ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

朝の庭に集う鳥の正体は?

2013-03-29 15:47:39 | Weblog
 庭の木々に集って、まだ若葉の芽吹きのない枝々を飛び交う3~4羽の小鳥たちは、いったい何という名前の鳥なのか?

 頬のところが白かったのでホオジロかと思いきや、ホオジロという鳥は頬のところが線上に白くて、円く白いわけではないので違うみたいです。

 むしろこの鳥は、シジュウカラの仲間なのではないかと思うのですが、確証がありません。なにしろ窓から肉眼で眺めただけなので、細かな色合いなどがはっきりしないのです。
 体長は15cmほどでスズメくらいでしたが、鳴き声までは聞き取れませんでした。

 裏の薮では、ウグイスも日増しに上手に鳴き出して、この辺りでもそろそろ桜が開花をはじめました。
 我が家の庭の梅の花は散りはじめ、その根本には八重のスイセンが花を開こうとしています。

 華やかな春の彩りに満ち始めた庭に来るその鳥の正体、明日の朝は双眼鏡で監察してみようと思います。

ワタシのほんだな ④

2013-03-25 21:39:05 | Weblog
 二十代の前半つまり独身時代、月に1万年前後を本代に充てていた頃がありました。
 今から思えばワタシにとってとても短い、本の大名買いの時代です。
 
 毎月刊行される梅原猛著作全集や、筑摩書房から刊行された宮口しづえ全集を買ったり、とにかくその頃は文庫本ではなく単行本をたくさん購入しています。

 その中でも、一際思い出深いのは向田邦子もの。「阿修羅のごとく」や「幸福」などのドラマのシナリオ本や、直木賞受賞作「思い出トランプ」。「隣りの女」や「あ・うん」といったドラマを小説化した作品など、かなりの量の本が単行本で蔵書されているのです。

 それはつまり、向田邦子があの痛ましい飛行機事故で、台湾上空に消えてしまった前後のことです。
 爆笑問題の太田光氏のごとく、ワタシも子供の頃からの熱烈な向田邦子ファンでした。
 年齢から言えば、ワタシの母親に匹敵する年代の人でしたが、あれは恋に近い感情ではなかったかと思えるくらいに、向田作品を愛していました。
 もちろん、それは文筆作品よりも以前に、そのドラマ作品からと言えるのですが・・・・・・。
 
 さすがに初期の頃の、「だいこんの花」や「時間ですよ」は彼女の作品という認識はなく好んで観ていたのですが、その後の「寺内貫太郎一家」などからは、向田作品ということを意識して観始めています。

 そのようにかなりの向田作品の単行本が蔵書されているといっても、何故か随筆(エッセイ)ものにいたっては、「霊長類人科動物図鑑」以外はみんな文庫本でしかなく、「父の詫び状」は文庫本で2冊もあるのです。
 おそらく、すでにあるにもかかわらず、また買ってしまったんでしょうが、古書店で向田邦子と著者名の入った本の背表紙を見ると、つい蔵書にあるけれども手が伸びるということもあって、複数冊書棚に存在するということが、もしかするとまだあるかもしれません。

 近年、好きな作品で文庫本しかないものを、古書店で単行本を見つけると、あえて買い足すということを故意にしています。
 
 新刊で購入することが出来なかった貧窮の頃(今は豊かになつたというわけじゃないですが)に、仕方なく図書館で借りて読み、数年後文庫化された時にやっと手に入れ、その時の悔しさを晴らすように古本の単行本を買い入れる。なんともいじましい行為ですが、ついついやってしまうのです。

4月7日(日)の公演案内。

2013-03-24 18:24:18 | Weblog
 来る4月7日の日曜日に、多治見市笠原中央公民館アザレアホールにて

 100人のプレミアムなセカイ VOL・25
 いちかわあつき/加藤純子 
 二人語り「恋する詩人☆新美南吉」~生誕100年に捧ぐ~

 公演いたします。
 加藤純子さんとは去年の秋につづいて二度目の共演をさせてもらいます。
 二人語りと題されていますが、さて、なんといえばいいのでしょう。
 リーディング劇? トーク風リーディング? 立体朗読劇?
 この二人だから、この二人にして出来上がる未体験なセカイで持って、新美南吉の作品 を、恋のエピソードをご紹介して行こうとただいま稽古中です。

 場所   多治見市笠原中央公民館アザレアホール
 
 時    2013年4月7日(日)13:30開場 14:00開演

 チケット 1000円 (全席自由)

 プレイガイド 多治見市笠原中央公民館 多治見市文化会館 まなびパークたじみ

 <主催> 多治見市笠原中央公民館 TEL 0572-43-5155
                  FAX 0572-43-651

 限定100人のプレミアムな舞台を、よろしくお願いします!

春を、頂きました!

2013-03-21 21:02:06 | Weblog
 我が家の梅の花もようやく開花しました。
 
 そこで、スギ花粉やらなにやらの飛び交うのに、外での作業はまずいかなと、ややためらいながらも、やっぱり暖かくなって来れば畑作業に着手したくなってきます。

 槌を起こして肥料を入れて、いつでも植え付けできるように支度して、何やかやと片付け仕事をして、それでもう午前中が終わりかけてしまいました。

 溝に流れるまだまだ冷たい水で道具を荒い、ふと梅ノ木の根本を見れば、あちらに一つこちらに一つと、ふきのとうが顔を出しているではありませんか。

 これで今夜のご飯のメニューは決まりです。ふきのとうのてんぷらです。もちろんふきのとうだけというわけにはいかないので、他のてんぷらの種も買いに出かけましたが、やっぱりメインはふきのとう。

 けっこうな数が採れたので、明日はふき味噌を作ろうと思っています。
 まあ毎年の定番ですが、そういえばふき味噌に合う辛口の田舎味噌を切らしてました。
 どうしよかなぁ~、わざわざかいにいくのもなぁ~、ありもんですましておきましょうかねえ。

 まずは春の恵みを頂きました。次は土筆かな? 三つ葉かな? そのうちに野蒜なんてものも出てきますねえ。

 畑にはわずかですが、わけぎも芽を出し始めています。

マスクをはめて歩く、春分の日の朝。

2013-03-20 13:40:05 | Weblog
 昨日は陽射しもあって暖かな1日でしたが、今日は朝から薄曇りで気温も少し低くかったのでしょうか?  
 私はしっかりマスクをはめて、町まで歩いて出かけました。

 介護の必要となった母親を家に引き取ってもう8ヶ月。町中で母親がひとり暮らしをしていた家にも時々出かけていって、様子を見ます。
 ことに今日20日は、水道の検針の人がメーターを量りに来る日なのです。

 そんなの勝手にやっていってもらえば? といわれるでしょうが、残念ながらむかしの町中の家で、メーターが外にはなくて家の玄関の中にあるので、施錠を開けておかなくてはなりません。
 それに今日はお彼岸のお中日(春分の日)ですから、まあ仏壇もそれなりにしておかないと・・・・・・。
 
 検針の人は必ず9時半から10時の間に来てくれます。ほんの少しだけお話をして「ご苦労様」と見送ります。
 待つ間の時間に書き物をしたり本を読んだりして、そうして見送って、仏壇を参って帰途に着きます。
 
 その町中の家は、私の生まれ育った家なのですが、そうしてその家も、もう住まなくなって、いずれは消えていく運命なのですが、今私には何の感慨も浮かんできません。
 確かにその空間には家族で暮らした時間があり、様々な思い出が詰まっているはずなのですが、そういったものものに浸る気にもなれない、何かがあって、マスクをはめて歩く、春分の日の今日の朝のように、私の心はどんよりとして静かです。

 その家にはまだ水槽に金魚が2匹だけ飼われてあり、そのためだけに電気は止められないまま、使われています。
 ああ、そういえば餌をやって来るのを忘れました。もう1度行って来なければならないみたいです。

 どっこいしょっと!!

思わず買ってしまった一冊。

2013-03-17 17:40:54 | Weblog
 先日仕事で出かける町へ、予定の時間より早く着くように出発いました。
 それはその町の古着屋さんで、ちょっと衣装を探そうかと思ったからです。
 ところが、その古着屋さんがもうなくなっていたんです。そして、その周辺の雰囲気もかなり変わっていて、いろんな新しいお店が建ち並んでいました。

 そのひとつにチェーン展開する大きな本屋さんがあって、時間に余裕があったので立ち寄ることにしました。
 玄関を入って割りとすぐの正面部分に児童書のコーナーがあって、そこに平積みされてある本を見つけてしまいました。

 それは、斉藤洋・作「ルドルフとスノーホワイト」―ルドルフとイッパイアッテナⅣ―
 実に、前回の「ルドルフといくねこくるねこ」より10年ぶりの4冊目の刊行です。

 1作目の「ルドルフとイッパイアッテナ」を子供に読んであげたのは、子供が保育園の年長さんの時で、つづいて「ルドルフともだちひとりだち」を小学校の低学年の時、そして最後に「いくねこくるねこ」を読んだのは中学生、つまり息子が14歳の時だったのですが、この作品だけは私に読んで欲しいということで、それが我が子への最後の読み聞かせとなりました。

「10年ぶりに新作出てたんで買っちゃったよ」と息子にいうと「まあ買うだろうね」と答えました。
 さすがに24歳の息子は読んでくれとはいいませんが、さてどうしたものか・・・・・・。

 まあ、私ひとりで読むのでしょうが、読んで聞かせるということでずっと読んできたので、誰かに読んであげたいですが・・・・・・残念です。

ワタシのほんだな ③

2013-03-11 20:15:28 | Weblog
 講談社が発刊した三島由紀夫短篇全集全6巻のうちの5冊までが、我が家の本棚には収まっている。が、第3巻だけが欠けている。
 昭和40年代なかばに刊行された本で、装丁がシルバーと洒落ている。

 どこかに第3巻はないものかと探しているが、なかなか見つからない。

 この他にも志賀直哉全集の1冊だけが抜けているとか、虫食い(まともに揃っていない)の全集モノは他にもある。

 もともと全部揃っていたのが、誰かに貸して帰ってこないとか、そういう理由で欠損しているのではなく、元からそうだったりして、貰い受けた時から無かったりというものが多い。

 だいたいが古本屋さんなどで全集モノを買う場合、すべてまとめて束ねていくら、というものが主だが、ブックオフなどのリサイクル本のお店では、マンガ本でない文芸書は単品で扱われることが多いので、全集が揃って売りに出されても先に1冊だけ買われてしまったりすると、その残りを買わなくてはならなくなる。

 先に紹介した三島由紀夫短篇全集も、見つけたときにはもう3巻はなかったのだ。
 それでもやはり、買わずにはいられないものだった。

 時にというか稀にだが、そんな全集や古本の塊りが、リサイクルの本屋さんにこぞって売りに出されていることに遭遇する。おそらくは蔵書家だった人が亡くなって、遺族が古書店にではなく、その類のお店に売却しただろうことがおおよそ見て取れる。
 どんな傾向の書物を愛読し、どんな作家を好んで読んだかが、普段あいうえお順の索引棚に並ぶ本たちに明らかに紛れることがあって、私はその先の持ち主の思いを頂くように買わせてもらうことがある。
 これがこと古書店だと、そういった痕跡は見つけられない。何故か本は本であって、誰の蔵書であったかはいわゆる痕跡本か蔵書印のあるものかに限らないとわかりにくい。

 前に三枝和子の著作物を大量に見たことがあった。その時他の本を購入する予定だったことと、余分な持ち合わせがなかったことで1冊しか買えなかったのだが、またいつか買いに行こうと思って、行ってなかったことを今この文章を書いていて思い出した。

 まだ残っているだろうか? でも、もう随分時が経っているので無理かもしれない。

居住空間について。

2013-03-06 14:58:04 | Weblog
 ある小説を読んでいて、ふと考えたことです。
 いえ、これまでにもこのことは私の中で繰り返し思考されて来たことですが・・・・・・。
 居住空間と人の関係性についてです。

 すべての建築物、家というものを網羅しているわけではありませんし専門的な知識を踏まえていっているわけでもないですから、これはあくまで私の主観なのですし、印象に過ぎないかもしれませんが・・・・・・。

 現在一般的に求められている居住空間というものは、まずは利便性、そして快適(冷暖房、加えて風通しの良さ、日当たりなど)さ、ではないでしょうか。
 その為には、明るさと広さが保たれる空間が求められ、内装に使われるものも明るさを最優先されたものが目立つのではと・・・・・・。

 そのどこが悪いのか、快適なものを求めるのはいけないことか? といわれるかもしれません。
 けれど私はどうしても、そのような明るい生活空間だけに支配された居住空間には、長時間いられないのです。居場所が失われるような気がします。

 そこへ行くと古民家の暗い趣に落ち着きを感じます。もちろん、すべてが暗いわけではなく、光と影、あるいは昼と夜との使い分け、その区分が出来ている居住空間です。

 1日に朝と夜とがあるように、人にも光の部分と影の部分があって当然です。それは内面意識と外面部分のバランスの在りようにも関わり、重要な精神の平衡感覚を生み出すものではないでしょうか。
 すべてが露呈し、露出されていくような環境では、耐え難く生き辛いわけで、また逆にすべてが暗闇に覆い尽くされた陰湿なものでも健康は保たれません。

 明るさと暗さ、利便性と不便さ、この2つはどちらを排除しても成り立たない一対のもので、居住空間にもそのバランス感覚が肝要なのではないかと、そう思ったわけで・・・・・・。

 私がただ単にレトロな古民家、暗い空間が好きな根暗な奴というだけのことかもしれませんがね。

 

今日は3月3日。

2013-03-03 17:07:02 | Weblog
 3月3日といえば桃の節句、ひな祭りです。
 が、この辺りでは4月3日。しかし最近はそうでもないようで、若い人たちは3月3日にひな祭りをしますし、スーパーマーケットなど、おひな祭り用のお寿司とかいろいろあって、ケーキ屋さんはおひな祭り用のケーキが用意されたりしています。
 まあ、こういう年中行事はだんだん全国的な統一が図られていっているということになるんでしょうか。おそらくは商業ベースが主導をとって・・・・・・。

 桃の節句といっても、桃の花はおろかまだ梅の花のつぼみも固いこの辺りです。
 このところの寒さで水仙すら開花は遅く、新暦という暦のうえで日本の四季のなかの二十四節気を感じ取るのには、ややズレを感じざるを得ません。
 
 だいたいが年の初めの年賀の祝いに「新春」「初春」を謳うところから、新暦と旧暦のズレは始まるのです。
 面白いことに、慶春を寿いだあとに、寒中見舞いが届いたりするんです。
 それを当たり前のようにして私たちは日常を暮らしていますが、やっぱり変なんじゃないかと、思ってしまうのですが、どうでしょうか?