ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

10月も今日で終りですねえ。

2010-10-31 12:46:36 | Weblog
 私が講師をつとめさせてもらっているたじみ語りの会の朗読発表会が昨日、まなびパークたじみで行われ、無事終了しました。
 会の皆様お疲れ様でした。また、お越しいただいたお客様方には心より御礼申し上げます。

 この時季にはめずらしい台風14号の近づく中でしたが、幸いこの辺りは、風雨もさ程になく、昼からは雨も上がって本当によかったです。

 さて、今日は「秋の中山道まつり」の行われている中津川ですが、朝方は少し小雨もパラパラして、人出でも今ひとつのようでしたが、曇りがちながら午後からはにぎわうのではないでしょうか?

 私は朝一番に歩いて、フリマやら物産品やらを物色して、いろいろ購入してきました。
 毎年はこのおまつりで私もフリマのお店を出店(同人誌の資金の足しにと)させてもらっていたのですが、今年はちょっと忙しくて出来ませんでした。

 10月も今日で終わって、明日からは11月・・・・・今年もいよいよ残すところ2ヶ月となりました。

◎ 日暦も 痩せて霜月 冬構え (青蜩庵)

 

雪虫が飛んでいました。

2010-10-27 14:22:07 | Weblog
 紅葉もまだまだこれからなのに、早い冬の到来を思わせる寒さです。
 10月のうちの木枯らしなのですか? 昨日など早くも雪虫の飛ぶのを見ました。

 猛暑の夏の次にやってくるのは極寒の冬・・・・・・なのでしょうか?
 我が家はそうそうにコタツを出して、暖を取ることにしました。

 しかし、秋が短いというのはなんとも淋しいかぎりです。
 淋しさを誘う季節である秋の終焉の早さを淋しいと形容するのも、なんだか持ってまわった表現ですが、淋しさに淋しさが重なって、淋しさの二乗となり、坂の道を転がり下るように冬が訪れ、この淋しいという気持ちは奪い去られた恋心のように、寒空に凍えるのでしょうか?

 いやいや、柄にもないことをいってしまいました。
 人恋しくなるこの季節、深まりゆく秋の景色に沁み入るように、誰もが詩人になったような心持ちになるものでは・・・・・・。

 では、恋の詩をひとつ・・・・・・

  「シャンソン」

  きょうは何日かしら
  きょうは毎日だよ
  恋しいひと
  きょうは一生だよ
  おまえ
  わたしたちは 愛しあって生きてる
  わたしたちは 生きて愛しあってる
  そしてわたしたちは 一生が何だか知らないんだ
  わたしたちは 一日が何だか知らないんだ
  わたしたちは 愛が何だか知らないんだ。

       (ジャック・プレヴェ―ル 北川冬彦 訳)

南木佳士著「からだのままに」

2010-10-26 15:56:56 | Weblog
 芥川賞作家南木佳士氏は、現役のお医者さんでもあり、またパニック障害を発病され、その後うつ症状にもみまわれということを、ご自分の小説やエッセイに書かれている方です。
「阿弥陀堂だより」という作品にも、パニック障害に見舞われる女医さんが登場します。映画では、樋口可南子さんが演じておられました。

 私も30代のおおかたをパニック障害で過ごし、40代に入ってもかなりの間をその後遺症のような症状の繰り返しで過ごしました。

 今でも時々、こんな場合にこんな不定愁訴が襲ってきたなと、思い出すことはありますが、かなり遠いむかしのことと思えるようになりました。

 何より普通で居られることの喜びというものは、これはこの症状を味わわないとわからないと思います。いや、この世には様々な病があり、その当事者でなければわからないことは多々あると思いますが、これもそのひとつかと・・・・・・。

「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」なんて言葉がありますが、そうはなりたくないなと思い、この表題の著書「からだのままに」を拝読しています。
 別にその病についてどうと書かれてあるエッセイというわけではなく、あくまで著者の日常が綴られたエッセイです。

「病」というものは、必ずしもマイナスばかりをもたらすものでなく、多くを教えてくれるもので、病気から学んだことはいっぱいありました。

 あの病の時代を潜らなかったら、二度と語りや芝居などはやっていなかっただろうと思うと、やっぱり感謝するしかありません。

よもぎやさんでの公演終了しました。

2010-10-24 12:20:47 | Weblog
 馬籠「四方木屋」公演の二人芝居「安寧坂の家」、終了いたしました。
 お越し頂きましたお客様方には、心より御礼申し上げます。

 さて、次回は11月13日(土)の恵那 中山道ひし屋資料館での公演となります。
 同じお芝居でも場所をかえるとまたどんなお芝居になりますやら・・・・・・。

 

 

二人芝居「安寧坂の家」初演本番が近づきました。

2010-10-22 08:41:00 | Weblog


 明日10月23日(土)午後7時より馬籠四方木屋(よもぎや)さんにて、
 
 二人芝居「安寧坂の家」 いちかわあつき作 市川和美演出
 出演 いちかわあつき 高橋和子

 を上演いたします。この上の写真は、夏場に撮影した稽古風景です。

 ご案内を差し上げていない方々もおありかと存じますが、申し訳ありません。
 今回はよもぎやさん主催という形で運ばせていただいておりますので、なかなかに宣伝がいきわたりきれて居ないかもしれません。

 私ども主催になる恵那 中山道ひし屋資料館での「安寧坂の家」公演は、11月13日(土)午後7時より上演いたします。

 どうぞこちらの方もよろしくお願いいたします。
 明日の公演の方も、馬籠よもぎやさんのほうへお問い合わせ頂ければ、よろしいかと存じます。
 よろしくお願い申します。

 <問い合わせ> 馬籠「四方木屋」 0573-69-2006 

読書の秋と、本屋さんめぐり。

2010-10-21 14:34:55 | Weblog
 昨日の夜更けというか、今日の未明といいますか、堀田善衛著「若き日の詩人たちの肖像(上)」を読み終え、今日から下巻に入ります。

 ああ、やっぱり堀田善衛はいいなあと思いながら、文体を噛みしめて読むものですからあまり速くは読めませんが、またそれがいいんです。

 戦前の若者たちの姿が活き活きと想像され、筆者の声がまるで今生きているかのように身近に聞こえてくる。これぞ読書の醍醐味です。

 さて、これを読み終えたら今度は何を読もうか。もちろん書棚にもいまだ手付かずの本はあるのですが、ついつい本屋さんを経巡ってしまい、またあれもこれもと買い漁ってしまいました。
 まあどれも古本の文庫本なのですが、合計7冊。蔵書の中からもれていた堀田善衛著「スペイン断章」上・下巻、それに民俗学者網野義彦著「蒙古襲来」なんていうのも見つけました。
 あとは吉本隆明著「詩の力」。この本には鉛筆の棒線が随所に書き込まれてあって、いま少しずつ消しています。
 なかには書き込みが面白くて、わざわざめずらしい書き込みのある古書を収集されている向きもあるようですが、これはぜんぜん面白くない棒線だけなので、消しゴムでゴシゴシしています。

 まだ新刊本でもほしいのが何冊かあります。綿矢りさ待望の新作「勝手にふるえてろ」梨木香歩著「ピスタチオ」。それに小川洋子著「原稿零枚日記」でしたっけ?

「無為に読書を重ねる時間の浪費・・・・・・」「若き日の・・・・・・」の主人公のように若くはなく、また時代背景も違いますが、生涯一書生の身は、永遠に青臭いことをやり続ける一生です。

自立自尊と国の成り立ち。

2010-10-20 10:58:04 | Weblog
 我が敬愛する司馬遼太郎氏は、人にとって一番大事なのはやはりお行儀だろうと仰っておられたと思う。
 国が経済的に潤い豊かになったとして、文明国の仲間入りをしたと胸を張るわけにはいかないのは、そこのところ。
 何を持って文明国などといえるものか。後進国だろうが未開の非文明国だろうが、実と徳を兼ねたお行儀のいい偉人はどこか市井の片隅に居たりして、何をどうなどといえるものではない。また、そのような人々の絶対量が成熟した国の成り立ちには欠かせないのではないのだろうか、と想ってみたりする。
 国の成り立ちの確かさは、飼いならされた国民を増産することではない。知性と教養の度合いを増していくことにあるのではないか。

 国民ひとりひとりの自立自尊を持って、成熟した国家と成り得ると説いたのは、かの福沢諭吉先生であられたか、正確には「一身独立して 一国独立す」であったか。

 衣食足りて礼足る? とはいかない現実の悲哀を感じる今日この頃。
 別に何をあてこすっていっているわけではないが、品位品格をもって生きて行きたいと想うのである。お金持ちの国でなくなったとしても、それだけは保ち続けたいものです。本来それをスタート地点に有していたのがこの国の人たちだったと思うから。
 
 現代を生きる今の私は、決して上品な人間ではありませんし、もちろんお金持ちでもなんでもないですが・・・・・・だからなのか、そう想うのです。

私の中のリアリティー。

2010-10-18 16:10:50 | Weblog
 唯物的なリアリズム感覚からはとうに脱却して、内面的な領域、意識世界にまでその幅を広げようと常々考えながらやっていますが、これまでに培われ蓄積された振り幅の中でしかその思いは反映されていかないもので、実際に表現する上での変化には、かなりの時間を有さなければならないもののようです。

 例えば土門拳氏の写真に圧倒されて来た自分が、今植田正治氏の写真に心惹かれるようになったのもその変化のひとつかもしれませんが、そこにはやはりはっきりとした時間と空間の問題があって、私の意識が今どこに置かれてあるかという所在認識が明確かどうかが深く関わってくるもののようなのです(足場の移行は瞬時には出来ません)。

 創作はフィーリングだけでは毛頭成立しないもので、しっかりとした土壌の上にこそ築かれるもののようです。ですから中途半端な立ち位置では作品の完成度など望めません。
 しかしまあ一歩一歩です。少しずつ少しずつ曖昧さを克服しながら、確かなもの、本当のものを創り上げていきたいと思います。

 いや実はこれ、もうすぐ公演の迫った二人芝居「安寧坂の家」にたいする、作者の心情吐露のようなものなのです。

 ※ちなみにこの文章中に「ような」という曖昧な表現個所が3、4個所ありますがこれこそが私の自信のなさを表しているものなのですね。まずこれをなくしていくべきですね。

「自信をお持ちなさいよ、男子たるや自信を持って世間を渡っていくものなんじゃないの」
 と、「安寧坂の家」に登場する女はいいます。

むかしばなし元年・・・・・・。

2010-10-16 23:07:52 | Weblog
 私のなかには長年、ひとり語りと語り部とを全く違うものとして、はっきりと色分けする概念があって、方言でむかしばなしを語るなんてことはこれまで、絶対にタブーでした。

 しかし裏を返せば、それはやらないというよりも出来ないということのほうが大きな要素だったのだと、今になって認識した次第です。

 中津川市立坂本小学校創立百周年の記念の口演にご依頼をいただき、この期にはじめて地元のむかしばなしを、この地元の言葉で語るという試みをやらせてもらいました。
 これぞこの地方の方言と胸を張れるほどに正しい中津弁というものが語れたとは思いませんが、なんとなく雰囲気は味わってもらえたかと思います。

 語らせてもらったものはほんのわずかで、なかには全国的にあるお話を地元に見立てた話もありました。これからもっともっと語れる話をふやしたり、新しく創作していくということも試みてみようと思っています。
 そしてなにより、これぞ中津弁という質の高さも、勉強してみようかと・・・・・・。

 何しろ日頃の朗読指導などのお仕事では、標準語にアクセントを直すということもしていたり、でも昨年のお芝居でもチャレンジしたように、この地方の言葉で語られる芝居もやってみたりでして、そこのところをうまくこなしていかないとと思っています。
 標準語(共通語)で語られるものの普遍性と、方言の可能性、どちらも捨てられません。

 しかし、活字文学というものを基本に置いたひとり語りの世界にくらべると、語り部という口承文藝の方に重きをおくむかしばなし語りは、堅苦しさがなく楽なものです。
 でも、その楽さゆえに落とし穴もあって、より語り口というものの必要性が浮き上がってくるものなのだということもわかりました。

 どちらにしても、この私という存在そのものが大事なキーポイントを握っていることには間違いありません。

山栗を拾う。

2010-10-14 10:43:38 | Weblog
 山栗のある場所をいくつか知っているのですが、今年はクマの出没が頻繁なので、行くのを避けていました。が、ちょっと用があってその近くへ行きましたので、やっぱり気になって行って見ました。

 もう時期的には遅いし、何もないだろうとは思ったのですが、何年も行っていないのでどうなっているだろうという興味もあり、足を運んだのです。

 以前は人ひとりが通れる細い道がしっかりと手入されてあったのですが、もうかなり荒れ果てていて、木々は倒れ道も所々崩れて、かろうじてかつての道のあとを残しているというものでした。
 思ったとおりその大きな山の栗の木の下には、イガばかりで実はありませんでした。
 そしてあきらかにそれは人の手によって採られたのではなく、動物によって食べられたような実の残骸が落ちていました。

 それがクマなのかどうかはわかりませんが、そんなに山の奥深い場所ではありません。
 私は食べ残されてあったひとつの実のおこぼれをもらって帰ってきました。

 むかしのこの辺りは、たくさんキノコも採れたところです。イクチやシバモチなどがありました。
 今年は殊にどんぐりなど木の実のなりが悪いようですが、山は確実に痩せています。見た目にはどこといって変化はわからないかもしれませんが、生命感にあふれる勢いがないのです。
 クマや野生の動物たちも気の毒なことです。が、それは私たち人間にも確実に影響のあることで、COP10の会議はメディアを通しての他人事のニュースではなく、実は身のまわりに迫った切実な問題であることを知らなければなりません。

 自分の住んでいる半径3キロ程の環境の生態系が、この10年くらいの単位でもかなり違ってきています。
 それが何だ、と思われるかもわかりませんが、私たちがこの地球上で生かされているメカニズムは、それほど単純なものではないようです。