ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

やっぱり今年も猛暑?

2011-06-29 09:55:22 | Weblog
 まだ6月だというのに、まだ梅雨も明けていないというのに、この連日の暑さはもう真夏のものですねえ。

 今年の夏は平年並みかやや暑い。という予報どころでなく、去年をしのぐ猛暑になりそうな気配さえあります。

 それがいわゆる温暖化、異常気象というものなのかもしれません。
 が、今太陽自体の活動は衰えているとか? いや、詳しいことはわかりませんが、世の中が冷え込む時は必ずや太陽の活動も活発でないと聞きます。

 贋物の太陽に手をこまねきながら、本物の太陽が一段とギラギラ輝く夏本番を前に、とにかく気持ちで負けないように、身構え心構えを整えておかなくては……。

立ち位置と、据わりどころ。

2011-06-27 14:44:12 | Weblog
 自分が今立っている場所はいったいどういうところなのだろう?
 
 説明のつく言葉で言えば、西暦2011年(日本の年号では平成23年)6月27日月曜日、午後2時55分、北半球東アジアに位置する人口1億2千万余の日本という国の中央部にあたる岐阜県の東部、その町の郊外にある2階建て木造一軒家の1階の居間のパソコンの前で、正確には立っているのではなく、胡坐をかいてこの記事を書くために、ボードのキーをたたいている。

 しかしそれは時間軸上の、私という人間の現在の存在場所を示していることであり、人生とか、もっと大きな視点で言えば、有史以来の歴史上においての立ち位置というと、それは又違う事柄が示されることになり、その存在はより希薄なものになるのか、多少は際立つものに見えるのか、今1個の点としてそこにある私には、わからない。

 そしてその据わりどころは定まっているかといえば、どういう観点からしても、曖昧模糊としている。座るとは今、居間の畳の上に座っているということではなく、外面的にも内面的にも、また社会的にも安定した落ち着きどころとでもいおうか……。

「芝居」というものを創る上において、それは戯曲を書くにしても、演出するにしても、また役者として1人の人物を演じるにしても、この立ち位置と据わりどころという言葉は重要な意味を持つ。
 様々な縦糸と横糸の織り成す組み合わせによって、1枚の布が織り上げれれていくように、1人の人間も色々な縦糸と横糸によって織り上げられて存在し、その時代をあらゆる人々と関わりあいながら生きていくわけだから、その立ち位置と据わりどころは、大事になってくる。
 
 人間は決して意味なく浮遊する動物ではないはずだから、必ずその立ち位置には意味があり、訳もなく据わりどころを定めはしない。

 自己存在証明とか、自己の存在意義とか、哲学的な見地が加味されて、それは時には昇華し、又あるときには沈殿されて、有形無形に形を変化させていく。

 私は次の創作に入る前に、そんなことをぼんやり考えながら、今此処に居る。
 蒸し暑い部屋には、時折涼しい風が来るが、おおむね暑すぎる6月の終わりの部屋の畳の上で、私の頭の中もやっぱり曖昧模糊のままで、この記事に最後の句点を打とうとしている。

現在梅雨前線のようです。

2011-06-22 20:19:08 | Weblog
 つまりこのごろの私は今ひとつ、停滞気味でパッと晴れません。
 活発に雨を降らすというでもなく、たらたらとやるべきことをこなしているという感じです。

 元気がないというのではありません。どこも悪くはありません。
 ただいまのところ何かに向けて走るというその目標が定まっていないので、スタートが切れないのでしょう。

 これがいわゆるスランプというものなのか?

 いやいや、今週末は久々にひとり語りの口演があって、それに向けて着着と準備を進めていますし、絵本の読み語りにも励んでいます。でも、やっぱり今ひとつ私らしくない気がします。

 まあ、こんな時もありますよ。そんなこともあってかブログの更新もついつい怠りがちです、ごめんなさい。

もう1年も半分が過ぎて・・・・・・。

2011-06-16 22:39:00 | Weblog
 今日は6月16日。今年も半分が過ぎて折り返しのところに差し掛かりました。

 時の過ぎるのが早いなんていうと、もうこれは年齢を重ねた人の常套句になってしまいますが、それは又ついこの間の出来事がすぐに遥か昔のような感覚に陥るというのと比例していて、この感覚は必ずしも若い人には例外というのでなく、やや違っているかもしれませんが、新しいと思うものがすぐ古くなってしまうという感覚ともどこかでリンクしているのかもしれません。

 古いものを清算して新たな歩みの一歩を踏み出すことは大事ですが、しかし忘れてはならないことはしっかり記憶しておいて、次世代に伝えていかなければいけません。

 それとはちょっと話は違いますが、今日6月16日という日は私が初めて好きになった人、つまり初恋の人の誕生日だった日です。
 もう30数年昔の話で、小学校時代のことですから彼女がどんな顔をしていてどんな声をしていたかは、だんだん記憶もうっすらとなってきていますが・・・・・・いや、それはウソです。今でもはっきり憶えています。
 もうその当時以来出会っていないのですが、おそらくその人に道で行き会ったとしても、すぐにそれとわかるという自信があります。どんなに容貌が変わっていたとしてもわかる気がするんです。

 でも、きっと声はかけません。ああ、あの人だなと思うだけです。それでいいのです。

 なにせ12歳くらいの頃の淡い、恋とも呼べない恋でした。でもたった一度だけ彼女の誕生日にプレゼントをあげたことがありました。
 その6月16日。
 
 何で今でもこの日にちを覚えているかというと、その当時私は「6月16日」という題名の詩を書いたからです。
 今はもう現存していませんし、どんな内容の詩だったのかもわかりません。が、その題名とともに私の記憶の中にインプットされ続けているわけです。

 その後お付き合いした恋人だった人たちの誕生日は、残念ながら覚えていません。

 今日6月16日にまつわる、ちょっとしたエピソードになってしまいました。

梅の実をもぐ。

2011-06-15 20:52:46 | Weblog
 又明日からお天気がくずれそうなので、梅の実を採ることにしました。

 どのくらいかかったでしょうか? 全部で17キロ以上の収穫でした。
 さて、採ってしまったので今度はその梅の実をいろいろに処理しなくてはなりません。

 梅酒に梅干、梅ジュースと様々に作ります。
 それでも17キロという数量を、我が家で全部は処理し切れません。毎年のようにいたるところにおすそ分けです。

結構、映画三昧の日々。

2011-06-11 14:18:17 | Weblog
 近頃、BSで映画を観る日々です。
 
 先週の日曜日は、新藤兼人監督の「裸の島」を観ました。
 この映画は昭和35年度の作品で、私の生まれた歳に公開されたものです。
 今回はじめて観ましたが、セリフがないことが新鮮で、とても見応えのあるものでした。あの当時の尾道の町(ですよね)がまた良かった。

 そして今週は「レインマン」「エディット・ピアフ 愛の讃歌」「グリーン・マイル」と、毎日観てしまいました。

「レインマン」は公開当時以来でしたが、ダスティン・ホフマンはもちろんのこと若きトム・クルーズも良かった。
 また、ピアフ役のマリオン・コティアールはすごい!

 なんか良かったばかりいってますが、日ごろシビアな眼で映画を観てるんですよ。
 でも基本好きですから、愛を持って観ているわけで、愛あればこそ厳しくもあるわけで手放しで評価はしませんが、面白いものは面白い、それでいいじゃないですか。

 なかなか時間調整は難しいですが、1日1作品の鑑賞が出来ればいいなと思います。

原点の洗い出し作業・・・・・・。

2011-06-10 13:11:34 | Weblog
 先月5月に「石の追憶」という書き下ろしのお芝居を公演させてもらいました。

 これは高校時代の恩師、松木仲治先生が45年前に書かれた高校演劇用の戯曲「石の記憶」をもとにしたその45年後のおマージュ作品でしたが、この作品を書き、また自らも演じて公演することで、とても私事ながら自分自身の演劇の原点を見つめなおすということをしました。
 
 戯曲を書くという行為は、どんなに偉そうなテーマを掲げたところで、自分を書くという範疇からは一歩も抜け出られない行為で、面白いと思ってもらえるかもらえないかも、この私という人間そのものにかかるところがあるのかもわかりません。
 つまりは、深いか薄っぺらかということなんですが・・・・・・。

 さて、近頃めっきり少なくなっているのが実は語り口演。
 この16年、ひとり語りいちかわあつきとして、細々ながら生きさせてもらったのですから、何はともあれ「ひとり語り」というのは私の大事な部分でありまして、おろそかには出来ない柱であります。

 そういうことでひとつ今年はその原点を洗い出してみようかと。

 そう、私にとっての「語り」の原点とは何か?
 今秋の口演にはそれを探ってみようかと考えています。

 具体的なことはまたいずれ・・・・・・。

草刈る日々 2011

2011-06-08 13:17:51 | Weblog
 何年か前にも、こんな題でブログの記事を書いたような気がします。
 
 雨降る毎にグングン伸びる草たちの勢いは、ホームセンターで購入してきた野菜の苗の成長をドンドン追い抜き、悠々と風になびいておりました。

 そこで昨日は約1日(途中仕事の打ち合わせで2時間ほど抜けましたが)をかけて、草を刈りました。
 ですが、1日で出来る作業はしれています。草刈機で全体になぎ倒しても、どうしても起伏のあるところや石のあるところなど、綺麗に出来ない場所もあります。

 それにただ刈りっぱなしというのでなく、一箇所に集めて出来れば堆肥としての利用も考えて、とやっているとなかなか終わりません。
 今日も続きをと思いましたが少し疲れ気味ですし、ほかにもやらなければいけないことはあるので、ちょっと休憩です。

 でも夕方くらいに少しは片付けようかな? 途中にしておいて置くのって気になりますよね。
 今週中は雨は大丈夫そうですけど・・・・・・。
 

何がリアルなのか・・・・・・?

2011-06-06 08:35:12 | Weblog
 昨夜というか、もう今日に日付の変わった深夜にひとり風呂の熱いお湯につかり、ホトトギスの鳴く音を聞きながら思ったことです。

 平田オリザ著ー「リアル」だけが生き延びるーという1冊がありますが、私も私なりのリアリティーを持って戯曲を書き、芝居等を演じているつもりで、また映画やドラマ、舞台なども自分自身のリアリティーで持って鑑賞し、良い悪い面白い面白くないを判断しているわけです・・・・・・。

 が、演劇をやっている仲間や、共に舞台に上がっている人たちであっても、多少においてそのリアリティーの中身は違うのだなということを、あらためて思ったのです。
 何を持ってそれを自然と思い、それを不自然と感じるか。

 たとえば、絵画において考えてみればわかりやすいかもしれません。
 写実的な絵にリアルさを感じる。これはごく一般的にいってそうでしょうが、しかし抽象画というものにはリアルさがないかといえばそうではなく、むしろシュールなもののほうによりリアルさを感じるということもあります。

 いつも例にあげてしまうシャガールの「婚礼」という一枚。これはシャガールのリアリティーです。
 ようは心の内側と外側の問題なのです。

 しかし芝居を創る時、私は私の思いや考え方をひとつのリアルの基準として創り始めますが、それが観客にとってのリアルではないとすると、そこのところをどう折り合いを付けていけばいいか?

 ひとつの舞台が終わりしばらく経ち、いろんな感想や意見を拝聴する中で、思うことです。
 私はやはり世間一般からするとマイノリティーな思いや考えを持って芝居を創っているのかな? 「いや、それほどかけ離れているわけでもあるまい、もっと観客を信じよう」。

 ただひとついえる事は、私は私なりに面白いと思うものを創っているつもりなので、その基本線は今のところ譲れないところではありますが・・・・・・でも、もしかすると私という存在自身にリアリティーというものが欠けているのでしょうか? それはあるかもしれない。

 

6月は雨で始まりました。

2011-06-02 13:44:07 | Weblog


 例年より早い入梅、早々と台風も列島をかすめて、6月もそのはじまりから雨のスタートとなりました。

 猫が眺める窓の外の景色も、今はもうない昔の景色です。
 雨の1日はジメジメと、気も滅入りがちになりますが、なんでなんで思いひとつで雨の日だって素敵です。

 この季節私は絵本の読みが語りで、佐野洋子作「おじさんのかさ」をよく読みます。
 雨の日にもささない大事な傘を、「あめがふったら ポンポロロン あめがふったら ピッチャンチャン」とさして、傘をぬらして町を歩くおじさん。
「ぬれたかさもいいもんだな、だいいちかさらしいじゃないか」というおじさん。

 いいですね、私もこんな洒落たおじさんみたいになって、年を重ねて行きたいものです。

 作者の佐野洋子さんももうこの世には居られません。
 あの「100万回生きたねこ」のように、もう2度と生き返りませんと、この世におさらばされてしまったのかな? 佐野さん、貴女の魂は高く高く天に旅立たれていかれましたでしょうか?

 この世に残されたいちファンとしては、なんとも淋しい限りではありますが・・・・・・。