ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

対話のススメ。

2011-09-29 13:20:21 | Weblog
 親睦を深めるにしても、対立を深めるとしても、相対するモノに向かって対話を交わすことが大切ではないのだろうか?

 面と向かわないで非難を繰り返すのでは、ただの喧嘩であり極端なことをいえば、戦争の論理で事が運んでいるにかわりはない。

 成熟した市民社会を成り立たせていくのは真摯な対話をすること、根気のいい対話を重ねていくことしかない。議会とはそういう場所であるべきで、そういう対話のスペシャリストの集団を、目指すべきではないのだろうか。

 おなじテーブルに着いて、ひとつの問題について議論を進めていくためには、共通の言語を培っていく必要が生じる。
 これは日本語という共通言語を意味していっているのではない。もちろん、私たちの共通言語は日本語であるが、おなじテーブルについて議論を交わすための言語を指していっている。

 それはそんなに難しいことではない。いかに感情という厄介なものを最小限にとどめて、冷静な状態で言葉を尽くせるかということだ。そしてそこには、表現力・ボキャブラリーということも加味される。

 言語を操るということは、誰にも容易く出来るものではない。自分の気持ちをいかに正確に相手に伝えるかということは、たいへんに難しいことだからだ。

 それは日ごろの会話から育み、鍛えていかなければいけないことだ。それがなければ一足飛びに対話へとは運べない。

 社会一般ににおけるトラブル、行き違いの要因は、言葉が尽くされていないことから生じる誤解や行き違いであることが多い。

 互いに分かり合えるということは容易ではないということを念頭において、私たちは対話を試みる方向に、道を進めていかなければいけないのではないだろうか。

読書の秋というべきか・・・・・・。

2011-09-27 09:35:30 | Weblog
 残暑が去って、嵐が過ぎて、朝夕の冷えを肌身に染ませながら、早い日暮れに寂しさを感じつつも、夜長の秋のたたずまいに身をおいて、じっくりと書物の項を繰る今日この頃。

 別にさ程ののどかさも優雅さもないのだけれど、ただ淡々とそんな時間の流れが、立ち動く日中の後に、エアポケットのようにポッカリと生まれる。

 時には黙読で、時には音読ですすめる読書。その手にする書物の表題は、阿川弘之著「志賀直哉」(上)。

 あらためて志賀直哉全集に取り組む前に、その手引きとしてうってつけのこの一冊を開いて見たのだが、たまらなく面白さがあふれてきて、とまらなくなった。

 作家志賀直哉の肉声が聞こえ、その人となりが迫ってくる。夜長を待てず隙間を縫って日中もよみすすめ、今日はいよいよ(下)をひらく。
 
 代表作「暗夜行路」執筆のくだりの詳しいところが書かれてある下巻。

○ しみじみと 時世はなれて ひとりなり 書物は友よ 寂しからざむ


秋蝉は・・・・・・。

2011-09-23 09:20:31 | Weblog
 暦はとうに9月の半ばを過ぎ今日は秋分の日、秋の彼岸のお中日にあたります。

 急に冷え込んだ昨夜半から今朝にかけて。私は今朝長袖のTシャツに袖を通しました。
 
 秋晴れの空は高く澄み、嵐の爪あとにもわれ存ぜずのように雲は悠々と流れ、陽は明るいのです。誰のうえにも明るいのです。

 秋蝉は、通常哀れみをもって人の耳にとどくものですが、昨日までの秋蝉は夏の名残の暑さの中で、コオロギなど秋の虫たちの勢いを押しやるごとくに鳴いていました。

 が、今朝はまだなにも鳴かない静かさのなかに休日の朝を迎えています。
 それを清々しく迎えられる人と、癒えぬ悲しみの中に迎える人のある同じ世。

「海潮音」アンリ・ドゥ・レニエの詩「愛の教」はこう詠います。

 いづれは「夜」に入る人の
 をさな心も青春も、
 今はた過ぎしけふの日や、
 従容として、ひとりきく、
 「冬篳篥」にさきだちて、
 「秋」に響かふ「夏笛」を。
 (現世にしては、ひとつなり、
 物のあはれも、さいはいも。)
 ・・・・・・


○ 秋蝉の 泣く意志見たり 木々そよぐ 逝きて帰らぬ もののあはれよ (青蜩庵)

台風15号が近づいています。

2011-09-21 11:11:05 | Weblog
 昨日は大雨の降った多治見にちょうど居合わせました。見る見るうちに道路が冠水し、川のようになった道路を突っ切って、2時間半くらいかけて我が家にたどり着きました。

 台風はこの先静岡辺りに上陸する気配です。この辺りもいちおう強風域に入っていますが、今のところ強い風も雨もありません。

 どうぞこれからも雨や風に注意してください。

形見の蔵書。

2011-09-15 15:30:20 | Weblog
 先日なくなった義父は、たいへんな読書家でした。
 40代で大きな病気をされて、何ヶ月もベットの人となったときから、その蔵書が増えていき、かなりの冊数が形見として残りました。

 生前義父とは、さほどに深く文学について語り合ったことはありませんでしたが、互いにどんな著者の何という本を読んでいるかで、気持ちが妙に通じ合うというようなことが度々ありました。
 それはあくまで私の思い過ごしだったのかもわかりませんが、しかし読書傾向の共通性はその書棚に並んだ著書の種類でわかるような気がします。
 また、義父は文芸春秋の購読者でもありましたから、私以上に新しい芥川賞作家にもくわしく、その傾向や作風も理解していたようです。

 私が義父に対してかなわないと思うのは埴谷雄高著「死霊」を第九章まで読んでいるということ。私も何度かチャレンジしていますが、第三章くらいで挫折してしまいます。
 妻に言わせると「本当に読んでるんだか・・・・・・」と茶化しますが、あの本をただ書棚の飾りのために購入する人はいないと思います。

 全集本もいくつかあって、芥川龍之介・夏目漱石・志賀直哉全集が硝子扉のついた書棚のメインコーナーに鎮座し、その傍らに司馬遼太郎ものがつづきます。

 生前無神論者的な風で、死後の世界も否定的な義父でしたが、その割りには水上勉の本や禅の入門書なども蔵書にはあって、もちろん埴谷の「死霊」読破ということも考えて、形而上学的見解を内面にめぐらせておられたことは間違いのないところでしょう。

 今鬼籍の人となられて、ほんとうはどうでしたか? と、教えてもらいたく思えてなりません。

 その義父の蔵書を私は今回貰い受けることになり、またらためて義父の内面世界に触れる思いに駆られています。
 まずは取っ掛かりに志賀直哉全集を手に取ろうと考えていますが、その予習をかねて阿川弘之著「志賀直哉」を読み始めています。

先程の記事のつづきです。

2011-09-13 16:04:17 | Weblog
 義父もまた去年の秋ごろより、病院に入院し要介護の身になっていました。
 認識力もだんだんに衰え、はっきりとしている時と深い霧の中に包まれてしまう時がランダムに訪れ、50年以上を共に過ごした夫婦も、この1年ほどは離れ離れに暮らす日々がつづきました。

 義母の亡くなった翌日の通夜の夕方、私と妻は義父に最後のお別れをしてもらおうと、介護タクシーを頼み義父の入院先へ迎えに行きました。

 通夜のはじまる1時間ほど前、棺に納められた義母の前へ、車椅子に乗った義父を連れて顔のよく見える位置に止めました。
 義兄が義父に事の次第を言い含めるように話しかけ、最後の別れを促しました。
 義父はひとことも声を発しませんでした。しかし、そのまなざしは遠い霧の彼方の人のものではありませんでした。しっかりと目の前の現実を受け止めている目でした。

 熱い涙に咽んだのは、その場に居合わせた家族や親族の人たちでした。

 その日から10日と経たない9月4日の午後10時過ぎ、義父も帰らぬ人となりました。

 義母の葬儀の朝に義父の弟、私の妻にとってはおじにあたる人も亡くなり、妻はこの10日という短い日々のなかで3人の身内の野辺送りをしました。

 義母と叔父さん、どちらが義父を呼んだか、そんなことがささやかれるのも無理のないことです。

 肉親に別れるということは、誰にとっても悲しいことです。そしてさまざまな思いのめぐる出来事です。
 しかし私は誤解を恐れずにいうのですが、死は必ずしも悲しいことだとは考えていません。いわんや自然死において、天寿を全うしたのならなおさらに・・・・・・。

 それでも、残されたものに残る遣る瀬無さというものは、どうしようもなく消えないものです。だからこそしめやかに悼み、故人を見送らなければいけません。

 今週の金曜日、私は武並コミュニティーセンターで宮澤賢治「銀河鉄道の夜」を朗読させてもらうことになっています。
 義父や義母はもちろんのこと、今年2011年東日本大震災で亡くなられた方も、日本中世界中の旅立っていかれた方々への哀悼の意を込めて、この作品を読まさせてもらいたいと思っています。

 それにしてもほんとうに嵐のような、10日間を経験させてもらいました。<合掌>

また1週間ほどあいてしまいました・・・・・・。

2011-09-13 11:27:21 | Weblog
 また1週間ほど更新が出来ませんでした。
 前回、ここのところの「嵐のような出来事」について触れてしまいましたので、お話しすることにします。

 8月の終わりから9月のはじめにかけ、2人もの身近な人の野辺の送りをしました。
 それは妻の両親、私にとっての義父と義母にあたります。

 8月26日(金)午後8時過ぎ、義母が入院先の市内の病院で息を引き取ったと、私は仕事先の可児でその終了直後に電話をもらい、急ぎ病院へと駆けつけました。

 介護を要する身となって、近頃では車椅子に座っていることもままならなくなっていた義母と、私が触れ合うのは月に一度の病院への通院時だけでした。が、それも7月までのこととなり、その終焉の場所となる医療介護の受けられる病院に移って一週間足らずの出来事でした。<つづく>

 

 

9月に入ってはじめての書き込み・・・・・・。

2011-09-07 18:23:43 | Weblog
 9月に入って台風12号が大暴れをし、紀伊半島などに多大の被害をもたらしてようやっとに過ぎていきました。
 この嵐によって被災されて方々、犠牲になった方々へこころよりの哀悼を捧げますとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。

 さて、私たちの住む地域は被害もなく終わりましたが、私事ながら8月の終わりから9月にかけて、我が家にも嵐のような日々がつづきました。

 どのような出来事がおこったのかは、次回よりじっくりとお話しようと思います。