ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

多治見市笠原アザレアホール公演「恋する詩人☆新美南吉」終わりました。

2013-04-09 21:47:28 | Weblog
 公演にお越し頂きました観客の皆様、そして笠原公民館スタッフの皆様に、この場をお借りして、心より感謝申し上げます。
 
 今年は新美南吉生誕100年を迎える年です。
 ひとり語りとして18年、その初期から南吉作品「手袋を買いに」をずっと語らせてもらって来ました。南吉がその童話作品で紡いだ日本語の美しさは、他に比べようのないほど素晴らしいものです。

 語らせてもらってきた感謝を込めて、生誕100年記念作品「恋する詩人☆新美南吉」を、またどこかで演らせてもらえたら、嬉しいなと思っています。
 南吉の恋の話を暴いていくような内容ではありますが、新美南吉の人間臭さを知ってもらい、身近で親しい人物像を発見してもらえたらと思っています。

 さあ、再演はあるでしょうかね?

ワタシのほんだな ⑥

2013-04-08 16:24:33 | Weblog
 新年度になって、この平成25年もいよいよ活発に、いろいろと動き出します。

 絵本を読み語る活動もそのひとつ。毎年その冒頭に、ワタシのおすすめの1冊を紹介するのですが、今年はガブリエル・バンサン「セレスティーヌ」~アーネストとの出会い~(ブックローン出版)を選びました。

 絵本といっても、ブックカバーに守られた、かなり分厚い本です。値段の方もワタシが所蔵する絵本の中では一段と高いものです。しかし、宝物のような1冊で、何時までも手元に置いて、今回のように久しぶりにまた手にとって読むと、はじめて読んだときと同じような感動が再び胸にあふれる1冊です。

 分厚いといっても、読むのにさほどの時間は要しません。それは言葉の書き込まれているページが少ないからです。が、繊細な言葉(セリフ)が的確に添えられ、登場するものたちのその微妙な言葉のニュアンスを、これまた繊細に読み添えていかなければなりません。
 ですから、おすすめの絵本ですが、子供に読み語る(読み聞かせる)となると、あまり適していなにのかもしれないなぁ~と、この記事を書きながら思っています。
 でも、ワタシは子供に読みましたけれど。そういうことでいえば、マンツーマンが適している本だと思います。

 1928年ベルギーはブリュッセルに生まれた、画家・絵本作家ガブリエル・バンサンは、絵本作家として活動を始めたのが54歳のときでした。
 その処女作にして代表作である捨て犬と少年との出会いの物語「アンジュール」(これは絵だけの絵本)という作品があります。そして「くまのアーネストおじさん」シリーズ。そのほかにもたくさんの素晴らしい作品を残しています。

「セレスティーヌ」は、「くまのアーネストおじさん」シリーズの原点とも言える作品で、くまのアーネストおじさんとねずみの女の子セレスティーヌの出会いを描いています。
 この作品は彼女が60歳のときのもので、今からもう25年も前の描かれた作品になります。

 2000年9月24日、ガブリエル・バンサンは惜しくも72歳で亡くなってしまいますが、彼女の作品はいつまでもワタシたちの手元にあって生きつづけ、また新しい出会いを生んでいきます。

 アーティストといわれる人たちの、本物の仕事というのは、永遠の命を紡ぎだすものなのですよねぇ。

 そう思いながら書棚の本たちを眺めていますと、また再び手に取られページを開かれて読まれ、再びの命の息吹の湧きいずることを待ちわびている本たちが、たくさんあるように思えてきます。

ワタシのほんだな ⑤

2013-04-03 17:44:59 | Weblog
 ワタシの家の本棚には、普通の家の本棚ではあまり見かけないだろう類の書物のコーナーがある。
 つまり演劇書の並ぶ棚である。といって、さほどに大量な冊数があるわけではないが、それでも書棚の3段くらいは占めている。

 演技論・演劇論といった専門的なものから、戯曲はもちろんのこと、著名な俳優の書いたエッセイ、演劇評論家の著作物、また劇作家の戯曲論に至るまで、まあまあ、あるにはある。

 しかし、欲しくても手に入らないままで、未だに入手できずに書棚に収められないものがいくつかあって、懐に余裕があり神田神保町あたりに出かけていく機会が訪れたなら、まず買いたいと思うのが、ベケットの作品集だ。
 それに、今更だけれどもスタニスラフスキー「俳優修業」。若い頃に読み果せなかった心残りがあるからで、ブレヒトだって、まともには読み切れていない。

 がしかし、ワタシのバイブル的演劇書は? と問われれば世阿弥の「風姿花伝」だと答える。
 殊に、ひとり語りとしての活動を始めて、その思いは強くなった。

「風姿花伝」は文庫本でしかもっていない。そういうことでいえば日本の古典芸能の類の本が極力少ない。
 演劇図書を少しづつでも増やしていくのは、ワタシの夢である。

4月はじめての更新になります。

2013-04-02 14:01:19 | Weblog
 4月になって、テンプレートも遅まきながら春めいたものに変更しました。
  
 桜は、今を盛りと咲いていますね。そう、この辺りで3月中に開花して4月のはじめに満開を迎えるなんて、近頃ではなかったことではないでしょうか?
 
 何時でしたか、入学式に桜の開花が間に合わないというような、そんな年もあったのに、今年に限っては入学式の頃に散り始めたらどうしようという勢いです。
 どうか、激しい雨や風に曝されることのない様にと、祈るばかりです。

 さて、桜にはいろんな名所があって、花見客をたくさん集めたりするものもあれば、何々桜と名前を命名されて、見物人を多く集める一本桜もあります。
 かと思うと、花の咲くまでその所在すら気に掛けられず、開花してはじめて「ああ、あそこにも桜があったんだ」と気付かれるような名もない桜もあります。

 人知れず咲きながら、それでも見事な一本桜や山桜というものはあって、何か桜は人に似ているなぁ、と思うことがあります。

 名もなく、世間にあまり知られずとも、美しく見事に人生を行きおおせる人も世の中には多くいて、そういう人こそ尊敬に値する人ではないかと、思いを馳せてみたりします。

 居住まいをただした生き方というのは、単に道徳的で品行方正な、というのではなく何事にもポリシーを持った生き方、常識にさえ流されない生き方なのではないかと、思う今日このごろです。

 桜を観て思うことは、巡る春の重ねと共に少しづつかわり、そうやってまた今年の桜を眺めています。

 桜は毎年同じように咲きます。が、本当は厳密にいえば去年とは違っていて、樹齢を増し、枝ぶりも多少においてかわっているのかも知れず、人の目に同じに見えるに過ぎません。
 人もかわります。そこに止まってはいません。けれど、流されるのではなく積み重ねながら、自らの足の歩みのひとつひとつを刻みながら、それをしっかりと記憶して、歩みをつづけ、そうして桜のように美しい散り際を迎えられたら最高ですね。
 その為にはどうすればいいのか、やはり一歩一歩をどう歩くのかに掛かっているかと思います。