新美南吉「手袋を買いに」
今日は新美南吉についてお話したいと思います。
北の賢治南の南吉と、日本における代表的童話作家として並び評されることがある二人のようですが、僕の感覚からすると新美南吉は新美南吉で、宮沢賢治は宮沢賢治。それぞれに違っていて、良いのだと思います。
大正から昭和初期にかけてこんな二人の作家が登場し、しかも二十代の若さであれだけの仕事を残して、さっさと駆け抜けていったというのは、どういう事だったのか。彼らの残した仕事の大きさは、後の世の私たちに与えた影響力からして、並大抵のエネルギー量ではなかったのではないか。だから、早くにこの世を去ってしまったのではないか・・・と、そんなことを考えてしまいます。
さて、私がひとり語りの仕事を始めてレパートリーを一つずつ増やしていこうとしていた初期の頃、新美南吉の作品も是非にと考えて選んだのが、「手袋を買いに」でした。
南吉童話の代表作といえば「ごんぎつね」。今も小学校の国語の教科書に掲載され続ける名作です。「ごんぎつね」か「手袋・・・」どちらをレパートリーに加えるかと思案した時、あの時の私は南吉の原点はやはり「手袋を買いに」ではないかと思い、こちらを選択したのでした。
南吉童話の主要部分にあるものは、やはり母への追慕の情。物心つかぬうちに実母をなくした彼の、その母親への思いです。
色々な作家を見てみると、幼くして母親を亡くしている人の多いこと。また、何らかの事情で、親の情愛に恵まれなかった人というのが、目立ちます。もちろんそれに限りませんが、満たされないものを想像力によって埋めていこうとする力が、どうやら創作の原点にはあるような気がします。
南吉童話に登場するきつね。ごんぎつねにしろ、親子の銀ぎつねにしろ、私はかなり強い擬人化の傾向を感じ取るのです。その主人公たちに自らの思いを塗りこめていったのではないかと・・・。
「ごんぎつね」に登場するごんも兵十も、私は南吉そのもののように思えるのです。だから兵十はごんを鉄砲で撃ってしまう。つまり、自分自身を撃つのです。
母への思いを断ち切れず大人になり切れない自分自身へ、内面的に鉄槌を加えたのではないかと・・・。
そこへいくと「手袋を買いに」は、ストレートで素直な思いが表現されています。どちらも二十歳前後に書かれたもので、揺れ動く内面心情を、見事に結晶化させて作品に仕立て上げた彼の才能にあらためて感服してしまいますが、私はその結晶度において、「手袋を買いに」を選びました。
彼はこの作品のラストに、極めて正直なところを吐露しています。それは母狐の言う「本当に人間はいいものかしら・・・」という言葉です。私はこの問いかけを作品から受け止めて、語り手としてこれからも、聴いていただくお客様に広く投げかけて行きたいと思っています。
また、この作品を原点として、南吉が最晩年に書いた「きつね」という作品を語りたいと考えていますが、未だに実現してはいません。この「きつね」という作品には実際にきつねは出て来ません。いわば「手袋を買いに」の裏返しの作品です。新美南吉三十年の生涯において、ここへ辿り着いたその足跡を顧みながら、私はこの「きつね」を語ることによって、ふるさと半田を舞台に童話を創作していった新美南吉の心の奥深くにあったものへ、もう一度思いを寄せてみたいと思っています。
今日は新美南吉についてお話したいと思います。
北の賢治南の南吉と、日本における代表的童話作家として並び評されることがある二人のようですが、僕の感覚からすると新美南吉は新美南吉で、宮沢賢治は宮沢賢治。それぞれに違っていて、良いのだと思います。
大正から昭和初期にかけてこんな二人の作家が登場し、しかも二十代の若さであれだけの仕事を残して、さっさと駆け抜けていったというのは、どういう事だったのか。彼らの残した仕事の大きさは、後の世の私たちに与えた影響力からして、並大抵のエネルギー量ではなかったのではないか。だから、早くにこの世を去ってしまったのではないか・・・と、そんなことを考えてしまいます。
さて、私がひとり語りの仕事を始めてレパートリーを一つずつ増やしていこうとしていた初期の頃、新美南吉の作品も是非にと考えて選んだのが、「手袋を買いに」でした。
南吉童話の代表作といえば「ごんぎつね」。今も小学校の国語の教科書に掲載され続ける名作です。「ごんぎつね」か「手袋・・・」どちらをレパートリーに加えるかと思案した時、あの時の私は南吉の原点はやはり「手袋を買いに」ではないかと思い、こちらを選択したのでした。
南吉童話の主要部分にあるものは、やはり母への追慕の情。物心つかぬうちに実母をなくした彼の、その母親への思いです。
色々な作家を見てみると、幼くして母親を亡くしている人の多いこと。また、何らかの事情で、親の情愛に恵まれなかった人というのが、目立ちます。もちろんそれに限りませんが、満たされないものを想像力によって埋めていこうとする力が、どうやら創作の原点にはあるような気がします。
南吉童話に登場するきつね。ごんぎつねにしろ、親子の銀ぎつねにしろ、私はかなり強い擬人化の傾向を感じ取るのです。その主人公たちに自らの思いを塗りこめていったのではないかと・・・。
「ごんぎつね」に登場するごんも兵十も、私は南吉そのもののように思えるのです。だから兵十はごんを鉄砲で撃ってしまう。つまり、自分自身を撃つのです。
母への思いを断ち切れず大人になり切れない自分自身へ、内面的に鉄槌を加えたのではないかと・・・。
そこへいくと「手袋を買いに」は、ストレートで素直な思いが表現されています。どちらも二十歳前後に書かれたもので、揺れ動く内面心情を、見事に結晶化させて作品に仕立て上げた彼の才能にあらためて感服してしまいますが、私はその結晶度において、「手袋を買いに」を選びました。
彼はこの作品のラストに、極めて正直なところを吐露しています。それは母狐の言う「本当に人間はいいものかしら・・・」という言葉です。私はこの問いかけを作品から受け止めて、語り手としてこれからも、聴いていただくお客様に広く投げかけて行きたいと思っています。
また、この作品を原点として、南吉が最晩年に書いた「きつね」という作品を語りたいと考えていますが、未だに実現してはいません。この「きつね」という作品には実際にきつねは出て来ません。いわば「手袋を買いに」の裏返しの作品です。新美南吉三十年の生涯において、ここへ辿り着いたその足跡を顧みながら、私はこの「きつね」を語ることによって、ふるさと半田を舞台に童話を創作していった新美南吉の心の奥深くにあったものへ、もう一度思いを寄せてみたいと思っています。