ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

朗読について 1

2012-04-28 20:44:12 | Weblog
 今更ながらに朗読ってなんだろうと思います。上手い下手というのをどんな判断基準で分けるのか・・・・・・。

 技術的には未熟でも耳に残る朗読、心に響く朗読というものもあります。それは自分の言葉で腹のそこから語られたもので、けれん味のないストレートな朗読です。
 でも、それはいつも同じように出来るものではありません。様々な条件が揃ってはじめて出来るもので、自分の意志とは異なるところのものです。

 ドラマティック・リーディングというのがありますが、これ音の出所や感情の起伏がずれていたりすると、とんでもなく聴き辛いものになります。指導している先生すらがそれをやっていたりすると、「あああ」と思うことがありますが、指摘は出来ませんので、それきりです。お年寄りとか子供の声は、決して口先で表現してはダメなんです。
 小手先の高低でやってはいけません。

 的確に感情表現が出来なかったら淡々と読んだ方がいいのですが、この淡々と読むというのが、実は一番難しいんです。

 声というものには表情があります。明るいか暗いか、その時の健康状態や精神状態によっても違っている声の質を、どうコントロールして淡々としたものにするかというのは実に難しい。
 やっているように思ってらっしゃる方々もおありでしょうが、おそらく大方は単なる色の付かない無表情な朗読をされているんです。

 淡々といっても、それはまったく感情を入れないということではなく、的確な間とリズムによってその文章の内容を理解し、伝えることで、そのためには日常とは違う感情表現が必要になってきます。
 たとえば、感情の昂ぶるところで大きな声を出すのではなく、ぐっとお腹に力を込めて声を下方に下げてやるとか、いろんな方法がその場面や状況によって試みられます。

 まあ、いろいろいいましたがまず第一には、自分の声を知ること。その特徴や長所短所を知って、得意なところを伸ばし、苦手なところを克服する。これが基本的なところでしょうか?

 これから時々、「朗読について」気まぐれにつぶやいていこうと思います。
 ご興味があればお読みください。質問なんかにもお答えする用意があります。もちろん反問にも。

 と書いても、あまり来ないかな~? 地味ですもんね。

南天の生命力。

2012-04-25 15:09:36 | Weblog
 玄関前の鉢植えの、葉牡丹と一緒に植えてあった南天の木が、この冬葉っぱにみんな斑が入り、散ってしまいました。
 もう枯れてしまったと諦めていたのですが、枯れたと思っていた木の幹の二股に分かれた間から、新しい芽が伸びてきました。

 柔らかい赤ん坊の茎が、やがて硬い枝葉になって広がっていく、その日一日の成長が、楽しみでなりません。

 私は毎日怠らないように水をかけ、その生命力の強さを讃えつつ、再生したこの木を見守ろうと思います。
 狭い鉢の中、条件の悪い中で耐えて生命を繫ぐ南天の木の美しさが、心に沁みます。

ポジティブシンキングとネガティブシンキング

2012-04-23 11:36:48 | Weblog
 プラス思考とマイナス思考といってもいいのですが、でも楽観主義、悲観主義というのとは少しニュアンスが違うのかもしれません。

 さて、昨今この二つのものが対立しているようなことが多いのではないかと、思えてなりません。
 それは国の内外というおおきなくくりの出来事でも、身近なことでも同じなのですが・・・・・・。

 本来この二つの傾向は、人間が行きて行く上で兼ね備えておかなければいけない二つの思考ではないかと考えます。
 だからどちらかに大きく傾いて暴走することは、好ましいことではありません。

 将来に向けて理想を語ることは素晴らしいことで、その夢の実現こそが私たちを明日に向かわせる原動力となり、創造性を持って生きる構築力ともなります。
 また、危機意識や危機管理というものも、本能的な部分はもちろんのこと、生命の維持と、種の存続のためには欠かせないものではないでしょうか。また、よりよく保つための方法論としても。

 そういった二つのもの、本来互いにバランスよくあらねばならないものが、対立してしまうことの不幸は、計り知れないことではないでしょうか。

 現代社会はこれにプラスされて、被害者意識と加害者意識というものが加味され、いっそうに問題を複雑化させてもしまっています。

 これにかてて加えて利害というものが絡んでくると、もうお手上げですが、そこはややポジティブシンキングを勝らせて、物事のよりよい解決策は何かという方向を見出していかなければなりません。

 まず、どちらの立場においても私こそが正義、私こそが正しいという思考回路を捨てるべきです。

 

散り急ぐな桜。

2012-04-19 13:10:02 | Weblog
  
 今を盛りと咲き誇る桜
 温き陽射しに匂い立つ花
 柔らかな風にのって近づく蜂の羽音や 
 花めぐる若き燕の尾羽の撥ねの強さに
 ゆれるその花弁よ
 やがて吹きつけるあらぶる風に
 耐えて咲きつづけよ
 決して散り急ぐな 桜
  
 決して散り急ぐなよ 桜よ

桜の記憶。

2012-04-17 22:46:16 | Weblog
 はじめて桜を桜として眺めたのは幾つの時だったのでしょうか?
 やはり、小学校の入学式の日校門をくぐり、校庭に咲く桜の花の下で記念写真を撮った、そのときの桜だったのでしょうか?

 家族で出かけたお花見、町の中央を流れる川の土手づたいに立ち並んだ桜並木を眺めながら歩いた、あの夜桜だったのでしょうか? でもそのときが小学校に入学以前か以後だったのかがはっきりしません。

 今年で52回目の春を迎えたわけですが、もし小学校入学の日をスタートとすれば、46回目の花見ということになりますが、さて幼少時毎年決まって桜の花を愛でていたかどうか・・・・・・。

 生意気にも「僕は満開の桜よりも葉桜の方が好きだ」などとほざいていた、思春期のころが思い出されます。斜に構えて気取っていたんでしょう。

 今年の春は、入学式までに桜の開花が間に合わなかったところが各地に見られました。現代の子供たちの桜・花見の認識は、なんさいころからが平均値としてあるのかな?
 そんなことを考えてみたりします。
 どんなにあがいても、100回以上桜の開花を見ることは非常に難しいことなのですね。私もあとどれくらい、桜の花を見ることが出来るのでしょうか?

◎春ぞかし 咲けよ名もなき 一本桜

 

マナーについて。

2012-04-16 09:48:07 | Weblog
 やっとこの辺りも桜が満開となりました。
 ですが、車の中から眺めるだけでまだしっかりと花見は出来ていません。

 しっかりといっても、別にご馳走持って花見に出かけ、花の下で酒盛りをしようという計画はありません(来週町内の花見はありますが、まあこれは懇親会です)。

 さて、お花見といえばやはり、公共のマナーが大切ですよね。ゴミは持ち帰る。騒ぐのもいいですが、周りの人たちや近辺の住宅地などに迷惑をかけない度合いでとか・・・・・・。

 この週末、私が気になったマナーについて一言申し上げます。
 まず、映画を鑑賞されたときのマナーなのですが、やはり映画は最後のエンドロールまで見終わってから、館内に客電が付くまで立ち上がらないというマナーを心がけるべきだと思います。もちろん、その映画が面白くても面白くなくてもどちらの場合ででもです。
 テレビと違って映画は自分でチケットを購入して、いわばそれをいかなる場合によろうと選択して出かけたわけですから、最後まで鑑賞するというのがマナーではないでしょうか。
 どうしてもつまらなすぎたり、急な事態に退場される場合は、やはりまわりで観ている他のお客さんの鑑賞の迷惑にならない立ち上がり方、去り方を心がけたいと思います。

 映画は文化です。そしてそれをどういう態度で鑑賞するかもその文化のうちなのです。

 もうひとつ。映画でもそうですが、あらゆるイベントでチラシや案内が配られます。
 それをいったん受けとったならば、いちおうその場からは持って帰りましょう。
 その場にゴミとして捨て去るのは、やはり公共マナーに反する行為です。
 いらなければ受けとらない。受けとってから必要ないと判断された場合でも、いったんは持ち帰り、その場の主催者や関係者の目から離れたところで処分する。これがマナーというよりは、気配り心配りというものではないでしょうか。

 この週末に感じたこと、マナーについての一言でした。

スタンスとポジション。

2012-04-10 11:21:53 | Weblog
 野球、ベースボールのシーズンがスタートしたのでこの題名からすると、なんかスポーツねたの話題かと思われるかもしれませんが、別にそうではなくて自分のことなんですが・・・・・・。

 確かに今テレビではメジャーの放送があって、マリナーズVSレンジャーズの試合で、ダルビッシュ投手のデビュー戦をやっていて、初回に4点取られるという大変な始まりだったわけですが、味方が逆転してくれて勝ち投手の権利を得て6回2/3で降板しました。因みにイチローはダルビッシュから3安打。川崎も1安打しました。

 まあそれはそれとして、スタンスとポジションということです。
 野球でいえばスタンスはバッターなどの立ち位置、姿勢。ポジションといえば守備位置というのを連想します。ので、その意味の区別がつくわけですが、「場所」とか「位置」とか、案外どちらも意味的には似通った言葉なんでしょうか?

 これを生き方・在り方ということについて当てはめると、微妙にニュアンスを異にしていくようにも思えます。といって、私は英語に強くないのであくまで感覚的にというか日本語で言うところの外来語的ニュアンスでのスタンスとポジションなんですが・・・・・・。

 私は現在どのようなスタンスでどのようなポジションにいるのか。
 殊に組織の中に身を置いている方は、そのようなことを考えてしまうことがあると思います。
 その場合では、会社においてとか、その所属する団体においてということになります。

 私のような直接的所属のない、いわばしがらみもなくこれといってしっかりとした肩書きに支えられてもいないものには、ますますそれが曖昧でわかりにくいものになるのですが、それでもそれについて考えみるわけです。おそらくは社会的なという意味において。

 作家堀江敏幸氏の著作「回送電車」の中に「無所属の夢」という一編がありますが、私もそのように何にも所属しない、左右上下どちらにも偏らない生き方を常々したいと思っているわけです。
 ひとことに「自由」という言葉を簡単に口にしてみたりしますが、これが実に難しい。難しいことです。先ほどレンジャーズは11対5で勝利して、ダルビッッシュは勝ち投手になりました。ラッキー!!

別役戯曲を読む。

2012-04-07 13:40:38 | Weblog
 さほどに新しい作品ではないが、ここのところ別役実作品を立て続けに読んでいる。

 戯曲集「山猫からの手紙」に収録されている3作品、そして今「太郎の屋根に雪降りつむ」のなかの表題作と、「うしろの正面だあれ」の2作を読み、最後に「そして誰もいなくなった」を1作残している。

「太郎の屋根に雪降りつむ」は二・二六事件を題材にした戯曲で、別役作品としては長い上演時間のものだ。私はこの初演を文学座のアトリエで観ている。
 髪の毛フサフサの角野卓造さんが出演しているといえば、どのくらい前かがわかるかもしれない。
「そして誰もいなくなった」は、下北沢本多劇場の杮落としの3作品の中のひとつとして上演され、これも私は観ている。と書けば、本多劇場が出来た年なのでわかる人には何年前のことかがわかると思う。

 高校時代から読んできている別役戯曲を、今読み返す意味は何なのかといえば、私の戯曲の吸収力・理解度(読解力)を推し量るにはいちばん適したテキストだろうと思ったからだ。
 そして、戯曲を書くにあたっていかにジャブのように影響を頂いているかということも確認したかったからだ。

 この戯曲集のあとがきで別役さんはいわれている。原稿換算110枚くらいで、大体1時間30分の上演戯曲になる。これが演劇体験するに適した持続時間だと。
 後20枚枚数が増えるとこれが1時間50分くらいになって、休憩10分を入れて2時間か、休憩なしの1時間50分。しかし、別役さんはその最後の20分がつらいとおっしゃっている。
 
 その通りだと思う。しかし、戯曲というものをいろいろ書いてきていると、いつか登場人物のたくさん出てくる尺の長い芝居を書いてみたいという色気が出てくる。
 私みたいな自分たちで上演するためにだけ書いているような劇作家でも、そういうことは考える。

 今、別役作品を読んで大いに思うことは、これを不条理劇と意識して読むようなことはしないということだ。役者にとって自分に与えられたどのようなセリフも自分自身のリアリティーの範疇の問題で処理しなければならない。
 その作品をどう仕上げるかは演出にゆだねられたことで、役者はどのような役であれその世界でどう生きるかである。たとえ生きていないものであってもそこに存在する限りにおいては、存在者としての空気を醸さなければならない。

孤独は人を呟かせるか?

2012-04-06 12:15:10 | Weblog
 私は最近町中で、大きな声で独り言を呟くお年寄りに何人か行き逢いました。

 その最初は、灯油のセルフ販売機の前で身の上話をはじめた人でした。
 いかに自分は苦労して働いてきたか、それが今いかに報われていないかを機械を前にして説き続けているようでした。
 次に行き逢った人は、町の通りを歩きながら見るものやなにやら手当たり次第に愚痴や文句を言っている人でした。まるですれ違う人間などまったく目に入らない如くに平然と、自分だけは自室の中でひとりだけでいるかのように話すのです。

 以上の2人はどちらも男性でしたが、今一人女性の場合は独り言というよりは、架空の話し相手を傍らにはべらせて散歩しながら世間話をしている風でした。
 これが一人で受け答えをしているのならあたかも一人芝居か不条理劇の類の演劇的空間を醸し出すのですが、そこはそれ一方的な一人しゃべりで、相槌は打ってくれないけれども確かに見えない話し相手を連れて歩いているのでした。

 しかし私はその光景を目にし、その声を聞いてもすぐさま異様なものとして遠ざけようという気にはなれませんでした。
 むしろひと昔前には都会だけに見えた孤独の引き出す現象が、いまや地方の町の町角にも普通に現れたのではないかという危惧でした。

 人は話し相手が必要です。自分の気持ちを聞いてくれる聞き手がほしいものです。
 ただ聞いてくれるだけで心は少しおだやかになれるものではないのでしょうか?
 だったら、先の人たちはみな一人で暮らす淋しい状況に置かれた人たちでしょうか?
必ずしもそうではないと思います。家族があっても会話が交わされなければ、一人でいるよりも直のこと淋しい。
 これは年齢に関係なくあることだと思います。人は会話を欲している。しかし、会話は一方的な話では成り立ちません。キャッチボールが必要です。
 何を語り何を答えるのか、私たちは話すということがどういう事なのか、学び直さなければ行けないのかもしれません。

4月はじめての更新になりました。

2012-04-05 10:18:38 | Weblog
 ここのとろ少し落ち着かない日々で、ついついブログ更新が途絶えました。
 いやあ~、4月に入っても寒いですねえ。

 一昨日は春の嵐が吹き荒れましたが、山里は冬に逆戻り、山は雪です。
 それでも、春の気配はまわりに芽生えだして、昨日は畑の土手に顔を出した土筆を摘み、休耕田の湿地に繁殖するセリを摘んで頂きました。また、今年3回目のふきのうとうを採っての蕗味噌を作りました。

 さすがに4月ですから、もうとっくに付け替えなくてはと思いつつ、車のタイヤ交換がまだ出来ていません。用のないときには雨が降り、晴れてるときには時間が作れないという悪循環が続いています。
 今日は時間が作れそうなのに、空模様が悪く先ほどもまた雨がパラパラしていました。
 そして何よりも寒いです。

 もう来週には各学校で入学式が行われ新学期が始まるのですが、桜の開花は間に合うのでしょうか?
 我が家に咲く梅は咲ききることも出来ないまま、この寒さに震えているようです。

 また一昨日の嵐で小屋のトタンが2枚ばかり飛び、めくれ上がっているものもあるのですが、まだ修繕に手を付けていません。

 もう少し暖かくならないものでしょうか?