ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

2012年が暮れて行きます。

2012-12-30 23:20:46 | Weblog
 大掃除もいっきにやると疲れるので、28日から今日にかけて少しずつやっていき、細かなところは残っているにはいますが、大きなところで残すところは車の掃除ほどになり、もう後ちょっとで大晦日です。

 今年中に読了しようと頑張った本は、まだ200ページも残っていてどうも無理みたいです。やはり最後に選んだのが500ページのものは無謀だったかと反省ですが、まあそれが来年の一冊目になりそうで、それもそれでしょう。

 今は年齢を満年齢で数えますから、誕生日でもって年を取りますが、むかしは数え年で、お正月にみんな一緒にひとつずつ年を加えたものでした。
 それもなかなかいいんじゃないかと思う今日このごろです。みんな一緒にっていうのがいいじゃないですか。

 今ちょうど午前零時を回りました。もう大晦日(おおつごもり)です。
 家の中のことばかりしていて、30日は外に出ないで終わりました。雨もけっこう降っていましたので、つい出そびれてしまったのですが、今日は買い物に行き、お節も作ろうかと思っています。いや、たいした物は作りませんが、一応二段のお重はいっぱいに詰めようかと・・・・・・。

 

朗読について 12

2012-12-26 23:06:36 | Weblog
 今年に入って、朗読についてと題して思い付くことをつらつらと書き連ねて来ました。

 今日は、その今年の締め括りを書きたいと思います。

 朗読術、朗読法・・・・・・様々に在ると思います。全国にはいろんな先生がおられて様々に生徒さんに教えていらっしゃることでしょう。
 アナウンサーの講師の先生、俳優さん声優さん、また朗読家といわれる方もおられましょう。その分野の微妙な違いによって、朗読そのものにも多少の違いがあるのではないかと思います。例えば感情の有無(平明に淡々とかドラマティックリーディングのようなもの)など。
 見えない音符を探り当てるような朗読という作業は、ですから音楽に例えれば、ジャズからクラシック・・・・・・と、様々な幅を持ってるともいえるのです。

 しかし、ただひとつ言える事は、日本語の朗読というものが統一的にはこれだと言う決め手に欠き、確立されていないということです。

 仮にも朗読の講師を務め、その実践の中で様々に模索し、現在でも最良の方法はこれだと決め兼ね、未だに模索を続けている段階である私にとっては、どのような朗読がベストかと、簡単に言い切ることはとても出来ません。オープン・エンドしていくしかないのです。
 生徒さんにどう教えていくかというのはとても重要なことですので、いつも反省を繰り返しながら取り組んでいるのですが(生徒さんがどのような講師のどのような指導を求めているかということもありますけれど)、私はやはりその作品の「心を読む」ということだけはその基本線において、安易なテクニックや型にはめない指導を心がけようとは思っています。

 間合いやリズムというものは、教えていくにも限界があります。いかに客観的に自分の読みを聞き、自分自身でその耳を養っていくかをしない限り、前に進まないことがたくさんあります。
 わかっていても出来ない、真似しようと思っても上手く真似られないというのが、実情です。
 こうしたいけれど出来ない、あんな読み方がしたいけれど上手く読めないと思うことがまず第一歩となって、試行錯誤を繰り返しながら理想の読みに近づいていく、これしかないでしょう。つまりは、安易なマニュアルなど存在しないのです。仮にあるとしても、それは体よく取り繕われたもののうちから脱せ得ないものでしょう。

 自分自身の朗読を見つける。そのためのお手伝いやらアドバイスをさせてもらいながら、共に学んでいく、そんな朗読指導を心がけて行きたいと思っています。
 

覚書 その1

2012-12-25 16:03:32 | Weblog
 これはまあ、いってみればかなり個人的なプライベートなことですが、読書を重ねる中、だんだん書いてあったことを忘れ去っていく度合いが多くなってきましたので、十数年前から、気になる文章や知らなかった言葉などを覚書としてノートに書きとめているのですが、そのとき直接ノートに書き写すことがなかなか出来なくて、メモに書きとどめておいて後でノートに書き写そうと机などに置いておいたりするのですが、それをそのまま紛失してしまうということが最近増えていましたので、今日は意を決して(そんな大げさなことじゃないですけど)ずいぶん久しぶりにノートに清書しました。

 ペラペラとそのノートのページをめくりながら、ああこんなことも書き留めておいたなと眼をとめたのが、ヘルマン・ヘッセの言葉でした。

「・・・・・・戦争ならアリでもする。国家ならミツバチでも持っている。財産ならネズミでも集める。
 君の魂が求めるのは、別の道だ。そして君の魂が損なわれるとき、君が魂を犠牲にして成功を得る時、君にはいかなる幸福も花咲かない。
 というのは「幸福」を感じることが出来るのは、胃袋でもなく、頭脳でもなく、財布でもなく、魂だけであるからだ」
                  ― ヘルマン・ヘッセ著「魂について」 ―

 若い頃に「車輪の下」など読まれた方もおありかとおもいますが、私は一時期このドイツのノーベル賞作家の晩年のエッセイをよく読んでいました。
「人は成熟するほど、若くなる」など、私はどうも20代後半から30代前半の頃にもう、年取った自分をかなり想像していたようです。

今日はクリスマス・イヴですね。

2012-12-24 09:18:36 | Weblog
 天気予報では晴れなんですが、少し雪のようなものがチラチラしている朝方です。
 やはりこの辺りは長野県の県境で、高い山も間近にありますから、この辺り独自の細かな天気予報が必要なときがあります。つまり、岐阜県美濃地方という大まかな予報の範囲には、あてはまらない時が・・・・・・。
 ですからひょっとすると、ホワイト・クリスマスになる可能性もありますね。

 クリスマス。ホワイト・クリスマスというものに心ときめくような年齢ではもうありませんし、それにここ何年もクリスマス・ケーキというものさえ食べていません。

 でも、日本におけるクリスマスという行事に、子供のころから慣れ親しんできたものですから、何かしら素通りすることは出来なくて、クリスチャンではないですが、少しだけ厳かに心静かなイヴを迎えたくなるのが不思議です。

 今夜はほんの少し、聖書を紐解いてみようかな? 我が家の書棚には中央公論社刊、世界の名著第13巻「聖書」という一冊があります。
 世界で最も読まれている書物は「聖書」のようですが、まだまともに読み通したことがありません。

とかく腹八分目とはいかぬ、年末。

2012-12-23 19:49:00 | Weblog
 若い頃や会社勤めなどしていた時に比べれば、さほどに忘年会が続くようなことはありませんが、それでもやはり外食の機会が増えて、また我が家における夕食にもついつい鍋料理の回数が増えて、知らず知らずといいますか、わりと勢いに乗って食べ過ぎてしまうということが、ここのところ目立っています。

 まだダイエットとまではいかないまでも、徐々に体重を減らして来年に向かおうと思っているのだから、控えなければと思うのですが、これがなかなかに難しい。
 昔ほどに食欲が旺盛なわけではないのだから、ちょっと抑制するくらい出来るだろうと思うのですが、それが出来ない。おそらく卑しさが増しているに違いない。

 年を経るごとに意志の強さは、なくなっていくものなのでしょうか?
 この状態で年末から年始へ突入すれば、体重増は間違いなしです。その分消費のほうを増やせば問題はありませんが、それもなかなか増やせない。

 笠知衆演じる「男はつらいよ」の御前様のセリフではないですが「困った、実に困った」。

 来年演じる役柄の体系イメージに、いまだ程遠い年の瀬です。

単純明快な社会は、いい社会か!?

2012-12-22 16:36:04 | Weblog
 今回の総選挙の結果が民意ならば、それは国民として受け入れなければならないことだと思います。そういったルールのもと、私たちは民主主義国家に属しているわけですから・・・・・・。

 しかし、一言いいたいことがあります。それはマス・メディアによって繰り返された「わかりにくい」というフレーズです。
 
 政党が乱立してわかりにくい。え? 何がどうわかりにくいのか、私にはそれがわからない。
 仮にわかりにくいとして、メディアはそのわかりにくさを丁寧に視聴者に伝えていくのが本来の仕事であってしかるべきなのではないのか?

 持ち上げたり扱き下ろしたりされる様々な人物評、しかし真意を汲み取っていくにはあまりにもお座なりな情報。私たちはそういった風聞風説の類の情報に右往左往し、ひとつの定まった方向性に流されていく。つまりは単純明快にわかりやすい方向へと・・・・・・。

 政党の代表とかいわれる人に直接出会ったり、演説を生で聴く機会すらないものにとっては、映像や新聞記事(もしくは週刊誌)がせいぜいの判断材料となるわけですから、そこから何をかを見出そうとするわけですが、それは至難の業でしょう。記事を書いたり情報を流している人たちの公平性までを図る物差しが定まらないからです。

 しかし、そのような情報の中からよりよい選択肢を見出していかなければならないのが現状です。
 惑わされることなく、鵜呑みにすることなく判断していかなければならないわけです。

 そこで私たち有権者と呼ばれる立場の人間は、わかりやすさを正しいものと理解せず、あえてわかりにくさ、単純明快でないものをも受け入れていく必要があると考えます。

 何がわからないのかを追求し、どうしたいか、どうあるべきかを政治にも、そして自分自身にも問うていくべきではないでしょうか。

年末、読書総括に向けて・・・・・・。

2012-12-20 23:12:05 | Weblog
 12月に入って、今年の読書も大詰めを迎えました。
 9月10月に冊数が伸びなかったのが、やはり大きくひびいて、目標の年間50冊にはまったく届きそうにありません。
 今月もようやく3冊。残りの日にちでどのくらい伸ばせるかにかかっているのですが、案外にボリュームのある本にとっかかってしまったので、今年中には読み終わらないかもしれません。

 そう、この年末に入って2冊目のカズオ・イシグロ作品を手にしてしまったのです。
 今月に入って最初に読了したのが「浮世の画家」。その間に中島京子「FUTON」をはさみ、もう一冊ずっと読みかけになっていた新書も片付けて、カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」を読み始めてしまったのです。
 500ページを越える作品ですが、とにかく面白いので時間さえ作られればずっと読んでいたいのですが、そうもいかない。

 私に速読という技量があればいいのですが、あえてそれは禁じ手なのです。読書は遅読に限るのです。
「読書百遍、意自ずから通ず」ではないですが、しっかり読んでいるつもりでも読み零しがありますから、そこは丁寧に読み進んでいかないと・・・・・・。

 ちなみに絵本の冊数を入れると大変なので、ここの所読了数には入れていません。
 また仕事関係で読み直すものや、朗読のテキストとして扱ったものも数に入れていませんので、それでまあ50冊には手が届かないのですが、とにかく今年すべてを読み終わった時点で、ちゃんとした総括をあらためてしたいと思います。

 なんて、こんなことかなりプライベートな事柄で、どうでもいいことですよね。
 しかし、こそこそ「読書ノオト」に書き込んでいる事柄とは違ったものが、ここでは書けそうで、これも面白いのです。

久しぶりに歩いてみました。

2012-12-18 13:22:31 | Weblog
 やや寒さが緩み、少し時間もとれたので今朝は歩いてみました。
 空は快晴とはいえず、ほんの少しだけ山際に青空がのぞく、どんよりともやめいたような日でしたが、それでも歩くには快適な朝でした。

 私の歩くウォーキング・コースはけっこう橋を渡ります。最初に妙見橋を渡り、次に薬師橋・新桃山橋、そしてむかしは軽便鉄道が走り、今は遊歩道となっている道の上に架かる大正橋。
 この橋の架かる道は旧の街道筋、中山道中津川の宿場町に入るところにあたります。
 その横町を真っ直ぐに進んで、造り酒屋の横を鍵の手に左に曲がると、街道は本町筋へと至るのですが、そこを左には曲がらないで真っ直ぐ横清水町に足を運ぶと、時折立ち寄る食料品店があって、今朝もその店に立ち寄りました。
 そこで何か昼餉の足しになるものはと物色し、生鰯の四匹入ったパックを買い、後は格安のアンチョビ等も篭に入れました。

 さて、この生鰯をどう料理するか、この飛び切り安いアンチョビを何に使うかを考えながら、四つ目川橋を渡って新町から駅前通りへと下り、駅より裏手に通ずる地下道に潜って、大型トラックの通行のために施設された新道の歩道を歩いて、我が家へと戻ってきました。

 約一時間のコースです。
 生鰯は開いて骨を抜き、衣をつけてフライパンで焼き、うなぎのたれをまぶして蒲焼風にしようと決め、そのようにして食しました。
 アンチョビはまた夕餉にでもパスタに付け合せてみようかと思っています。
 
 しかし今夜はお出かけなので、またの機会にでも・・・・・・。

 さて、何で橋を取り上げたかというと、帰ってきたら母親が居間でひとりテレビを観ていて、その番組が「美の壺」。「橋」を特集していました。そこで今歩いてきた橋を思い起こし、橋を題材にした小説といって一番に思いつくのはということを頭の中にめぐらせて見ました。
 やはり一番最初に浮かんできたのは、三島由紀夫の短編「橋づくし」。
 それから堀田善衛には「橋上幻像」という作品があったな、と思い出しました。空から見下ろすとY字型をした橋で、その三つの橋が誘う3つの物語、だったでしょうか?

 まだまだ橋にまつわるお話あったと思いますが、そんなところで、すぐには思いつきません。

歩きたいけど、歩けない日々。

2012-12-14 12:45:48 | Weblog
 一日のうちで歩くという時間がなかなか作れないでいます。
 以前は毎日歩いていたのが、いつの間にかその時間が何かに取って代わられ、いつしか消えていきました。

 時折歩く時間が取れたとしても、単発で終わって長続きしません。

 歩かないと、とりとめもなく何かを考えるという時間がどうしても減っていきます。
 来年に向けてたくさんのセリフを覚えるにしても、やはり歩きながらが一番効率がいいのです。とりとめもなく考えるという行為は、車の運転中にも出来なくはないですが、セリフ覚えは無理です。まあ、覚えてしまってからおさらいすることは出来ますけれど・・・・・・。

 といって、果たしてこの寒さ中に早起きをして歩くことが出来るか? 夜も無論NGです(ただ歩くだけなら出来にことないけど)。
 
 歩くという行為は、何事においても大切なものなのです。しっかり姿勢よく歩くだけでダイエット効果はあり、お腹は引っ込められ、下半身の強化にもなる。そのうえ脳や脊髄にも刺激を与え、物事を考えたり、また頭の中を空っぽにしてリフレッシュすることも出来ます。

 何をいっているのか、普通にだって歩いているじゃないかと思われるでしょうけれど、歩くことをメインに、歩くことそのものに集中しないとその効能はなかなか生まれてきません。

 ああ、歩きたい。時間にとらわれず、何からも自由になってどこまでも歩いていきたい。そう、西脇順三郎の「旅人かえらず」なんていう詩は、歩かないと生まれてこない詩なんじゃないかな? そうあの詩を読みながら歩いてみたいです(これは12日のブログつづき)。

 

冬景色に、ピンッと張り詰めるものを・・・・・・。

2012-12-13 10:07:31 | Weblog
 寒さに身を縮こまらせて、下ばかりを向いてもいられません。霜の降りた庭に立ち、凍った土を踏みしめて、すっくと背筋を正して空を見上げる。白い息を散らす研ぎ澄まされた空気の果てに、青い空がある。

 そして目線を下げてぐるりを見渡すと、山はどこも冠雪に見舞われ、白く山肌を装っています。
 ああ、その雪山の気高いこと。

 この冬景色に、ピンッと張り詰めたものを感じながら、またその張り詰めたものの何であるかを考えながら、かじかんだ手を撫で擦り、部屋に戻ってこの記事を書いています。

 ゆるぎなくそこに在りつづける強さ、逃げも隠れもしない誠実さを、雪山の気高さと映して、もう一度背筋を伸ばして姿勢を正ているところです。