演劇活動再会、そして結婚。様々な仕事をしながら劇団活動をつづけ、体調不良により31歳で正式に劇団退団。その後1年余のリタイヤ(療養)時代を経て33歳から35歳までを酒蔵での仕事に従事。ここまでが、ざっとした経歴のおさらいです。ではまた続きを・・・。

 仕事に対する熱意ややる気はあっても、身体がついてこないというのはもどかしいものです。今の自分の状態で、今の自分にできること。それはなんだろうかと考えました。
 会社に勤めるということは、その就業時間内はしっかりと仕事をしなければなりません。当然です。体調が優れないのでちょっと待ってくれ、少し休ませてくれ、なんて到底いえません。だったら、自分で仕事をはじめなければなりません。
 といって、僕に何ができるでしょうか。自動車の免許くらいしかライセンスはないし、手に職なんて全くないのです。できることは少々芝居をかじって来たから、それに関すること・・・。演劇関連? しかもそんなに身体を動かさないでも出来ること・・・。あれこれと思いをめぐらしました。とにかく、出来ない動けないからと、また前のように腐っているわけには行かないのです。生きていかなければなりません。そう、生きていかなければならないのです。それも、家族と一緒に!

 その年1995年は、息子も小学1年生になっていました。その前年の何時だったかに、子供の通う保育園に絵本を読みにいくということをしていました。子供の絵本読みは毎晩のようにして、その半分は僕がやっていました。母親の本読みは寝かしつける担当、しかし父親の本読みは逆に子供の目を冴えさせることの多いものでした。
 ある時、北彰介・作大田大八・絵による「なんげぇはなしっこしかへがな」という絵本を読みました。東北弁の昔話絵本でした。これが大いに気に入られ、保育園の友達にも呼んでほしいということで、息子が保育園の先生に言ったらしいのです。それで、保育園へ行って、息子たちの年長さんのクラスで、絵本を読んだのでした。それがことのほか受けて、とても楽しんでくれたので、その後も1,2度行ったように覚えています。
 でもそのときにはこれを仕事にしようなどと、考えもしませんでした。が、その1年後、何かしなくてはと切羽詰った僕は、ああいうことが仕事にならないかと本気で考え出しました。
 その時点で、ひとり語りというものがあって、そういう活動を世の中でしている人がいるなんてことも、全く知らなかったのです。