喪に服すということは、とても大切な行為だと思います。大いなる悲しみに襲われたとき、人は充分な休息をとり、惜しみなく泣き、癒されそうにはないその悲しみを少しでも軽減するためのあらゆる手段をとるべきです。それが出来ない現状を変える力がないときは、ただ心を寄り添わせ、祈ることしか出来ません。
今日本中に、何も出来ない無力感に苛まれている人は数多くおられると思いますが、他人の悲しみを我が事のように受け取ることの出来るその感情をこそ糧として、粛々と日常を生きることも大事なのではないでしょうか。
伝統的な行事、イベントは出来得る限り中止しないで、共に前へ進む勇気を持って、心も経済活動も活気付けていくことが大切なことではないでしょうか(祭りや催しは、必ずしも単に浮かれ騒ぐことではないです)。そしてそのパワーを被災地への支援に向けていくことが、これからの私たちのあるべき姿だと思います。使われる資金を寄付にまわすというのも頷ける行為ではありますが、選択肢はひとつではないように思います。後ろ向きにならないでやれるところからはじめればいいのです。
本当のことを言えば、何が正しいのかなんて私にもわかりません。が、わからないなりにも考え続け、多くの人の言葉にも耳傾け、そして自分の言葉を選び取っていく、それしかないと思っています。
これは今の私の精一杯の考えです。
今日本中に、何も出来ない無力感に苛まれている人は数多くおられると思いますが、他人の悲しみを我が事のように受け取ることの出来るその感情をこそ糧として、粛々と日常を生きることも大事なのではないでしょうか。
伝統的な行事、イベントは出来得る限り中止しないで、共に前へ進む勇気を持って、心も経済活動も活気付けていくことが大切なことではないでしょうか(祭りや催しは、必ずしも単に浮かれ騒ぐことではないです)。そしてそのパワーを被災地への支援に向けていくことが、これからの私たちのあるべき姿だと思います。使われる資金を寄付にまわすというのも頷ける行為ではありますが、選択肢はひとつではないように思います。後ろ向きにならないでやれるところからはじめればいいのです。
本当のことを言えば、何が正しいのかなんて私にもわかりません。が、わからないなりにも考え続け、多くの人の言葉にも耳傾け、そして自分の言葉を選び取っていく、それしかないと思っています。
これは今の私の精一杯の考えです。