ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

ツバメのはなし。

2009-06-29 09:52:17 | Weblog
 ここのところ動物の話が続きましたので、今日ももうひとつツバメのおはなしをしようと思います。

 これはもうずいぶん前のことなんですが、私がまだ外回りの仕事をしていて、車を運転中にであったことです。

 ある工場のまわりをグルリッとまわるように一車線の道路があって、その道路の工場の敷地になっている反対側は、おう方が川の土手で、その土手のところに、たくさんのツバメたちがあつまり、黒いかたまりを作っていました。

 季節はそう、桜の花も散り、葉桜のころ4月の中旬から下旬にかけてのことだったと思います。ちょうど南からツバメたちが帰ってきて、巣作りを始めようという時季です。

 黒いかたまりは、その中央に倒れている一羽を囲んでいるのでした。
 横たわっている一羽はもう死んでいるようでピクリとも動きません。その一羽に寄り添うようにする、きっとパートナーなのでしょうもう一羽が、本当に悲しそうに何度も覗き込んでは、動かない一羽をつっついてみるのですが、なんの反応もかえってはきません。
 まわりの6,7羽は、ただ心配そうにその姿を見守るばかりでした。

 私は10メートルばかり離れた路肩に車を止めて、出来る限り肉眼でしっかり眺められる位置にそっと近寄っていき、仕事中ということも忘れて観察し続けました。
 どのくらいの時間その光景はつづいたでしょうか。やがて、1羽2羽とその場を去っていき、最後にはパートナーなのだと思われる1羽が残りました。どうしても思い切れない様子に、私の目にはうつりました。

 ツバメという鳥はとても家族、一族のきずなのつよい鳥のようです。
 私は奇しくもそのツバメの葬儀を垣間見てしまったわけですが、ふと足を止めてみるといたるところに自然のドラマは展開されています。

庭の小動物。

2009-06-28 09:20:14 | Weblog
 我が家の庭には、いろんな生き物たちが棲息しています。ことに頻繁に眼にするのは草トカゲ(昆虫は除いて)。
 我が家の庭の草トカゲはあまり警戒心が強くありません。私が草むしりしている傍らをのんびりと通り過ぎていきます。実際はのんびりしているのでなく、一生懸命エサを求めているんでしょうけれど・・・。

 最近あちこちに土が盛り上げられているのを見るので、どうやらモグラも棲んでいるようです。が、まだ姿は確認していません。

 また年に1度や2度は、蛇の姿も見かけますが、これは棲んでいるのではなく近辺からやってくるのでしょう。

 さて、この頃気がかりなのはカエルです。雨が近かったり日が暮れてきたりすると盛んに鳴いていたカエルの声が聞こえてきません。
 殊に我が家に長年棲みついていたトノサマガエルを見なくなってしまったことが寂しいです。
 トノサマガエルは絶滅危惧種に数えられている種だとか。都道府県の中ではまったく姿を見なくなってしまったところもあるそうです。

 そういえば、その絶滅危惧種のひとつイモリを庭の金木犀の根元に発見したのはどのくらい前の事だったでしょうか。あれ以来棲息を確認していません。

 この家に越してきた8年前には、近くの蒲の穂の繁っていた沼も水枯れしてしまい、賑わしく鳴いていたヒキガエルも、声がうるさいと駆除されてしまい、貴重な棲息の場をなくしました。

 みなさんは、ご自分の周辺にどのくらいの小動物が棲息しているか、目を向けてみた事はおありでしょうか。
 自分の住む環境の変化のバロメーターとして大事です。

 私がこの20年くらいで散策して歩いた周辺のあらゆる場所から、徐々に小さな生き物たちが姿を消しているのは明らかです。しっかりとしたデータとか調査をしているわけではありませんが、ドジョウやザリガニ、イモリやハナヘビといったものたちが、道路整備や宅地開発などでいなくなってしまったのを、私はこの目で見てきました。

 その一方で、川をきれいにして蛍を呼び戻す運動は盛んに行われ、各地で(町おこしの一端として)蛍の乱舞が見られるようになりました。
 が、自然環境というのはバランスが保たれなければいけません。特定の種だけが繁栄すればいいものではありません。
 身の回りのあたり前にいたものがいなくなる。これが一番怖い事です。動物はその生命を奪い合いもしていますが、大きな観点から見れば生かし合っているのです。
 ひとつの種が消えるという事がどんなに大変な事か、私たちばかりが繁栄すればいいということではないと思います。

佐野洋子著「天使のとき」

2009-06-26 13:42:17 | Weblog
 佐野洋子の作品は、絵本にしろエッセイにしろ、好きでよく読むんです。「おじさんのかさ」はことにお気に入りの一冊です。

 今回手にとって読んだこの一冊。帯に書かれた「一度だけ、春画を描きたかった」という言葉に惹かれてのものだったのですが、息継ぎを忘れるように、半ば溺れかけたような状態で、もがくようにとうとう最後まで、いっきに読んでしまいました。

 とにかくシュールではあるんですが、シュールだからこそ描き出すことの出来る内面世界を、見事に吐き切った作品だったのではないでしょうか。

 私たちは普段、子供に明るいもの、優しいものをイメージしがちになってしまうんですが、またそういったものを子供たちへ与えようともしてしまうんですが、はたしてそれはあまりにも忘却の彼方に、自らを葬り去っている証拠です。

 そんな、天使という言葉に想像してしまいそうな甘いイメージをこの作品は見事に打ち砕いてくれます。
 いい意味子供の心を失わない著者ならではの作品だといえます。子供は大人よりはるかに死の臭いを嗅ぎ、死の世界に近い場所に立っている。だからこそ大人は彼らをよく理解し、庇護し、保護しなければいけないのです。いわば私たち大人はその子供の成れの果てなのですから・・・。

 文学というものが、上手く死というものを掴み取ろうとする方法のひとつとするならば、この「天使のとき」という作品は、それを見事に掴み取った一作だったように思います。

蟻地獄後日譚。

2009-06-24 22:13:10 | Weblog
 前に我が家の庭に蟻地獄の巣が出現したとお話しましたが、その蟻地獄の巣穴は消失しました。
 しかもその蟻地獄の住人たるところの、ウスバカゲロウの幼虫らしきものが、大量の蟻たちによって運び出されるらしき光景を、私は目撃しました。

 いかなる過程を辿ってそういう結果がもたらされたのかは、謎です。私はすでに息絶えた幼虫らしきものが小さな黒い軍団の手によって、幾度もそのすり鉢状の巣穴を滑りながら、上がっていく様を目の当たりにしただけなのです。

 蟻地獄はその巣の主を失うと、すぐさま形を崩し、砂上の楼閣のごとくに消え去ったのでした。

 その前々日かには、巣穴に落ちてもがく一匹の蟻の姿を見たばかりだったので、その逆転の構図はあまりにも意外な光景でした。
 多勢に無勢だったか、それともそれ以外の理由があってウスバカゲロウの幼虫は不慮の死を遂げ、その死臭を嗅ぎつけて蟻たちがたかったのか。
 自然は時折思いがけない姿を見せてくれます。

 そのむかし、蟷螂と女郎蜘蛛の決闘というのを見物した事があります。蟷螂が誤って女郎蜘蛛の巣に引っかかり、女郎蜘蛛の糸に巻かれ始めました。が、いかんせん蟷螂は身体が大きいので、もがくうちに糸が取れて巣から下に落ちたのでした。
 女郎蜘蛛は当然、下に落ちた獲物まで深追いする事はありません。
 しかしながら、若き日の罪深い私はそこの場面に介入し、では女郎蜘蛛が、蜘蛛の巣以外で蟷螂とどこまで闘えるだろうと、女郎蜘蛛を蟷螂の前に落とすと言う、愚挙を決行してしまったのです。

 その結末は敢て申しません。どちらにしろこの闘いはフェアなものではありません。自らのテリトリー内では絶対に有利ですが、それが逆転すれば敗北は目に見えています。
 
 私は古代ローマのコロシアムさながら、娯楽としてその殺し合いを楽しんだだけです。自然の摂理からすれば、蟷螂は蜘蛛の巣に引っかかったのは不運でも仕方のないことで、またそこから逃れられたのは幸運なことだったのですが、その後のシナリオは私の介入によって、女郎蜘蛛の不運を書き加えたのです。

 その私の介入すらをも自然の摂理と言うのならば、女郎蜘蛛は天災によってその生涯を終えたということになりますが、どうもそう解釈するには無理がある。
 やはりこれは私の罪過なのだと思います。ですから、決して故意には介入しないと、常々思っているのですが、どうなんでしょう? 
 私は万一地獄へ落ちても、カンダタのように蜘蛛の糸で助けてもらう事は決してないでしょう。カンダタ以前です。

 少し宗教的な表現になりますが、きっと人間はその存在そのものが罪深いものなのでしょう。だとすると、生きると言う事の目的は、悔いることと償う事。そして許される事と許す事と言う事になります。
 何をどうやっては人それぞれ、法律では裁かれえない罪の意識と言うものを、私たちは身に感じながら、慎ましく暮らしているんじゃないでしょうか。
 
 いいえ、私には別に特定の信仰があるわけではありません。

激しい未明の雨の後・・・。

2009-06-23 11:48:42 | Weblog
 未明に降った激しい雨の後は、梅雨の空にわずかに青空が広がっています。でも、時折雲に覆われて、この晴れ間も長続きすることなく、また雨になるのでしょう。

 畑の野菜たちの水遣りはしなくてもすみますし、成長も良くなっていいのですが、草も同じように伸びていきます。夏草の逞しさは見事なほどです。
 私もこの草の逞しさにあやかりたいものです。踏まれても刈られてもまた芽を出して伸びていく草々。

 私たち民草は雑草だから強いのだ、と若い頃は考えて、額に汗して肉体労働にも励みましたが、今やわずかばかりの畑仕事も力任せには出来ません。

 植物学者であられた昭和天皇は、「雑草という名の草はない」と仰られたとか。
 確かにそうで、どんな小さな草にもちゃんと名前はあるわけです。

 草には草の、そこに伸びて行こうとする生命力と、役割があるように、私たちにも一人一人、その荷負わされた生命力と、その生命力をふるに生かしていかなければならない役割が、きっとあるのだと思うのです。が、さてその役割とは何なのでしょう?

昨日は馬籠で・・・。

2009-06-21 10:10:25 | Weblog
 昨日は馬籠といっても、その街道筋ではなく神坂幼稚園に絵本の読み語り口演で伺ったのですが、園児さんたちとお父さんお母さん、そして先生方に絵本を7冊ほど読ませてもいました。

 さて、馬籠といえばまずは真っ先に思い浮かぶのが、文豪島崎藤村の名前かもしれませんが、私が子供の頃より愛読する、児童文学者宮口しづゑの名前を忘れてはいけません。
 宮口さんの事は前にもブログ内でお話したかもわかりません。が、ここでもう一度お話します(やってなかったかな?)。

 宮口しづゑは1907年長野県小諸市に生まれ、小学校教師となって木曽の地に赴任し、馬籠の荒町の宮口家に嫁ぎ、戦後50歳前後の頃から児童文学の作家として作品を書き始め、代表作に「ゲンと不動明王」などがあります。

 とまぁ、何の資料もなく簡単にプロフィールをご紹介しましたが、実はもっと正確なものを書こうと、宮口しづゑでネットで検索してみたのですが、出てくるのは東宝映画の「ゲンと不動明王」の記事ばかりで、宮口さんの名前は原作者としてはあるのですが、プロフィールはどこにもありませんでした。
 もちろんのこと、ウィキペディアにも「宮口しづゑ」はありません。寂しい限りです。

 宮口さんが書かれた作品群は、もう現代では読むに値しないほど古臭く、忘れ去られてしまってもいいものなんでしょうか? 私はそうは思いません。
 この作家はそれだけの作家ではありません。確かに木曽の山の中の子供たちを主体にした生活童話は、地味かもしれません。しかし、その作品の中に込められている心、優しいまなざし、これは今私たちが忘れかけているものなのではないかと思います。

 生前の安房直子さんもエッセイの中で「どうして宮口しづゑさんの作品はあまり読まれなくなってしまったんだろう、とってもいいのに・・・」と言うような事を書いて見えました。

 地に足の着いた、生活の中から生まれ出る文学と言うものを、私たちは取り戻さなければいけないのではないでしょうか。そんなこともつらつら考えながら、宮口しづゑ文学の復活を願っています。

 ちなみに筑摩書房、小峰書店から全集が出ています。また生誕百年を記念しての作品集が、長野の出版社から刊行されています。

 何の資料もなく書いてしまいましたので、また後日詳しくお話できればと思います。

今日は桜桃忌&生誕祭、しかも・・・。

2009-06-19 14:42:07 | Weblog
 今日は太宰治の命日桜桃忌です。しかも誕生日で、それも今年は生誕100年だそうです。

 私も中学生の頃太宰にはまり、その作品のほとんどを読んで、暗い青春を気取っていました。
 高校時代には国語の授業中、副担任だった女性教師のT先生に「誰か好きな作家はいますか?」と質問されて「太宰治」と答えると、間髪いれず「女々しい」といわれてしまいました。

「こいつちゃんと太宰読んでないんだろうな」と生意気に軽蔑の眼差しを送ったのが、つい昨日のことのように思い出されます。
 それでも、どことなく女々しさや後ろ暗さを感じながら、太宰ファンを続けてきたのですが・・・。

 私の中で太宰治のイメージが決定的に変わったのは、井上ひさし氏の戯曲「人間合格」に出会ってからです。
 太宰は決して人間失格ではない。と正面切っていってもらえたことに、うすうすはそうだと思いながら、自信のなかった自分までもを認めてもらえたような気になったものでした。

 太宰作品の何が好きって、あの女性告白文体に、10代の私ははまりきっておりました。
「女生徒」「駆込み訴え」そして「斜陽」。
 でも、何か一作を上げるとすると私は作品集「晩年」の中にある「魚服記」を上げてしまいます。何故か印象深い。それからの太宰という作家を予言しているような作品です。

 さて、今年は生誕100年ということもあり、また変わらぬ人気ぶりに新しい読者を開拓している太宰ゆえか、その生誕を記念するように何本か、太宰作品が映画化されています。

「パンドラのハコ(漢字のハコが出せない)」「人間失格」「ヴィヨンの妻」「斜陽」と、秋から来年にかけて目白押しのようです。
 別にこれと言った期待はありませんが、「ヴィヨンの妻」―桜桃とタンポポ―という作品は観てみようかなと・・・。たしか松たか子と浅野忠信の主演だったかな? 詳しい事はわかりません。

 

激しい雷雨の中を・・・。

2009-06-16 17:45:32 | Weblog
 激しい雷雨の中を、多治見方面から国道19号線に車を走らせて、帰って来ました。 
 幾筋もの稲妻を眺めながらワイパーの速度を最も高め、対向車線のトラックに水しぶきを浴びせられつつ、いつもよりノロノロと走る車の中では、ラジオから流れるロッド・スチュアートの声がより高揚感を高めて聞こえ、それでもスピードは緩めのまま、家にたどり着くと、ガーデンテーブルに出しっぱなしにしてあったアマリリスは、4つの花弁を付けている方の茎が少し折れて、首を垂れるようにしています。
 しまった! でももう遅いです。こんな激しい雨が降ると言う事が、僕の頭から抜け落ちていました。

携帯電話の調子が・・・。

2009-06-14 08:19:25 | Weblog
 携帯電話の調子が、悪いんです。掛かってくる相手の声は聞こえるんですが、応対する自分の声が、聞こえないようなんです。もう替え時のようです。

 数年前までは、携帯電話なんてと思っていました。アナログ人間で行こうと思っていましたので、うかうかと時流に乗りたくないと・・・。

 しかし、息子の高校入学を機に親も持つ羽目となり、もてば仕事関係には便利で、「いまどきケイタイもないの?」 なんて言われる事もなく、瞬く間に登録数が増えていきました。

 私の周りには、携帯電話を持たない事を果敢に貫き通されている先輩が三人おられ、また同級生の友達にも一人います。
 ポリシー、意地等理由は様々でしょうが、凄いなあと尊敬します。

 このパーソナルコンピューターの普及と現在それでブログを打っている自分にも、十年前ほどの自分の事を振り返ってみると、不思議なようにも感じます。
 時代に置いてけぼりを食らわないように必死で付いていく感が否めないのですが、なんとか時代に取り込められたり、流されたりと翻弄されないようには気を付けたいものです。

 そんな事を言いながら、今日あたり携帯電話のショップへ行って、機種変更しようと考えている私です。

これがルドルフです。

2009-06-12 13:54:59 | Weblog
 写真撮りはわりといいようですが、本物は薄汚れています。鳴き声が高音で、人に甘えて擦り寄るのも上手ですが、エサを催促して早くもらえないと、障子を破いたり、戸をガリガリいわせたりという、業を発揮します。

 テトは人見知りで、来客があると隠れますが、ルドは初対面の人でも平気で擦り寄ります。ただ油断はなりません。抱き上げようなどとすれば、フーッと怒って引っかかれかねません。

 ルドは短気で暴れものの猫ですが、本当は臆病ものの猫で、用心深いんです。
 テトは一見小心ものの猫に見られがちですが、案外図太いところがあって、最近では家の中で、ルドよりテトの方が大きな顔をしていることが、目立ってきています。