ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

8月の晦日。

2011-08-31 15:50:12 | Weblog
 今日が8月の末日で、つまりはつごもりというやつ、晦日にあたります。
 この日の親分みたいなのが、12月31日いわゆる大晦日というやつですね。

 落語なんか聴いておりますってえと、大晦日だから掛取りが来るんですが、払う金がないのでどうやって追い返そうかなんていう長屋噺がよくあります。

 むかしは1年の支払いを大晦日にまとめて払ったんですねえ。
 そして、むかしはこの大晦日にみんな揃ってひとつ年を取ったんです。

 近頃は月々の支払いで、年に12回の晦日をいたしますんで、1年に12歳年取るみたいなもんですよ、慌ただしい世の中です。

 

反復と歪(ず)れ。

2011-08-29 16:36:53 | Weblog
 小津安二郎監督の代表作といえば「東京物語」や「麦秋」という声が高いのでしょうが、私のいちおし作品はなんといっても「小早川家の秋」です。
 これ「コバヤカワ」ではなく「コハヤカワ」です。

 小津映画の特徴は表題の通りの「反復と歪れ」。
 物と人とが同等のスタンスで映像の中に収まり、淡々とした日常が描かれていきます。

 何も事件が起こらない退屈な映画と観るのは大間違い。あれほど人間という存在を客体として映像に映し出した映画人は他にいないのではないでしょうか?

 小津的な映画・映像はたとえばフィンランドの映画監督カウリスマキ作品にも観られますが、何が違うかといえば「宗教観」ではないでしょうか。

「小早川家の秋」季節をめぐらせながら、同じ場面が繰り返されていきますが、少しずつ少しずつ小さな歪れが生じていきます。まあそれが私たちが暮らす日常です。
 そしてある時、やや大きな歪れが生じて人生の節目やピリオドが訪れる。ゆるやかな感情の起伏の後に一滴の涙をしぼりだす、名作映画です。

 これぞ小津映画の真骨頂です。そういうことでは「小早川家の秋」はわかりやすい。

 小津安二郎監督のお墓の墓石に刻まれている「無」の一字、これがすべてを物語っているといえるでしょう。

 そのことを強く思わざるを得ない昨日今日でしたので、こんなことをついつい書いてしまいました。

解きほぐす、語り・・・・・・。

2011-08-25 21:21:20 | Weblog
 今日は某料理旅館さんの大広間で、大人の女性の方々ばかりにお話を聴いてもらうという、そんな口演をやらせていただきました。

 絵本あり、昔話の語りありで、バラエティーに富んだ内容で1時間ほどをお話の世界に浸っていただきましたが、いやあ~実に語る私もいい時間を過ごさせてもらいました。

「語りはこころの母乳」という宮川ひろさんのお言葉を、松谷みよ子さんから教えていただいてもう十数年になりますか。

 私のようなものの語りでも、本当にこころの栄養になり得てきたのか? それはなんともわかりまえんが、このごろ思うに大人のこころをほぐす、マッサージするくらいの効果はあるのじゃないかなと思ったりします。

 現代を生きる私たち大人のこころは、肩こりよろしくコリコリ状態。そんなこころを柔らかく解きほぐす、そんな語りをまたより追及していきたいと思います。 

過ぎ行く夏に・・・・・・。

2011-08-24 13:21:12 | Weblog
 8月も20日を過ぎて夏休みの日々も終わりに近づくと、意味もなく淋しくまた少々の焦りの気持ちを抱いてもんもんとした少年の頃。
 そんな思いもいつしか遠い記憶のなかの時間になり、今は淡々とした季節の反復のなかで、やはり淡々とその時をやり過ごしているに過ぎない私です。

 ああ今年も、新しい夏の出逢いもなく、激しい恋の物語も生まれず、ただ宿題と部活に明け暮れた日々だったと思いつつ、学校から家路をたどった夕暮れの小道に、山百合の花がいくつも揺れて、汗臭い少年の背を見送っていました。

 そんな少年のころの私と今の私に、どれほどの違いがあるのでしょうか? いえ、外見ではなく心の中のありようが・・・・・・。

 過ぎ行く夏に思う心は、いつまでも少年の時代を宿して、どこか切なくそして淡く、ほのかに紅い火を灯しつづけているようです。

 そう、恋は遠い日の夢となりつつありますが、そう老け込んではたまりません。

さて昨晩は・・・・・・。

2011-08-23 15:22:33 | Weblog
 8月20日(土)21日(日)の2つの口演&公演にお出でいただいた方々に、遅くなりましたがこの場をお借りして厚く御礼申し上げます。

 また主催者の皆様にもかさねて御礼申します。またまた、へたうま劇団はなの木の皆さま本当にお疲れ様でした。機会がありましたらまたご一緒しましょう。ありがとうございました、楽しかったです。

 さて昨晩は、少々夏休みをかね、また今週予定されている口演の稽古もかねて、某所山郷にあります古民家をお借りして、一泊してきました。
 が、昨晩は激しい雷と雨に見舞われ、まあ夜中は寝たり起きたりという具合でした。

 稲光と落雷に始まり、激しい雨音へと変わり、そのうえ夜明け前の大雨警報の発令が広報のスピーカーでボリュームいっぱいに流れるという不意打ちで、やや寝不足気味ではあります。
 が、幸いそうなるまでは本当に静かな場所で、きこえるものはセミの声と遠い人声だけ(いや、犬の遠吠えもありました)。おまけにテレビも何もないという環境で、いつもより早い就寝でしたので、まったく寝られなかったということはなく、いやむしろトータルすると普段よりよく寝たのかもしれませんねえ。眠いのは寝すぎの所為かも?

 泊りがけの合宿稽古と、最初は意気込んでいましたが、どちらかというと普段とは違う場所でのんびりと過ごしてしまった2日間でした。

 

8月20日(土)21日(日)2ヶ所で口演と公演です。

2011-08-18 14:26:36 | Weblog
 夏休みも後わずかになってしまいました。そんな今週末、2つの異なった場所で、2つの違う催しに出演します。

 8月20日(土)は、PM7:00から坂下公民館さん(2階ホール)「やさかおやこ劇場」に出演させてもらいます。
 演目は「むかしばなしいろいろ」と題して、地元の昔話から創作民話「モチモチの木」など、さまざまな昔話を語ります。

 そして21日(日)は、恵那市中央図書館(2階セミナールーム)の天の川イベントで、 へたうま劇団はなの木公演☆えほんげき☆「ひ・み・つ」<作☆たばたせいいち 脚色☆水原彦丸 制作☆丸プロ>に、ナレーションとして友情出演させてもらいます。
 時間はAM11:00~とPM2:00~の2回です。

 どちらの口演&公演も入場無料です。ご興味のある方、大人の方でもかまいません、どうぞお越しください。

残暑お見舞い申し上げます。

2011-08-13 11:38:57 | Weblog
 全国的には8月盆の夏休みです。私の住むこの地域は7月盆ですので、盆の迎えも送りもはやに終わってしまっているのですが、今は夏祭りの最中です。

 昨夜は花火、今夜は風流踊りに御輿が練り歩き、駅前のメインストリートは賑わいます。
 そして明日あさっては、子供の提灯祭りギオンバがはじまります。

 高い気温の中で行われる行事、くれぐれも熱中症に気を付けたいものですが、それでもこの2日くらい、暑さの中にもどこか秋の漂いが紛れ込んでいるようです。
 それはかすかに肌をなでる風のなかにありました。

 今年はセミの出が少し遅かったので、毎年この頃に鳴くツクツクボウシをまだ聴いていませんが、それを耳にするのも時間の問題でしょう。

◎艶やかに 咲きては消ゆる 夜の華 見終えて帰る 道の静かさ

蔵書の棚に目をやると・・・・・・。

2011-08-11 14:11:33 | Weblog
 ふと本棚に目をやって、背表紙の作品名を読んでいると、あれ、こんな本買ってたっけというような一冊に出くわすことがあります。

 たとえばこんな本。
 荒俣宏-選 日本ペンクラブ編「異彩天才伝」―東西奇人尽し― という一冊です。
 プロローグ・和人編・異人編・エピローグと章がわかれて、様々な作家が、様々な奇人・天才について書いているというものですが、選者荒俣氏は異人編で「地球を割ろうとした男―ニコラ・ステラ」と題された一編を書かれています。

 なかでも面白いのは深沢七郎を取り上げた一編「人間滅亡教教祖の年頭のあいさつ」では、本人自身の文章が使われています。

 どの一編から読んでも面白いと思います。
 私は和人編の中から、色川武大著「本物の奇人―左ト全」から読んでみようかな?
 黒澤映画に数多く出演している左ト全さんにはいろいろの逸話が残されてありますよね。

今朝の中日新聞に・・・・・・。

2011-08-09 11:47:04 | Weblog
 今朝の中日新聞6面に、村上春樹氏「非現実的な夢想家として」と題した、カタルーニャ賞受賞スピーチの全文が掲載されてありました。

 私もこのスピーチの全文に深く賛同するものです。

 いまから16年前、ちょうど戦後50年目の節目の年に、現在のひとり語りの活動を始めた折、私は戦争で犠牲になった人々に恥ずかしくない生き方をしてきたかを顧み、個人的な反省を胸に抱いてスタートをしたのでしたが、日々の流れの中でその思いもお座なりになっていはしないかと再び反省の思いをあらたにしています。

 それというのもこの3・11の東日本大震災。そして福島の原発事故において。
 殊に原発事故において、私たちはしっかりとした姿勢で原子力の問題について向き合ってこなかったわけです。
 
 村上氏がスピーチの中で使われている、被害者でもあり加害者でもあるという言葉。
 私は今回の事態を受けて、終戦(あるいは敗戦)直後の感触を体感したような、あるいははじめて理解したような思いにとらわれました。それは、昨年末から年明け早々に堀田善衛著「記念碑」を読んでいたということもあったかもわかりませんが、なかなかに一言や二言ではいいあらわせない複雑な感情が、リアルタイムを生きている人間にはあることを思い知らされたのです。

 さて、私はこれまで原子力の平和利用ということにおいては、なかば他人事ともいっていいような態度で、その危険性や核廃棄物の処理問題等について聞き及びながらも、どこか楽観論的な思いで、そのうちに画期的な発明がなされ、すべてがよい方向に向かうのではないかと、かなり安易に考えていました。
 しかし、楽観論的に構えることがポジティブな思考だとしていることは、間違いであるということに気がつきました。

 自分たちの時代に解決され得ない問題を残して次世代に先送りし、その上に立って快適な生活を送ることの罪深さは、計り知れないものだと痛感したからです。

 もちろん将来的に画期的な発明がなされ、革新的技術の進歩によって核廃棄物が安全に処理され、安全神話ではなく本当の安全が確立されることを望むことに変わりはないのですが、しかし積み残された問題を抱えたまま、出来るからやってしまうというということにはやはりNOというべきなのです。
 それは医学においても、どの分野においても同じで、モラルというものを問い質すべきなのです。

 

再読、再々読のススメ。

2011-08-06 13:11:24 | Weblog
 私たちは読書にさいして、普段たいていは一読して、ああこれは面白かったとか、これは面白くなかったなどと、簡単にいってのけたりしていますが、果たしてそう簡単に判断を下していいものかどうか。

 そりゃまあ、一読して判断のつくようなものもなくはないですけれど・・・・・・。
 練り上げられたプロット、緻密な計算を施されたような文章世界を、通り一遍の読みで持って、あっさり評価されたのでは、その作品の著者はたまったものではないでしょう(しかし、一般読者たるはそんなものだと諦観も必要でしょうが、でもやはり読者なくして作家は成り立ちませんからね)。

 もちろん、それに値する読書力を有した賢者は存在しているでしょうから、私がいっているのは、あくまで私のようなそんなに賢くない、目から鼻に抜けるような頭脳を持っていない人間に限ってということになるのですが・・・・・・。

 というのも、何年か前に一読して、つまらなかったなと思っていた作品を、何かのきっかけでもう一度手にして読み直してみると、これがまったく違う作品ででもあるかのように、面白かったというようなことが、ままあるからです。

 なんと言う作品かというのはいいませんが、私はいま正にそういう本を手にして読み直しています。読み方入り方、予備知識の云々また経験値によってこれほどまでに違う。
 
 ああ、読書は深いです。