ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

あっという間の9月。

2012-09-29 16:08:10 | Weblog
 今日は9月29日。明日で9月も終わりです。
 暑い8月を乗り越え、いつまでも暑いねえと、残暑の9月をぼやいているうちに、朝晩に肌寒さを感じるようになって、気付いてみたらもう明後日からは10月です。

 岐阜県では今日から国民体育大会が開催され、これから岐阜県各地で熱戦が繰り広げられるわけですが、前回岐阜県で国体が開催されたのは東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)のことだったと思います。

 オリンピックが10月10日からの開催でしたから、国体は何時頃から行われたのか?
 各家に提灯が配られていたことだけ、微かに記憶があります。

 今から48年前のことになります。

 あっという間の9月とはいいますが、ちゃんと1日1日を過ごして来ているわけで、あくまで感覚的なことをいっているわけで、そういうことでいうのなら岐阜国体から岐阜国体までの48年も、あっという間の48年だったといってしまうことも出来ます。 

傍目八目(おかめはちもく)。

2012-09-28 14:28:50 | Weblog
 傍目・岡目とは、第三者の立場でものを見る、よそめ、ということです。

 傍目八目は、囲碁から来た言葉で、囲碁を戦わせている当事者よりも局外にあるものの方が冷静にその戦局を観察し、次の一手を的確に判断することが出来るという意味合いのことです。

 何事もその渦の中にあると、周りが見れなくなるもので、常に一歩引いた場所で物事を見ていく姿勢というものが、よりよい解決策を生み出してくれるのではないでしょか?

 いや、何を指していっているわけではありません。大まかに諸々の事々に対していっているのです。

 そうはいうものの、それは難しいことだということは知っています。
 まるで何に対しても他人事のように澄ましているんだなと、誤解されても堪りません。
 しかし、他人事も我が事のようにの裏返しで、我が事も他人事のように思う努力の末に、冷静な判断力というものが身に付くのではないでしょうか?

 なぜこんなことを書いたかというと、まったく関係ないように思われるでしょうが、いや実際に関係ないんです。
 
 私の好物のひとつに「おかめうどん」というものがありまして、これは岡目八目ならぬ八品の具をうどんの上にのせて、福笑いのおかめの顔を書くようにしたうどんの一品なのですが、その具のどれが目鼻か口かということを考えていて、湯葉にほうれん草、かまぼこに椎茸、ネギに・・・・・・。
 この場合おそらくかまぼこが目、湯葉が眉毛。では椎茸は鼻なのか? ほうれん草が口? となると、耳として適当なのはナルトなのかそれとも他に何かあったか、上手くその八品が揃いません。当然その八品は八品目なのか、それとも目・鼻・口・眉毛・耳の数のことなのか? いやぁ~わからなくなって来ました。

「おかめうどん」がお品書きにあるうどん屋さんへいって注文してみてみればいいじゃないかと思われるかもしれませんが、あえてそれをしないで考えていまして、それで、ふっと辞書を引いて傍目八目を引いて、この記事に至ったわけで、何の意味もありません。

 ただ私はいま無性に関西風の薄口醤油のおかめうどんが食べたくなっています。
 私は幼少のころ、おかめうどんの上に乗っている干し椎茸こそが、おかめなのだと信じて疑いませんでした。
 ある日、店屋物の出前でおかめうどんを頼んで、椎茸が入ってなかったことがありました。
 幼い私は「おかめがない、おかめがない」と大騒ぎしたのでした。
 傍で見ていた大人たちが、どのように宥めすかしても、収まらなかったあの時、私は何の理屈も通用しない世界の住人でした。 

9月の風に想うこと。

2012-09-26 17:54:36 | Weblog
 夏の名残に浸るうち
 取り残されてポツリとひとり
 空を見上げていたのです
 いつしか綿の半袖のTシャツが
 やや肌寒く感じられ
 知らず知らずに二の腕を
 さすっているのでありました

 九月も末の 風に吹かれて想うこと
 人恋しさに 思い起こしてみる人々の
 あの横顔やあの仕草 見知らぬ人の後姿さえ
 思い出されてくるのです
 
 夏の名残に浸るうち
 取り残されてポツリとひとり
 海を見つめていたのです
 いつしか浜の白砂に戯れて
 やや涙さえ浮かべつつ
 知らず知らずに貴女のことを
 想っているのでありました

 誰もいない 歓声の消えた海に向かって
 貴女の名前を呼んでみる 呼んでみるのでありました

彼岸過ぎまで・・・・・・。

2012-09-25 14:02:59 | Weblog
 今日が秋の彼岸の果てになるんでしょうか? もう言い古されているんでしょうが「暑さ寒さも・・・・・・」といいたくなる昨今の陽気です。

 9月に入ってようやく一冊の本を読み終え、今2冊目も佳境に入っていますが、今ひとつこのブログの記事を書くのには筆が乗りません。

 キーボードをたたくという行為に筆が乗る、乗らないという表現を使うのもおかしいとは思いますが、他に言い方がないのでそういうのでして、無理に言えば「指の乗りが悪い」とでも言うんでしょうか? なんか変ですよね。
 どうも、どんどん書ける時とそうじゃない時が、交互に訪れるようです。

 まあ、来年の芝居の戯曲の第一稿を上げた直後ということもあって、他の文章を書くのに乗りが悪いということもあるのでしょうが・・・・・・。
 先日その第一稿の検討会を開き、多少の訂正部分をこれから手直しして、第二稿を上げようと思っています。

 さて、先ほどちょろっといった先日読了した本、カズオ・イシグロ著「日の名残り」なのですが、なんとか彼岸過ぎまでには読むことが出来ました。
 今やイギリスの国民的作家といわれるカズオ・イシグロ。なにやら大家・文豪の風格もある作家さんになりましたよねえ。なんて、私が言うのもおこがましいですが、読後感というものにそのような雰囲気が漂ってきます。

「彼岸過迄」というと、夏目漱石を思いだしますが、カズオ・イシグロの文学世界とやや共通する読後感を漱石文学に感じるのは、私だけでしょうか?

草を刈る・映画を観る・眠い1日。

2012-09-22 20:31:40 | Weblog
 ボウボウに育ってしまった畑の草を刈り、汗を流して草を集めて山と積み、ひと息ついてシャワーを浴びて・・・・・・そんな1日だった金曜日。

 この日は朝から眠気が取れなくて、どんよりと眼が眠い。草刈仕事に身体を動かしても眠気は取れず、だからといって横になって眠るということもなくて、何やるでもなくテレビを付けるとBSプレミアムで映画をやっていてそれを観る。

 山田洋次監督作品「家族」。さすがにリアルタイムに映画館では観ていないけれど、これまで何回観たんだろう? 
 観るたびに新たな発見があり、新しく観た気のする作品こそ、名作・傑作である。
 この作品は正しくそれにあたる。
 殊にこの映画における笠智衆氏演ずる源造は、筆舌を越える演技だ。
 ドキュメンタリー・タッチの手法で撮影されているから、自然な演技が出来たということなのだろうが、そんなことでは説明がつかないほど真に迫ってリアルだ。
 積み重ねてきたキャリアと、人間性というものが滲み出ている演技である。

 小津映画に登場する笠さんとは対照的な、それこそドキュメンタリー風という映画の特質が生んだ奇蹟的映像だといえる。

 見ている最中、何度も泣いて眠気の取れない眼はますます眠気を増していく。

 それでも台本の見直しなどしながら、夜の編集に向けての準備ともいえぬ準備をして、夕飯を仕度し、早めに食べて出かけていく。

 帰宅後、ジャイアンツ優勝のスポーツニュースを何度も見て零時半過ぎようやく就寝。

 久しぶりに何もない休日のような昼間を過ごした1日であったが、とても眠い1日だった。

21世紀の演劇活動。その②

2012-09-19 13:11:09 | Weblog
 さて、前回は演劇活動をする側を主体に書いていったかなと思われるかもしれませんが、本来意味合いとしては演劇人口の増加を目指すための現代の演劇活動ということで、芸術鑑賞能力を高めていくという主題にのっとったということでは、演劇を観る観客層の育成というのが、主体の話なのです。

 相変わらずまわりくどい表現ですねえ。しまいには何がいいたいのかわからなくなりますねよぇ(ごめんなさい)。

 まあ、今盛んに行われている演劇ワーク・ショップというのも、別に演劇人・創る側の人間を増やそうというのでは必ずしもなくて、興味を持って芝居を観てくれる人を増やすという目的を内在させているわけで・・・・・・もちろんそればかりに目的が限定されているわけではありませんが、何においても良質な受け手不在では、やる側の人間は存在できませんから、つまりはよい観客を増やそうということなのです。

 よい観客を増やすというのは、何も演じる側・創作者側に都合のいいファンを沢山作るということではありません。
 的確に評価してくれる批評家としての観客を作るということです。
 盲目的に何をやってもいいというファンではなく、しっかりとダメなものはダメといってくれるファンが、殊に演劇には(演劇に限らずですが)必要なのです。

 ダメだから、面白くないからもう観ないというのではなく、ともに切磋琢磨してともに育つ。あくまで作り手と受け手としての鑑賞者は対等であり続けなければなりません。

 いい芝居はいい観客によって創られ、いい観客はいい芝居によって生まれるのです。

 ですから、互いに自己満足で終わらせないための努力を惜しまず注がなくてはなりません。

「偏った思想や考え方にとらわれない、裾野を広げた演劇というものを理想に掲げ・・・・・・」
 といっても、誰にでも当たり障りなく幅広く楽しめるものなんて難しいですよね。ポピュラーな娯楽作品を創るという、ビジネスに重きを置いた話をしているわけではありませんから。
 それでなくても、好みも趣味もみんな違いますから、どうしても創り手の側のものを多少は押し付ける形にはなりますが、それのどこに共感し、どこに共感できないか、提案に対する異議、または同意。
 そこに、芸術鑑賞能力という問題があり、つまりは共通言語というものを、確立していく根幹があるわけです。

 共通言語とは、単に母国語を同じくすることではありません。演劇とは、ある意味舞台と観客の対話であるのです。
 そこには当然緊張の漲る対峙というものが現出します。そういう空気が、実は舞台の創り得るリアルな異空間なのではないでしょうか?

 ごめんなさい。私はあくまで、アートとしての演劇について語っています。20世紀の演劇が得てして片隅に追いやりがちではなかったかと思われる「芸術」というものへの意識を、この21世紀の演劇活動は、より強く意識して持たねばならないのではないでしょうか?
 やっぱりわかりにくい文章ですよね・・・・・・トホホ。

21世紀の演劇活動。

2012-09-17 11:34:03 | Weblog
 およそ大きなテーマを表題に掲げてしまってどうしようかと、書き込んでしまってから足踏みしていますが、書いちゃったんだから先に進めようと思います。

 前にもどこかで、演劇は都市部だけでなく、いわゆる地方と呼ばれる地域にも必要か? ということを書いた記憶があります。
 私にとってこの問いかけは、本は読まないより読んだ方がいいという、答えと同等に響いてくるもので、やはり無いよりは在った方がいいわけです。

 しかし、必要だと思える人がどれだけいるかと問われれば、絶対に少ないし、弱い分野です。メジャーじゃなければそれは尚更にそうなります。

 読書の良さ、面白さはどんなに説明を受けてもわかってもらえるものではなく、一人一人が行き当たリ、発見しなければならないものです。だから、演劇もその域を出る事がなく、面白くなくても何度か我慢して劇場に足を運び、何度目かにようやっとその面白さに行き当たらなければわからないという、至難の道を辿らなければなりません。本姓的に演劇が好きであると思う人もいますが、どうもその人たちは総体的にマイノリティーだといわざるを得ません。

 それでも必要だといわなければならないんじゃないかと、私は現在の世界情勢を見て思うわけです。

 芸術鑑賞能力というものの育成は、学力の向上に匹敵するほどに大切なものなのですが、あたかも学力や教養の副産物くらいに受け止められていわしまいか・・・・・・。
 そんな老婆心を働かせ、杞憂してしまいます。

 ちょっと難しい内容をテーマに選んでしまったので、キーボードへの打ち込みをすらすらと運べません。
 今回はここで時間切れになりました。この続きは次回に・・・・・・。                                                      <つづく>

朗読について 10

2012-09-16 20:26:19 | Weblog
 私の場合音読での読書を試みる時、初見でその文章をどう読むかを一番大切にします。

 普通は黙読したり、まったく色を付けないでの素読でもって下読みしてから、内容や登場する人物を見極めて音読・朗読に掛かるのだろうと思いますが、それは当たり前の行為で、敢えてそれをしないのです。

 瞬時に、その文章の持っている雰囲気や空気を嗅ぎ取り、多少は探りを入れつつも決め読み・あて読みをするのを専らとしています。

 殊に戯曲を読む場合にそれをします。戯曲によっては事前に登場する人物の情報説明がある場合と、まったくない場合とがありますが、それはあんまり関係ありません。
 ものによっては男女の区別を付けるのに難しい登場人物がいることもないことはありませんが、それもだいたいにおいてめぼしを受けていきます。

 これは長年そうやって来たことによる感といいますか、五感が働くということなのでしょうが、なんでも長年やってくると、出来てくるもんです。

 むかし俳優養成所で学んでいるころ、朗読指導の先生からこういわれたことがあります。
「近頃の若い役者は、初見での読みが出来ない」と・・・・・・。

 つまりは読書量が圧倒的に少ないということでした。
 役者を目指そうと思うのだったら、外国文学・日本文学の名作に一応目を通すくらいのことはして置くべきだ。また当然のこと、シェイクスピアなどの古典的な戯曲も網羅しておくべきだと・・・・・・。

 さすがにそのころの私は、そのような読書は出来ていなくて、自分の好きな本を好きなだけ読むことは出来ていても、そうした古典的名作は読んではいませんでした。

 初見というのは、文章に限らずですが初めての出会いです。その出会いにどんな印象を持ち、どういう感動がもたらされるか、これは真剣勝負のようなもので、殺るか殺られるかみたいな臨場感を伴うものです(ちょっと過剰な表現ですが)。
 初見の時には、二度目三度目の読みのときには味わえない緊張感と鮮度があるものです。

 もちろん朗読作品やお芝居として仕上げていく場合、何度も何度も繰り返し読んで、意味を深めていく中で、理解度を高め、初見での印象をいったん壊して再構築していくことも大事な作業です。
 しかし、初心忘るべからずならぬ初見忘るべからずで、初めての出会いを一番大切にしなければいけません。

 一番最初に読んだときの感動、その心の動きをいかに何度読んでも保ちうるか、これが読書力・音読力はさることながら、表現力・演技力というものに繋がる一歩だと考えます。

 芝居においては最初から色を付けて読むことを嫌う演出家がいますので、俳優としてはその場その場の対応力を身に付けることも大事なことかもしれませんが・・・・・・。

今夜は下野の緑香庵で・・・・・・。

2012-09-15 10:48:37 | Weblog
 民家をプレイ・スペースとして活用しようと、すでにスタートしている中津川市福岡下野の緑香庵さんにて、今夜は19時から落語会を催します。

 落語という演目で皆様の前で演らせてもらうのは今夜で4回目。
 上方落語と江戸落語の二本立てで、ご機嫌をお伺い致します。

 入場料1500円にて、どなたでもお越しになれますが、なかなかにわかりにくい場所なだけに、皆様にご案内が申し上げられきれておりませんのですが、もし今日の今日で是非にというお方がおありでしたら、ご連絡ください。

 場所は、R257号線を加子母方面に走られて、ドライブイン福岡城の交差点を右に曲がって直進し、T字路にぶつかって左庚申堂の看板を右に曲がり、直進して二つ目を左折して、その細い道を進んで右に曲がると、正面に民家が見えます。そこが緑香庵です。

<問合せ> 090‐7025‐0038 (いちかわ迄)

来年の公演用戯曲、第一稿を書き上げました。

2012-09-13 14:52:01 | Weblog
 6月の中旬から、少しづつ資料にあたりながら書き始めた戯曲の第一稿が書き上がりました。

 ほぼ、頭の中に浮かんだストーリー展開がつながり、一本のお話になったことに安堵しながら、第一稿を印刷し終わり、このブログの記事を書いています。

 これが決定稿になるまでに、あとどれくらいかかるのか? 演出さんにこの戯曲を委ねOKが出てはじめてキャスト・スタッフに台本が渡り、そしてどのように読んでもらえるか・・・・・・。
 近い将来の読み合わせの日を迎えるまで、期待と不安の入り混じった日々がこれから幾日か続くわけです。

 もう何年もこのようなことを味わうのですが、公演日は来年の5月11日と決まっていますから、早く書けば書くほどその期間は長くなることになり、準備やスタートの起点は順調に運ばれていくものの、それとは裏腹の気分の日日を過ごすことになるのです。

 書き終わったばかりの段階では、凄い傑作が出来たように思えるのですが、それは私だけの思いのことで、これが多くの人の目に触れられ、そして立体的な芝居になった時点ではじめて海のものか、山のものかがわかります。さあ、どうなるのでしょうか?

 ちなみに今回の作品は、舞台が海のものです。