ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

10日ぶりになりました。

2007-04-27 21:23:08 | Weblog
 17日以来になります。4月18日の瑞浪信光寺さんでの口演も無事に終わりました。百名以上の方に聴いていただき、ありがとうございました。とても素晴らしい聴き手に恵まれて、じっくりと語らせてもらうことが出来ました。
 口演というものは本当に一期一会だな、と想いました。さて今は、5月12、13日の芝居公演「帰りなむ、いざ」に向けて頑張っています。役作りのために髭面です。来週あたりには、髪の毛もシルバーグレーに染めようと思っています。
 何しろ今回の役は70代後半のお年寄り役。元教師だったという、個性的な老人を演じます。実年齢より30歳は上です。さて、どうなりますことか・・・・・・。

4月17日 これから稽古しようと思っています。

2007-04-17 13:19:08 | Weblog
 桜も散って、これからは新緑の季節です。温かさも日々少しずつ増してくることでしょう。山ではつつじが咲き始め、少し高い山の山ろくにはムシタバの木に花の咲いているのが見受けられます。
 さて、私はこれから明日の口演に向けて、稽古しようと思っています。お客さんを前にしない素語りは、今ひとつ集中に欠ける時もあるのですが、話を起こし、立たせ、動かしていくには、口演前の稽古が大事です。ああ、語りの内容の話は、またPART4でお話しましょう。
 そして、夜には多治見にてお芝居の稽古です。こちらはもう1ヶ月を切りました。そろそろラストスパートと言うところでしょうか。
 マーシュマロウ第2回公演「帰りなむ、いざ」もよろしくお願いします。多くの方に観ていただいて、忌憚のない感想を述べてもらえることが、創作者の何よりの喜びです。そうやって共に高めあっていくのが、底辺からの文化芸術の向上につながる道ではないかと思います。すみません、また偉そうに語りました。
 お芝居についての記事も、また載せようと思っていますので、また読んでください。

4月18日は・・・・・

2007-04-16 11:14:14 | Weblog
 4月18日(水)は、午後1時より 瑞浪の信光寺さんと言うお寺さんで、ひとり語り口演を行います。演目は、
          山下明生・作 「島ひきおに」
       さねとうあきら・作 「おこんじょうるり」
 の2本です。信光寺さんの檀家さんを対象に参加費無料で催されますが、一般の方の観劇も可能かと思いますので、信光寺さんまで問い合わせてみてください。
 会場は、お寺の本堂に併設された瑞光会館と言う、108畳敷きの立派な会館です。普段は法事などに利用されているとか。場所は瑞浪中京短大と幼稚園があるすぐ傍、中央道のすぐ上に位置する小高い見晴らしのいいところです。
 280年前に建立されたという山門をくぐると、美しい庭があり、本堂横の中庭には沙羅双樹の木が植えられ、6月には美しい花を咲かせるそうです。
 当日聴いて頂く方々には、素晴らしい出会い、素敵な時間を楽しんでいただこうと思っています。

ひとり語りについて PART 3

2007-04-15 22:55:19 | Weblog
 久しぶりになりましたが、ひとり語りについてお話します。私は今年でこの仕事を始めて12年目になりますが、まだまだわからない事ばかりです。
 とにかく何もわからない中で無我夢中のうちに始めたことでしたので、こういったジャンルの芸があることも知らなかったくらいです。そして実践の中で一つずつひも解くように知っていきました。まずこういったひとり芸において、正面を向いて話すことを、「面をきる」と言います。これは落語などにおいてとても難しいものとされているようです。ええ? ただ前を向くことが? と思われるでしょうが、意外とそうなんです。演じているときの目線というものは、泳ぐことなく、しっかりと定めなくてはいけません。人物を左右振り分けて演じている時、一定の目線でなければ、その対象を得ません。でも、その左右の振り分けは案外いいんです。地の語り(ナレーション的なところ)において、広く全体に語りかける時は、正面を見ます。これが最初の頃中々出来なかった。それどころか、お客さんと眼が合うと、真っ白になってポーンと語りが飛んでしまうんです。
 また、最初の頃は、身体の不調をキッカケにしてのスタートでしたので、身振り手振りもおぼつかず、ただ必死に語っていました。初期の頃のお客さんはそれでも本当に辛抱して聴いてくださいました。そんな温かいお客さんに支えられて、ここまでやって来られたわけです。
 そういった初期の語りに比べたら、この頃はやっと形は整ってきたと思いますが、ひとつ解ればまたひとつというように、とかく芸は深いもので、スタートの遅かった私は、それも独学でどこまで行けるんだろうと思います。40代も後半になると、根気や粘り体力に欠けていきます。しかしそこは集中力と忍耐で頑張ろうと日々決意しますが、ついつい怠けてしまいがちです。自分で自分を律することって、難しいですねえ。皆さんのお叱り激励のコメント、お待ちしてます。

夜桜見物

2007-04-09 11:00:52 | Weblog
 ここのところ、語りについてと、ちょっと硬い話が続いたので、今日は近況を書き込みます。
 昨夜4月8日の晩、妻とふたりぶらぶらと近くの公園まで、夜桜を見に行ってきました。
 桜はもう満開の際、今正に散り際を迎えた真っ盛りの頃で、零れんばかりに咲き誇っていました。気温は低く肌寒い中でしたが、それでも幾組かの花見の宴が囲まれ、酔いに弾む声が聞こえてきました。
 私たちはライトアップされたその公園の入り口から、遊歩道を1キロばかり歩いて、ところどころに咲く桜木を眺め上げました。この歩道に植えられた桜は私が二十歳の頃に植樹されたものなので、もうかれこれ二十数年の歳月を重ねて、皆逞しい樹となり、それぞれに個性ある枝振りを見せています。植樹された当時は、私よりも背の低い苗木だったことを思うと、何か違った感慨も湧き上がってきます。
 今夜は殊に、その一本一本の桜の木の花振りというものに思いを寄せられました。花振りという言葉が正しいのかあるのかないのかよくわかりませんが、単に振りがよいというだけでなくその生き様のようなものをも含めて、花振りというものを考えてみたのです。
 人生の盛りに咲かせる花の花振り・・・。私にそれがあるだろうか?四十は男の盛りなんて言うようですが、どうも自信がありません。

ひとり語りについて PART 2

2007-04-06 23:59:35 | Weblog
 前回は、古典の話芸のことなどからひとり語りについてお話しました。ひとり語りというのは、新しいスタイル、新しいジャンルのもので、いろんなスタイルで様々な方がひとり語りという肩書きで活動されています。
 ひとり語りの他にぴったり来るネーミングがないので、そう呼んでいるというのが現状のようです。
 ひとり語りとしてプロ活動している人は、全国に(といっても東京が主でしょうが)20名ほどではないかと聞いた事があります。が、実際のところはわかりません。もちろん肩書きとして俳優や声優とある方は除いてということになりますが・・・。それとむかし話の語り部さんというのも除いてです。また、ひとり芝居というジャンルに属するものとも微妙に異なるもの、つまり最低限原作の物語をまるっと暗記して自分の言葉として音変換し、語るというスタイルにこだわってやられているひとり語りの語り手を対称にしての20名ほどということになると思います。
 といって私はその他の方々とあまり交流がないので、現状には暗いです。私が存じ上げているひとり語りの第一人者としては、古屋和子さんという方を存じ上げていますが、お会いしたのは一度きりで、中々お会いする機会に恵まれていません。
 私が地方の限られた地域で活動しているので仕方のないことです。

ひとり語りについて PART 1

2007-04-02 00:34:48 | Weblog
 ひとり語りというものについて、これから少しづつお話していきたいと思います。日本の伝統芸、浄瑠璃、講談、落語、浪曲など、みな話芸なのですが、師匠から弟子へと伝えられる芸です。すべてがそうではないでしょうが、基本的には口承芸で(浄瑠璃語りには本があります)、師匠の語りを聞いてそれを憶えて稽古をつけてもらいます。つまり師匠の語り口をそっくり憶えて行く事から、その芸は始まっていきます。
 私のやっているひとり語りには師匠というものが存在しません。もちろん心の師匠、間接的に師匠と仰ぐ存在はありますが、直接的な師匠は存在しません。ということは、何の制約もなく自由だということです。そのかわり、壁にぶつかったり悩んだ時に、アドバイスをおもらうことは出来ませんし、しっかりとした形があるわけではないので、常に揺らぎがあって、おさまりの悪い思いに襲われることもあるのです。まあ、師匠がいたところでそれに変わりはないということもあるかもしれませんが、自由であるということは、それだけに試行錯誤を重ねて、より難しい思いをするものでもあるわけです。
 しかし、私の語りには原作となる作品があり、その活字によって語られる作者の文体、あるいは、語り口というものがあります。私のひとり語りなるものは、それと自分の語り口とのコラボレーション、または融合だと常々考えています。
 演劇と語りとの違いは、その力点の置き場なのではないでしょうか。もちろんどちらがどうということでなく肉体があり言葉を発し表現するものなのですが、語りは身体を動かして発せられる言葉ではなく、まず言葉が動かなければいけません。確かに身体も動きはしますが、まずは言葉なのです。演劇の役者は身体全体で表現することを求められます。が、同時に複数の人物を演じることを求められることは稀でしょう。ひとり何役もをこなすことはあっても、瞬時に何役もを演じ分けることはありません。これは語り芸ならでわのもので、例えば落語において、「長屋の花見」を演ずる時、何人もの登場人物を噺家は、演じ分けていきます。浄瑠璃の世界では、そうやって何人もの人物を演じ分けるために、声を変えることを「音遣い」と言うそうです。
 子供だから高い声。年寄りだからしわがれた声。と言うように声の色を変えるわけですが、ただそのようにすれば子供になり年寄りになれる、というものでもありません。さて、長くなりましたので、今日はこのへんで終わります。