ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

10月の終わりと11月の始まり。

2009-10-31 23:06:55 | Weblog
 もうすぐ10月も終わります。あと1時間弱。
 明日は天気、下り坂のようです。秋の中山道まつり、フリマに出店の予定です。見に来てください。 

子供は宝

2009-10-29 20:20:01 | Weblog
 今日は市内の保育園で読み語りさせてもらいました。今日もなんともかわいく愛しい子供たちでした。
 絵本を読み終え、私になんの警戒感も抱かず、信頼と安心を信じて近づいてきてくれる子供たち。この子たちの濁らない目の輝きを、どうやっても失わせないようにしたい。そうして、自分たちの未来を信じて、育っていって欲しいと願うばかりです。

 しかし、どんなにこの子たちが無邪気に子供らしくありたいと思ったとしても、この子たちをそう在らしめるのは、私たち大人であることを忘れてはなりません。次の時代を荷う子供たちは、宝以外の何ものでもありません。自分の子もよそ様の子もない、すべて等しく尊いものなのです。

 大事にするということは、当然のこと、猫可愛がりをすることでもなければ、甘やかして何でも与えることでもありません。大人の都合で厳しくしたり、教育したりすることでもない。

 常に彼らに必要なものは、まず彼らが子供として生きられる、子供たちだけの空間です。大人である私たちがつくってやらなければいけないその空間を、教育という名の下に、私たちが奪っていたとしたら、現代は悲劇そのものです。

 私はいつも思います。子供には少なからず、大人の介入できない、介在させない領域が必要だと・・・・・・。
 今時の子供にそれは危険だと多くの大人たちは言うでしょう。しかし、そのこと自体を危険なものに変質させてしまった時代的背景を反省して、いま一度省みないことには、どうにもならないのではないでしょうか。

 すべては経済を中心に世の中は回っています。子供たちはその枠組みの中に否応なく組み込まれていきます。
 それをまったく悪いことだとは言うつもりはありません。しかし、どの時代も程ほどの度合いというものがあったはずです。いや、あるべきです。

 未来を荷う子供たちを中心において、いま一度私たちはこの社会を見つめ直さなければいけないのではないでしょうか。

 

紅葉の神坂峠

2009-10-28 17:38:49 | Weblog
 今日はちょっと気分を変えて、神坂峠辺りへ行って稽古しようと、車で登っていきました。
 強清水を越えて、神坂大檜へ行くところも通過して、富士見台への登山道登り口の駐車場に車を置いて、辺りを散策しました。
 予想以上の人の多さ、車の多さに驚きました。そのほとんどが熟年の方々。本当に山歩きされる方が多いことを実感しました。

 阿智村の展望台方面から、ひっきりなしに富士見台周遊コースのマイクロバスが往復し、足並み軽やかなおば様やおじ様方に遭遇するたびに、挨拶をかわしました。

 千島笹の緑の波の広がる富士見台高原、そして紅く色づいた山並みの彩が綺麗でした。空気は冷たく澄んで寒かったですが、神坂峠史跡辺りで、人目も気にせづ2時間近く稽古して来ました。

10月の庭 PARTⅢ

2009-10-26 09:47:58 | Weblog
 今日は久しぶりの、雨の日になりました。昨夕しきりにアマガエルが鳴いていたので、もうすぐ雨が降ってくるな、と思っていたら夜半過ぎから降り出しました。

 前に玄関燈のところを棲みかにしていたアマガエルくん、今は玄関の前にあるベンチの、ちょっとした東屋風の建物の壁にかけてある日めくりの裏に住居を移しています。
 これから冬に向かっていきますが、アマガエルくんはどこで冬眠するのでしょうか?

 我が家の庭も、日々秋の景色を濃くしています。柿の木にはたわわに実がなりさがっていますが、残念ながら渋柿です。
 植えたか接木したかは定かでありませんが、まだそんなに年数の経っていない木で、実がなるようになって4,5年というところでしょうか? 誰が植えたのか、もともと甘柿であっても、渋柿に変わることがあるそうですが、鳥の糞とかで運ばれてきて、自然に生えてきたものなんでしょうか。

 干し柿にしたりした年もありましたが、あまり食べないのでこの頃はやめました。熟柿はまただいの苦手なので、食べられません。

 キィウイの葉も、まだそんなに枯れ落ちてはいませんが、そろそろその数を増していくでしょう。そのほかに庭にある落葉の木は、ノウゼンカズラに百日紅、それに小さな小さな林檎の木くらいでしょうか。

 今年はなぜか、キィウイの横に生えていた山椒の木が枯れてしまいました。猫がおしっこ場にでもしたんでしょうか?

 庭もこれから冬を迎えるにあたって、ひっそりした佇まいを見せはじめますが、その前のわずかな秋の日々を、それなりに精いっぱい彩りながら、静かに静かに時を送っていきます。

お買い物のことについて

2009-10-23 12:58:08 | Weblog
「お買い物のことについて」といっても、べつにお買い物というのがどうとか、何をかを買うとかいう話ではないんです。
 
 私はまあ、スーパーマーケットとか、日々のいわゆるお買い物ということをよくするのですが、その時のことで、私が日頃思っていることをちょっと書こうかなと・・・・・・。

 みなさんはレジに並ばれて、レジスターでお会計をしてくれる従業員の人に、声をかけたりされますか?
 もちろん、何か話さなければならない事態に陥った時はそうしたくなくても、たとえば「これ値段違ってるわよ」とかは、話しますよね。
 では、それ以外に別段問題もない時はどうでしょう?

 結構無言で支払いを済ませたりしていませんか? まあスーパーマーケットというところは、それができるところというのは前提ではあります。

 店員さんはだいたいマニュアル通りの対応をしてくれます。「いらっしゃいませ」「お預かりします」とか、そして商品の値段を読み上げてバーコードを通過させていきます。そうして合計の値段を告げ、客の出した金額を預かり(最近1000円からとか言ってお金を預かる店員さん、減りましたよね・・・・・・余談です)、お札のおつりがある場合などは、その大きい方から返して、レシートと小銭を渡してくれます。

 その全体的な流れからすれば、確かに客は一言も発しなくても済むようになされていますし、また最近というかちょっと前になりますか、買い物袋が要らない場合、いりませんカードをカゴの中に放り込めば「エコバッグ持ってますからいいです」ということさえしなくてよかったんです。

 面倒くさいことはやらせない、便利なこと優先、実に合理的なシステムです。
 今ではあまりこんな言葉使われもしなくなりましたが、もともとこういうスーパーマーケットは、セルフサービスでお買い物をさせるお店。客が勝手にというか気ままに、商品を品定めして、カゴに入れレジへ持っていって会計を済ませて帰る。
 つまり対面で、品物についてのことをお店の人に聞いたり「これもうちょっと安くならない?」なんて、値切ったり出来ないことを目指したお店。
 昔の人はそれに寂しさを感じましたが、もうそんな感情も大昔のことのようです。

 だって、言葉すら交わさないんですから。そして、店員さんも若い人なら尚更それを当たり前のことのように受け止めていることでしょうし、かえってヘンに話しかけられたりしたら、いやだなぁと思うことでしょう。

 私はこの無言というのがどうしても気持ち悪い。べつに世間話をする必要はありません。次の人が待っているのだからスムーズに流れるべきで、1人の客が手間取らせることは、いい迷惑です。

 しかし私は、カゴを渡した時には「お願いします」。金額を告げられたときには「これこれでお願いします」。そうしてすべてのやり取りが終了した時は「ありがとう」と声をかけるようにしています。

 人と人とが相対した場合の、それが最低限のコミュニケーションであり、マナーなのではないか? と思うからです。

 そう声をかけたときの9割がたで、レジの店員さんは「またお越しください」と声をかけてくれます。これは、無言で通過する場合には少ないように思います(思い過ごしかな、それとも何か相対マニュアルでもあるのかな?)。

 とにかく、単にレジに並んでいるだけでも様々な人間模様というものは垣間見られるものです。
 前に、レジが終了する間中ケイタイ電話ではなしつづけ、お金をポーンと放りなげ、おつりをひったくる様にして買い物していった年配の男の人を目撃しました。あれはいただけない。居丈高で、人を見下げたような態度には、腹が立ちました。

読書の秋なので・・・・・・。

2009-10-21 10:42:55 | Weblog
 先日は、読書の秋なのに・・・・・・という記事を書きましたが、実はじっくり腰を据えなければ読めないようなものに手をつけてしまったために、遅読に拍車をかけてしまった次第なのです。

 その一因の一冊吉本隆明著「共同幻想論」(改訂新版角川文庫)を一応読み終えて(再読しなければと思ってますが)、手に取ったのが鹿島茂(聞き手斉藤珠里)「セックスレス亡国論」(朝日新書)という1冊でした。

 これは興味深く面白い一冊でした。いや、面白いと言っちゃっていいのかな?  日頃関心の高かったことに答えを提供してもらったという意味では、目からウロコの一冊でしたよ。

私は凝り性

2009-10-20 18:48:40 | Weblog
 ものに凝るという意味ではなく、実は肩凝りのことです。
 肌寒い季節になり、衣服を着込むようになると、毎年こんなことを書いているかもしれませんが、ことに寒い季節の肩凝りはキツイものです。

 この前も服の合う合わないが激しいことを書いた記憶がありますが、ほんとにおしゃれどころでなく、身体に合うものを着ようとすると、限られたものになって、裸でいるわけにもいきませんから、我慢して着つづけると、はなはだしく凝りは悪化。

 今まさにそんな状態で、あんまり長い記事は辛いのでこれで終わります。中味のない記事ですみません。

読書の秋なのに・・・・・・。

2009-10-19 10:31:39 | Weblog
 朝晩は涼しいというよりもう寒くて、我が家ではもうすでに居間に炬燵がつきました。
「え、早い!」といわれるかもわかりませんが、我が家は古い木造家屋なので、忍び寄る寒さが、季節に比例しているのです。

 そんな中、集中力には最も適しているという気温18度くらいの気候なのに、本がなかなか読めていないというのが現状です。

 確かに読みたいものはたくさんあって、読みかけの本も何冊かあって、読まなければならないと思うものも、本棚の中にその出番を待ち受けているのですが。

 ひとつの作品を覚え込む作業というものに、そういった時間配分が割かれてしまっているようで、まあ自分自身余裕がないのでしょう。

 人は四六時中ただひたすらにひとつの事だけに集中しているというのは、難しいものです。本来そうあるのが理想であるとも思いますが、いや、なかなか難しい。

 そこで息抜きとして、コーヒーを飲むとか本を読むとか、おしゃべりするとかしながら、また本来の仕事に移行させていくわけですが、どうも近頃はその配分がうまくできないようで・・・・・・。

 けれど今日ようやっと、一冊の本を何とか読み終えました。が、どこまでその内容を咀嚼できたかというと疑問です。
 このぶんだともう一度読み直さなくてはいけないようで・・・・・・。

 読書の秋なのに、本が読めてないというグチでした。

恵那中野方町不動滝の「味菜」

2009-10-17 17:15:01 | Weblog
 今日は仕事で、中野方町へうかがいました。私はいつもこちらへうかがうと、地元の方たちでやってみえるお店「味菜」によって、新鮮な野菜を買うことにしています。
 この中野方町産の野菜が美味いんです。また、手作りのお弁当やパンなどもあって、うかがった先でそのお弁当も頂戴しました。美味しかった!

 皆さんも是非、中野方方面にお出掛けの際は一度寄ってみてください。季節のお野菜がほんとに美味しいですから・・・・・・。

ウォーキングのためのウォーキング

2009-10-16 14:53:41 | Weblog
 このごろただ歩くだけのウォーキングでなく、稽古やセリフ覚えをしながらのウォーキングになりがちで、気を入れて歩くことに専念するということがなかったので、今日はとにかくウォーキングに集中して、早足でフォームも崩さないようにと気をつけて歩いてみました。

 所要時間が30分くらい短縮され、運動したかなという気分です。
 身体作りも大切にしていかなければ・・・・・・。