ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

芝居と仕事と家庭 PART 6

2008-07-06 19:42:04 | Weblog
 酒蔵に勤め始めて、約1年半。まだそれだけしか経っていませんでしたが、そのうちに蔵の中の顔ぶれも、少しずつ変わり、ちょっとは責任ある仕事も任されるようになっていました。
 日本酒はその年仕込まれた原酒がタンクに何リッターと貯蔵されています。そのアルコール度や甘口か辛口かの度数を分析して、出荷できるアルコール度にするべく、水で割ります。ほら、日本酒のラベルなどに16度未満とか表示されてありますでしょう。何度から何度までならOKというように、少しアバウトな数字になっていますが、そこは僕の勤めていた酒蔵の規模だと、本当に手作業ですから匙加減なんです。ですからその範囲に収まるように計算をします。すべて税務署に報告するべく、リッター数を記さなければいけませんから、誤魔化しは許されません。
 そして、そのお酒のタンクに適量の炭素(粉末状の炭ですね)をまぜて、濾過機を通して、濾過する。そうすると、皆さんが良く見慣れている、透明度の高い清酒になります。それを加熱殺菌して、壜詰めパック詰めと製品化していくわけです。
 僕はその分析を任されていました。え、1年半で?と思われるでしょうが、本当にベテランの人たちが辞められて、わりと新しい人ばかりになってしまったのです。
 2シーズン目の仕込みの冬を経験し、ある程度仕事の内容も飲み込め、その面白みがわかり始めた2年目の夏、僕はまたしても、ぶっ倒れてしまいました。暑さに対するトラウマというのもあったかもしれません。また去年のような猛暑だったらどうしようという、恐怖に身体が敏感に反応してしまいました。それに、1週間に1度ほど整体に通うということもしていましたが、腰と背中が限界に来ていました。
「徹底的に検査して悪いところを直して元気になって来い」と、社長に言われましたが、この状態で普通の30そこそこの成人男子に回復させようと試みるには、今の労働をしながらでは無理だろうと思いました。
 もう病気のことは言わないと、前回か前々回だかに言いましたが、それではあまりにこのブログを読んでおられる方には解りずらいので説明しますが、もともとは脊髄と脊髄の間の軟骨が磨り減ってしまった椎間板ヘルニアの一種を患っていました。が、それにプラスして背中すべり症(肩甲骨の辺りの脊髄部分に痛みを感ずるもの)。そして、頚椎も痛めていたのですが、それにもましてパニック障害の諸症状に長年見舞われていたのです。それで前回の終わりに、不定愁訴と言う言葉も登場させてしまったのです。
 もちろん前にも行ったように、病気なんてないと思えばないんです。僕にそう言わしめるのは、病いは気からだと本当に思うからです。けれどそれがコントロールできない。とてもとても難しいことなんです。パニック障害は、その発作時の条件が重なっただけでも、当初は発症していました。
 現在病気されている方がこの文章を読まれたら、随分乱暴な言い方で納得行かないと思われることと思います。その通りだと思います。ごめんなさいね。でも、決して諦めないでくださいね、前向きに病気と付き合ってみてください、治りますから・・・。殊にパニック障害を患っておられる方、決して諦めないでください。必ず治癒しますから。もがかないで闘わないで、あなたの信じられるものを信じてください。例えば傍にいてくれる愛する人のこと。一所懸命に力になってくれる、信頼できるお医者さんがいらっしゃれば、その人を信じて、前向きに生きていってみてください。また話が逸れましたね、今日はここまでにしておきます。

芝居と仕事と家庭 PART 5

2008-07-05 12:02:12 | Weblog
 造り酒屋での労働は、今考えてみると、病み上がりの自分にとっては、かなりハードなものでした。
 腰にしっかりとコルセットを装着して、冬は杜氏さんや蔵人さんたちと一緒に酒造りの手伝いをし、また日頃の酒タンクの管理、瓶詰めパック詰めの仕事、出荷や配送の仕事も時にはしました。
 水20ℓの入るアルミの桶を両手に提げて、ホーロータンクに入れるために梯子を上るというような仕事は、日常茶飯事。冬は氷点下、夏は30度を有に越す蔵の中で、こまねずみのように動き回りました。それでも冬はまだいいんです。寒さは何とか凌げるんです。冬はやることがいっぱいあって、動いていられるから・・・。
 しかし、夏は大変です。酒蔵の夏は、製品の出荷以外には比較的暇になります。まあ、冬にタンクいっぱいに詰めた酒粕を夏粕として取り出して袋詰めにするとか、何もやることがない時は、蔵周辺の草むしりや掃除。といっても、酒蔵は母屋も入れて二千坪の敷地でしたから、かなりの面積を要します。確かにきつくて、帰宅するとヘトヘトになって寝るという毎日でしたが、仕事がつらくて行くのが嫌だということはありませんでした。日々の仕事の段取りを付けて、今日は何をやろうかと考えることが僕には楽しかったのです。ただ体力、持久力のないことだけが残念でした。
 そんな日々を送っていた夏の日、あれはお中元の頃でもありましたか、営業の人について外回りに行き、小売店の倉庫に1升ビン10本入りの木箱のケースを下ろして回っているときでした。猛暑の中、熱中症になって倒れてしまったのです。
 意識はあったんですが、身体がピクリとも動かせません。このまま死ぬのかなと思いました。でも、もし病院に運ばれたら逆に気持ちで負けてダメになると考え、必死に休めば動けるようになるからと、頭と首を冷やしてもらい、何時間か耐えていました。ただ妻と子供のことだけを考えていました。こんなところでさよならなんてできるものかと・・・。ちょっと大袈裟のようにも思われますが、その時は真剣にそう思いました。
 元々メンタルな面までもを病んでいたので、ネガティブな部分が顔を出すと、必要以上な症状が襲ってきます。
 その時は3日ほど休んで、また復帰しましたが、1日も休まないことを目標にしていただけに、休んでしまったことがそのときの僕の一番のショックでした。
 そして、それをキッカケにまたちょこちょこと不定愁訴というものにも、悩まされるようになって行きます。

芝居と仕事と家庭 PART 4

2008-07-03 14:18:49 | Weblog
 昨日はなんか、解りにくいことを長々書いてしまいました。それでも今日はその続きです。またお付き合い願います。

 だったら今僕がしていることはやらなければならないことか、あるいはやりたいことか・・・。と、問われるとそこのところがどうも難しい。
 よく人に「やりたいこと、好きなことができていいですねえ」といわれることがあります。でも、なかなか素直に「はい」とは返事できず、「ええ、まあ」と濁して答えます。そんな自覚を持ってやっていないからです。
 たしかに、僕はお芝居が好きでその道に進もうと思ったことのある人間です。しかし、挫折も味わっている人間です。もちろん、このブログでご紹介して来た通り、とことんチャレンジしてダメだったというのでなく、途中で投げ出したという形だったんですけれど・・・。
 そうなんです。そこなんです。自分が納得の行くまでそのことに取り組めたか、挑めたかということ。何事も結果ではなく、その過程が大事なのではないでしょうか。
 いくら好きなことでも、その道で生きていこうとすれば並大抵なことでは持続はできません。むしろ大変なことの方が多い。
 僕の30代までの人生は、何をやっても長続きのしないことばかりでした。
 どんな仕事をしても、すぐにわかったような気になり、何をやっても底が知れているように思っていました。
 30そこそこで身体が思うように動かせなくなり、当たり前にできていたことが出来なくなったとき、もがき苦しみ、ようやくその中で、自分としてこの社会とどう関わっていくべきかを、真剣に考え出したといえます。
 若い頃の僕は、ただ食べていくためだけの労働など、卑しいもの。なんてとんでもないことを本気で思っていたんです。
 でも、1年余の働けない時間を経て、再び仕事に着いた時、普通に働けることの喜びを、初めて痛感しました。
 僕は33歳から35歳の誕生日の頃まで、約2年ある造り酒屋さんで働かせてもらいましたが、本当に充実した働くことの喜びをかみ締められる2年でした。
 働くということは、無心になること。無心になると、楽しくなります。またいろいろのことが見えてくるようにもなります。
 禅のことばで、「成り切る」ということばがあります。よくお芝居で、あの人は役に成り切っているといったように使いますが、実は無心にそのことに取り組んでいる状態のことです。
 例えば、トイレ掃除をしている時は、「ああ、やだなぁ、何で俺がこんなことしなきゃならないの? 」なんて考えず、ただただ便器を磨くことだけに専念する。料理を作るときは料理に専念し、遊ぶ時は遊ぶ事だけに一心になる。これが「成り切る」という事です。
 僕は働くという行為において、少しこのことが解りかけてきました。けれど、心がそうわかりかけてきても、身体がなかなか付いて来なかったと言うのが、その頃の僕の現状だったのです。

芝居と仕事と家庭 PART 3

2008-07-02 00:11:18 | Weblog
 僕の30代の幕開けは、奈落の底へと転がり落ちていくスタートとなりました。

 人間、やりたいこととやらなければならないことは、どうやら違うようです。大方の人は、本来やらなければならないことをやっていて、それを仕方なしにと考えている。自分には他に夢があるのだけれど、まずは食べていかなければならないから、この仕事をしているのだと・・・。けれど、それはやらなければならないことをやっているのです。大きな破綻もなくその仕事に従事しているのなら、おそらくはそうだと思います。そして、やらなければならないことの意味に気付いて、生きはじめた人が、やりたいことの出来ている人。少し大雑把で的を得てはいないかもわかりませんが、この世の中にやりたいことをやって生きている人は少ない。それができている人は、生業と副業、あるいは趣味の世界とうまくバランスの取れている人。人間万事生計を立てられる仕事のみが仕事ではなく、本来やるべき仕事、やらなければならない役割というものを持って生まれているものなのではないでしょうか。趣味と実益を兼ねた仕事をしている人、またやりたいことで生計を成り立たせている人もいます。しかし、それは安穏としたところから出来る事ではないのです。天才と人から言われような人であろうとも、それ相当の努力と修練は多少においてあるのです。
 ちょっと解りにくい言いまわしになってしまいました、御免なさい。何が言いたかったかというと、つまり自分は、やらなければならないことをやらないで、惰性のままに生きていたために、目を覚まされるように、病気を与えられた。
 これは多くの人たちが、病を得ることによって、生きることの意味や命の大切さを学んだと証言するように、僕もそのひとりになったということです。
 今更ここで、病気についてあれこれ振り返ることはしないつもりです。本来病気というものはないものかもしれない。こんなことを言うとおかしいんじゃないかと思われるでしょうが、いたって正気です。あると思えばどこまでもあって果てしなくあり続けるもの、それが病気です。人類はその病との闘いの歴史でもあり、故に医学は進歩し現代に至っています。しかし、病の克服や撲滅、消滅ということは難しく、むしろ複雑化する現代社会は、その病理を増やしている。何故なら闘っているから。敵と味方という対立の原理は、終わりなく繰り返され続けるものだからです。いわば戦争の原理です。憎悪や恐怖心といったネガティブな想像性が、そのエネルギーを生み出していく。人間は創造の動物。現代は過去の人々の創造の産物であり、また未来も今を生きる私たちの創造の結果となって行くもの。
 だから僕は、多少の危機意識を様々に植え付けられながらも、未来について楽観視し、希望を抱いています。でなければ、明るい未来は切り開いていけない。当然そのためにやらなければならないことはたくさんあると思います。
 ああ、話がかなり横道に逸れてしまいました。重ね重ね御免なさい。
 要するに僕は、30代を迎えるまで、自分の生きるべき道を生きず、やるべきことをしていなかったと、まあそういうことが言いたかったのですが、随分もってまわった文章になってしまいました。
 中途半端ですが、今日はこれで終わります。