ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

安らかな眠りに・・・・・・。(2)

2010-11-30 17:57:36 | Weblog

 在りし日のルドルフです。ふてぶてしく荒っぽく、妙に人懐っこい変わった猫でした。

 さて、何度かの脱走を繰り返した仔猫のルドルフは、室内猫として飼おうとした私たちの望みを裏切り、とうとう出入り自由の猫となって近所の猫たちとあくなきバトルを繰り返しながら、少しずつテリトリーを増やしていきました。

 駅近辺の駐車場で見かけたり、思わぬところで出っくわしたりすると一瞬素知らぬふりをしましたが、「ルド!」と呼びかけると必ず返事を返してくれました。

 町内の飼い猫のクロちゃんとの死闘は数知れず、止めにはいった私は、興奮したルドルフに噛まれるわ引っかかれるわで、足に全治7日間の怪我を負ったこともありました。

 なんといってもある初夏の沼地での決闘は凄まじく、黒豹になって帰って来、そのまま家に上がろうとするのを押し止めて、洗濯カゴの簡易の檻に押し込んで、ホースで泥を洗い落としたこともありました。

 度重なるケンカにとうとう立派な毛並みもボロボロになり、最後は耳元が両サイド禿げ上がる有様でした。

 けれど、おしまいにはそのケンカにも勝てなくなり、我が家に後からやって来た新参猫のテトにも勝てなくなっていた今日この頃でした。

 まるで古代の戦士のように、戦いに明け暮れてその一生を全うした、誇り高き野良の血を引いた飼い猫ルドルフよ。
 我が家にはじめてやって来た憎らしくも愛らしい飼い猫のルドルフよ、安らかな眠りにつきたまえ・・・・・・さらば!!

 私はしばし君を偲びつつ、内田百の「ノラや」でも読もうと思う。

 そう、もうルドルフはいないのです。

安らかな眠りに・・・・・・。(1)

2010-11-30 11:53:02 | Weblog
 我が家の飼い猫ルドルフは、昨夜の午後9時少し前に息を引き取り、永遠の眠りにつきました。

 私たちがこの家に越してきたのは10年前の夏、そしてルドルフはその年の秋に我が家にやってきました。
 子猫としては少し大きくて、生まれて二ヶ月以上は経っていたと思います。
 見るからに毛並みのフサフサした、洋猫の血を引くミックスであることは確かでした。

 知人を介してもらい受けたので、その出生については詳しくわかりませんでしたが、きっと立派な猫になることだろうと家族みんなが期待を寄せました。

 ルドルフという名前の由来は、その頃私と息子がはまって読みすすめていた斉藤洋著「ルドルフとイッパイアッテナ」からもらいました。
 この本でのルドルフは子猫のクロ猫ですが、イッパイアッテナというのもなんなので、そうしたのです。

 はじめは外には決して出さない家猫として飼おうとしたのでしたが、それは無理でした。
 はじめて子猫を飼った私たちにとって、仔猫がどれほどに家中を暴れ回るかということは想像以上のことで、また挑発にやってくる近所の猫にオスの魂は果敢に挑みかかり大変なことになったのです。      <つづく>

 

猫の尊厳死

2010-11-29 18:25:16 | Weblog
 今飼い猫のルドルフは瀕死の状態にある。餌を食べなくなり、水ばかりを飲んで10日ばかりが経ち、とうとう歩けなくなった。

 思えばこの夏の猛暑、彼はぐったりとして過ごし、食も細り、あれほどに必要に歩き回っていたテリトリーの巡回へも出かけず、我が家へやって来て10年余の歳月の中ではじめて、家猫になった。

 それでも秋の声を聞き、肌に涼しさを感じられるようになると食欲も戻り、遠くには行かないが、庭の辺りを散歩するようになって、復活したかに見えた。

 しかし今月の半ばを過ぎて、急に食べなくなり、にぎやかな茶の間を避けて、静かな二階の部屋の片隅に身を横たえながら、水とトイレにだけに下へ降りてくるようになっていた。

 今日の明け方、大きな声で鳴くのを聞きつけて妻が二階へ上がっていってみると、どうも押入れから降りそこなって、動けなくなっていたという。
 そうして今、居間のコタツの片隅にしつらえられた簡易な病床に身を横たえている。

 もう何年前になるか、ひ尿気系の病気で尿毒症を起こしかけ、10日ほども動物病院に入院して、九死に一生を得たことがあった。
 ケンカして怪我をし、病院通いもした。
 暴れん坊でケンカっぱやい猫であるが、そうであるがゆえに人一倍臆病で、用心深い猫でもある。そうして、人一倍甘えん坊のクセに、人にかまわれることがとても嫌いな猫だ。

 私の独断ではあるが、もういいように思える。医者に行けばひょっとして回復し、命を永らえられるかもしれない。しかし、それは猫にとって本当に幸福なことだろうか?

 人間にも尊厳死というものがあるように、猫にも尊厳死というものがあっていい。
 自然死というものは、本来それほどに忌み嫌われるものではないはずだ。

 むかし猫は、おのれの屍を飼い主に晒すことなく、死期を悟ってそっと姿をくらましたものだったという。飼い猫であっても、猫には猫のプライドというものがあったのだ。
 それも容易に出来なくなった現代、せめて猫は猫らしく、その最後を全うさせてやりたいように思う。

 ルドルフは、苦しいのか時折悲しそうに鳴いてかすかに身をくねらせる。私はその口元を少し水で湿らせてやる。
 
 死というものは、厳かで神聖なものである。

一喜一憂の世相

2010-11-28 11:57:40 | Weblog
 歴史的観点から見ると、どの時代を生きた人も自分の今ある時代が一番素晴らしいと思って生きてはいないようだ。
 常に閉塞感や不安感はつきまとっていて、別に現代に限ったことではない。
 昔は良かったなどと年寄りが口にしたとして、ではその昔にそう思っていたかといえばきっとそうではなく、それはノスタルジーに過ぎない。

 リアルタイムに生きる私たちは、どうも今現在を大変な時期に生きているような錯覚に陥れられている。
 大きな眼で見れば、良い時もあれば悪い時もあるくらいに考えればいい。

 古代に生きようが、中世に生きようが、また近代、現代に在ろうが、その一生は一生に変わりなく、その時代の生と死を全うしなければならない。

 大事なのはこの時代を選んで生まれてきたのは、自分の意志だったのだと考える覚悟ではないだろうか(厳密にいってそうでなかったとしてもだ)。

 腹を括れば、この世に生きるのもそう捨てたものではないどころか、相当におもしろい。
 人が人として歩むことは、これは相当におもしろいことなのだと思えば、苦も苦ではなくなるのだ。

 と、私は考えて暮らしている。

{新訳}チェーホフ短編集 を読む

2010-11-26 18:28:37 | Weblog
 沼野充義訳の表題の本を読んでいます。チェーホフの短編や小品はいろんな人の翻訳で読んできましたが今ひとつ面白いとは思えなかった。もちろんロシア語では読めませんし、私の読書力のなさが大いに影響していることはあるのですが、それでも伝わってくるものが薄かったのです。

 今回沼野充義先生の新訳を読んで、ああなるほどと思えるところがたくさんありました。一編ずつに詳しい解説が書かれてあるのもうれしいことでした。

 劇作家では誰が好きか、と聞かれたらやっぱりチェーホフと、答えてしまうでしょう。
 チェーホフのような作品が書けたら(無理でしょうが)と、夢見てしまいます。ですから、神西清訳の4つの戯曲を、若い頃から一番読んでいるんじゃないかと思います。

 私はあまり執着するということがないので、なんにしても広く浅くになりがちですが、
そんななかでも同じ作品を何度も読み返したというものは、チェーホフの戯曲以外に見当たりません。

 さして大きな事件も何も起きないけれども、日常の1コマ1コマがドラマとなって成立していく。これは私の理想のカタチです。

外仕事 その2

2010-11-24 13:21:57 | Weblog
 昨日の勤労感謝の日の祭日は、午後から外仕事のつづきに取り掛かりました。

 まずはキーウィの枝落とし。このつる性の植物の侵食のおおせいさは、他のつる性の植物に引けをとりません。
 いや、キーウィがつる性の植物かどうかは確実なところわからないのですが、隣り合った木々に枝を絡ませくねらせて、どこまでも伸びていこうとする力は凄まじいものがあります。
 毎年かなり大胆に剪定のハサミを入れますが、一年のうちにもとのようになるその成長ぶりは半端じゃありません。
 葉っぱを落とすのも豪快です。

 さて、それから百日紅です。これもしっかり切ってあげないとヒョロヒョロ伸び放題に長い枝をやたらに出してしまって、隣の大きくなりすぎた金木犀とケンカになります。
 金木犀はもう高すぎて脚立が届かないので、すその下の方をほんの少し刈り込んであげるだけです。

 それから梅ノ木です。上に伸びた枝を出来るだけ払います。今年はあまり高いところにあった梅の実は取れずじまいですた。なるべく横に広がるように剪定出来ればいいんですが、難しいです。

 あとは背の低い木々にハサミを入れて、庭全体をこざっぱりとさせて、本格的な冬の到来を待ちたいのですが、ああ~昨日も最後までは出来ませんでした。

◎ 枝打ちの 枝にはすでに 春がある (青蜩庵)

久しぶりの外仕事

2010-11-22 15:56:23 | Weblog
 芝居公演の前後は、すっかり外回りには手が付けられず、畑のオクラもトマトも霜にあたって立ち枯れのまま。葉を落としたキーウィもそのままになっていましたが、ようやく昨日から片付けに取り掛かれました。
 といって、1日中は時間が取れないので、夕方の2,3時間になってしまい、それでは出来切らず、今日に持ち越しになったのですが、今日は朝から生憎の雨で、外仕事は明日以降にまたち越しとなりました。

 梅ノ木やそのほか何本かの木々の剪定作業。そして来春に向けての畑の堆肥作りもやらないと・・・・・・。

 草々もそのまま冬枯れさせればいいんでしょうけれど、多少はキレイに目鼻を付けておきたいと思いますし、屋ぐろも整理しておきたいと思いますし、やりたいことはいっぱいです。

 冬錆びていく我が家の庭に、時折羽を休めていく小鳥たちは元気に囀り、空へと羽ばたいていきます。
 私も寒さにかまけてはいられません。炬燵の虫にならないように、動きまわろうと思います。が、ついついディスク・ワークに腰を重くする日々です。
 

工作の11月。

2010-11-20 13:25:35 | Weblog
 公演も終りひと息ついてというわけでもありませんが、今週は色々と工作に時間を費やしています。

 その皮切りが11月14日の日曜日に妻と二人で参加した、図書館の催し企画「豆本つくり」でした。
 何もかも用意してもらって、教えてもらった通りに作っていけば出来上がるものでしたけれど、とても面白かったです。

 中津川市の図書館のホームページにその様子が載っているそうですので、興味のある方は観てみてください。

 一昨日は、妻が台所を整理していた中に、前にお土産でもらった中国の絵入りのコースターがあったので、それを壁掛けの飾り物に作ってみました。

 そのほかには、古い椅子に布や紙を張って変身させたりと、色々と遊んでいます。

古本を読む

2010-11-19 17:25:25 | Weblog
 先日終わったお芝居の小道具として使用した古い本の中に、昭和3年6月に新潮社から刊行された世界文学全集30「椿姫・サフオ・死の勝利」という1冊がありました。

 デュマ・フィス作「椿姫」の訳は高橋邦太郎という人。ドーテの「サフオ」を武林無想庵、そしてダンヌンツィオの「死の勝利」の翻訳を生田長江が務めています。

 前の2つはそれほど読みいいともいえないのですが、最後の生田長江訳がおもしろいんんです。読ませるんです。

 最近新訳ものがちょっとしたブームで、いろいろの作品の新翻訳本が出版されていますが、昔々に翻訳されているものをまた改めて読み直すという作業も、一考かと。

 確かに旧仮名遣いや、読み辛い点は多々あるにはあるのですが、これまた音読してみると、その訳者の息遣いやコンテクスト(文脈)が読み取れ、格調があって興味深いものがあります。

 ほかにも手元には、大正十二年に出されたトルストイの「戦争と平和」(惜しくも全巻はありませんが)や坪内逍遥訳のシェイクスピアものがあります。

木曽の紅葉はもうピークですね。

2010-11-16 11:14:33 | Weblog
 今日ほど晴れ渡った空なら良かったのですが、昨日はあいにく曇天で、時折小雨も少しだけ落ちて、肌寒い日でした。

 それでも、車を走らせてまた木曽上松町にある寝覚ノ床まで行ってきました。
 来年のお芝居のチラシ用の写真がほしかったからです。

 陽射しはなくどんよりとしてはいましたが、山々の木々は色付き、殊にモミジやイチョウは見事に紅や黄色を燃え立たせていました。

 今年夏以降に、もうここを3度もたずねたので、途中観光客に道を聞かれても、懇切丁寧に教えてあげられるので、まるでこの観光地の管理者か案内人のようだと、妻と二人で笑えてきました。
 まあ、あたり前のように道を尋ねたおばさんも、どう思ったのか・・・・・・自分たちと同じ観光客には見えなかったのでしょうか?

 寝覚ノ床のなかなかいい撮影スポットが見つからず、上のドライブインのレストランの展望台から撮るために、そのお店に入ってコーヒーを注文しました。
 
 展望席は寒いので中でどうぞというのを、観たいからと断わり撮影させてもらい、コーヒーはあらためてお店の中のテーブルに座って飲みました。
 
 午後3時過ぎの誰もほかに客のいないドライブインの殺風景なテーブル席の片隅で、眼下の木曽川と対岸の山の紅葉を眺めていると、ウエイトレスの若いお姉さんが、紅葉も今がピークで、モミジが一番きれいですと教えてくれました。とても接客の上手な、好印象のお嬢さんでした。

 微笑と細やかな気配りが、コーヒーの味わいを補い埋め合わせてくれ、心地よい小さな旅のひと時をうるおわせてくれました。

 帰り道は、大桑村の道の駅で栃もち大福とおにぎりを買って帰りました。