ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

決意の夏、始まりの秋 PART 3

2008-07-11 15:44:52 | Weblog
 35歳は人生のターニング・ポイント。当時そのようなテレビ番組もやっていましたが、僕も正しくそうだと思っていました。

 さて、旗揚げ口演に何を演ろうか? もちろん、息子の保育園で読んだ絵本「なんげぇはなしっこしかへがな」は朗読するつもりでしたが、メインになるものは朗読ではダメだと端から考えていました。
 そして、レパートリーの詳細解説でも紹介していますが、いつかは演りたいと思っていた さねとうあきら氏の作品「おこんじょうるり」の原作をそっくり覚えて語ろうと思いました。
 僕は演劇をやっている頃から、セリフ覚えがそんなに良い方ではありません。稽古をしながら身体で覚えていくタイプでした。丸暗記なんて、受験勉強をしっかりやらなかった付けが回ってきたのかと思いました。
 毎日本当に1行2行と覚えて、まるで土台にレンガをひとつひとつ積むように創っていって、約1ヶ月で覚えると、後は残りの1ヶ月、本番まで語り込んでいきました。
 そうして、1995年10月27日の本番の夜を迎えました。
 約4年のブランクがありました。その間にはもう声も出ないというような時もありました。この夜の僕は、今までにない緊張感にすべてを蔽い尽くされていました。スタッフとして手伝ってくれた妻も、ガタガタと膝が震えたといいます。
 その日のお客さんは、これまでお世話になった友人知人、場所を借りた友人のお店の知り合いの人、そして息子の小学校の担任の先生など、10数名の方たちでした。
 一応それを生業としていくということで、一人300円の木戸銭を頂いたと思います。
 語り始めて30分、僕の緊張は頂点に達して、だんだんキリキリと胃が痛みだし、何とか脂汗を流しながら語り終えた時には、もうそのまま旗揚げのお礼も挨拶も出来ない状態で、一旦外へ出てしまいました。
 ひとり語りをやろうと決めた日から、最初はウォーキングそして次第にジョギングと、毎日2キロばかりの距離を走っていましたが、未だ本番をやり通すだけの体力がなかったものと思います。それでも最後まで演れたことは、ネクスト、継ぎえの力となっていきました。
 それでも最初のうちは、いや5,6年くらいはいっぱい仕事が来たらどうしようと、思っていたほど体力的には自身がありませんでした(まあ、その頃はまだいろんな症状にも悩まされてもいました)。
 1995年は暮れの12月までに、旗揚げ口演より8本の仕事を頂きました。声を掛けて頂ける、呼んで頂ける、そのことがどんなにうれしかったことか。初期の頃に聴いていただいた方々には、本当に拙い語り、朗読をお聴かせしてしまったものと、今もって申し訳なく思いますが、それがあって今があるわけですので、本当に感謝のしようもありません。まだまだ発展途上の語りではありますが、これからも怠けず取り組んで行きたいと思っています。
 それでは今日はこのへんで・・・。