ひとり語り 劇車銀河鐵道 いちかわあつき

 ひとり語りの口演や、絵本の読み語りなどの活動をしています。
 何処へでも出前口演致します。

芝居と仕事と家庭 PART 2

2008-06-27 15:44:21 | Weblog
 あらら、また間があいてしまいました。ダメですねえ。毎日こつこつと同じことを繰り返していくことって、簡単そうで意外と難しいものです。
 10年ほどつづけていた日記も、ここ2,3年は毎日でなくなり、今年のはじめくらいからはもうぜんぜん書かなくなってしまいました。ブログならやれるだろうとはじめましたが、そう、なかなか毎日更新できません。なんて、ここのところこんなことばかり言ってますねえ。

 若い頃は「ああ退屈だなぁ、何か変わったことないかな? 」なんて、しょっちゅう言って、日々の繰り返しを嫌って、目先の変化を求めたものですが、実は日々の繰り返しって言うのはとても大事なことなんですよね。
 大方の人が、朝起きて歯を磨いて顔を洗って、朝ごはんを食べて(中には食べない人もいるかもしれませんが)、お勤めに出かける人は、だいたい決まった時間に家を出る。「ああ、今日もそれほど変わり映えのない仕事をこなして(いや、バリバリと仕事に燃えている方もおありでしょうがね)・・・」そうしてだいたい決まった時間に帰宅して・・・その繰り返し、繰り返し・・・。
 でも、本当は同じじゃないんですよね。時間は先に進んでるわけだし、って言うことは、少しずつ年を取っているわけだし、昨日の自分と、今日の自分、そして明日の自分は、確実にどこか変化をしているわけなんですよ。つまりズレというものが生じている。
 そんな中において、毎日毎日同じことを繰り返しするということは、ある意味凄い事なんじゃありませんか? そう、だから平凡に生きるということは、殊に僕のような人間にとっては、案外難しいことなんです。だから、普通に生活することは、とても立派な生き方だと思えます。少なくとも今の僕はそう思うのです。
 しかし、若い時の僕はそうじゃなかった。芝居と仕事と家庭、いったい何をやっている時の僕が本当の僕なんだと、真剣に悩んでいました。「こんなことやってていいのか」と、本気で考えていました。どの時の僕も本当の僕に変わりなかったんですけど、そうは思えなかった。僕は僕自身の在り様、考えようが元で、何時しか病気になっていました。
 仕事をやっている時は、仮の姿の僕。芝居をやっている時は、なんだか生きているような実感をもてたけれど、中身の無い人間がやるような芝居は、やっぱり底が知れていて、向上心も向学心もないままに、それこそ次、次と繰り返し舞台をこなしているだけだったのではないか・・・。こんなこというと一緒にやってた劇団の仲間や、観て頂いたお客さんに失礼なんですけど、いえ、当然その時の僕はそれなりに全力で取り組んではいたんですけど、今から思うとそうだったんじゃないかと思うのです。
 20代の終わり頃のことです。やや肉体労働系の仕事に従事していた僕は、まず腰をやられます。腰痛で思うように動けなくなると、やること成すことうまく行かなくなって、だんだん自暴自棄な状態に陥っていきました。
 その頃はもう、父親にもなっていましたが、父親としても、また夫としても、僕は失格者でした。自分を見失っていました。
 

芝居と仕事と家庭 PART 1

2008-06-23 22:54:01 | Weblog
 今日からまた題名を変更して、続きを書いていきます。
 結婚して1年ほど経った頃だったでしょうか、僕の勤めていた会社はとうとうダメになり、失業。仕事を探しながらの演劇活動となりました。普通は仕事を第一に考えて芝居は二の次なんでしょうが、また禁断の果実を齧ってしまった僕は、劇団活動可能を条件にした就職活動をしていきます。
 生活を安定させるための仕事。演劇活動を維持していくための仕事。僕にとって何が一番大事なのか、もちろん家庭なんですが、劇団「夜明け」に所属していた7年間は、この芝居と仕事と家庭という3つのバランスがうまく保てない7年間だったと思います。

普通の日々 PART 4

2008-06-22 12:03:57 | Weblog
 僕としては4年ぶりとなる舞台、「11匹のネコ」は、たしか予定より1ステージ多い3ステージを公演しました。そしてその公演すべて満席、興行的には大成功の舞台となりました。
 何でこんなにも観客を動員できたのかは、今もって謎なんですが、原作(馬場のぼる作の絵本)の「11っぴきのねこ」の人気にのっかったのか? 何か多少誤解された情報が流布されたのか、そこのところはよくわかりません。文化会館の912席の固定席に加えて補助席も出し、それでも受付で断らなければならない異常事態に追加公演を決定したという次第でした。
 その芝居の出来はどうだったか。これはあくまで観て頂いたお客さんに委ねなければならないことなので、なんとも言えませんが、みんな若かったので勢いと元気だけはある舞台でした。
 僕は元々体育会系の人間で、小学校の頃は野球、中学時代はバレーボールに汗を流していましたので、チームワークや連帯というものが生み出す力というものが大事なものということはわかっていました(殊にアマチュアの世界では)。
「夜明け」という劇団はそんな仲間意識の強い、監督(主宰)を中心にした野球チームのような劇団でした。演劇集団としては異色の劇団だったと思います。
 当時の僕にはそれが魅力で、また救いともなっていきます。このお芝居より約3ヵ月後、僕は結婚式を挙げるのですが、劇団の人たちの手によって、手作りの結婚式を演出してもらいました。
 その後、1回だけの出演のつもりが、新婚生活スタート早々2作目「太平洋ベルトライン」にも出演し、正式の劇団員となって7年間所属することになります。

普通の日々 PART 3

2008-06-19 10:50:39 | Weblog
 5日ぶりの更新です。毎度のことですが、なかなか毎日書き込むというのは難しいものですねえ。

 さて、故郷に戻っての普通の日々も、わずか2年で終わろうとしていました。もちろん定職を持っての、アマチュアでの演劇活動ですから、普通には変わりないのですが、仕事を終えて芝居のために稽古場に通うという生活は、やはり僕の考えていた普通の生活からは逸脱した暮らしです。それでも僕は、二つ返事で出演依頼を承諾しました。
 前回1985年の春と書きましたが、この話を頂いたのはその前の年の暮れだったかもしれません。そして動き始めたのは、年明け早々だったような・・・。何しろ20年以上前のことですので、記憶も正確ではありません。とにかく結婚と芝居が同時進行していったと思います。
 実は、井上ひさし作の「11匹のネコ」は、高校時代の予選会の舞台で、演劇部の出し物としてにゃん太郎を演じたことがありました。あの時は、50分ほどの短縮版だったので、どうしても全篇を演じてみたいという願望がどこかに残っていて、この話をもらった時から、僕の心の中では俺しかいない、なんておこがましくも考えていました。
 1度舞台の魅力に取り付かれると、ちょっとやそっとでは芝居から離れられないようです。
「もう2度とセリフを覚えるなんて面倒なことやるものか」
 と思っていたのは最初の1年くらいで、東京にいた頃よりも盛んに戯曲を読む日々を送っていたのですから・・・。もちろんいっぱい遊びもしましたけど、いやぁ~若い時って本当に何もかも精力的に行動できるものです。今そんな体力があれば、もっと無駄なくそつなく動けるんだろうなって、誰しも思うことなんでしょうね。


普通の日々 PART 2

2008-06-14 14:55:28 | Weblog
 僕の勤める会社は人員整理が始まり、何人かの仲間が退職していくという状態になっていました。僕はかろうじて留まり、一縷の望みを繋ごうとする会社で、これまでとは少し異なった仕事内容に従事していました。
 そんな状態ではありましたが、僕は付き合っている彼女と結婚することを決め、デートに忙しい日々を送っていました。
 芝居の道は捨てたといいながら、デートでの話題はしばしば演劇の話になり、少し演劇に興味を持っていた彼女に別役実の戯曲を読んで聴かせるなんてこともしていました。
 結婚を承諾してもらう条件に、もう東京に行くなんてことはないか? と、念を押されたほどでしたから、よっぽど芝居のことばかり話していたのだと思います。

 そんな折も折、地元の劇団「夜明け」から、劇団創立35周年を記念して、親子向けミュージカル、井上ひさし作の「11匹のネコ」をやることになったので、そこで主役のにゃん太郎を演ってみないかと誘われました。
 劇団「夜明け」は、僕が東京での青年劇場との経緯もあり、接触は避けていたのですが、そんな風に声をかけてもらって、心が揺らぎました。
 もし会社が順調で、仕事も忙しく最初の1年目のような時だったら、即座に断っていたと思います。僕はもう演劇を捨てた人間ですとか何とか、カッコつけたセリフを吐いて・・・。しかし、仕事の状態はそんな風だし、芝居から離れて約2年、そろそろ芝居の虫が、身体のどこかでむずむずしだしていたのです。
 もちろん、僕の一存では決められません。1番に彼女に相談しました。実は彼女も前に少し、劇団「夜明け」に短期間でしたが携わっていたことがあって、その時はもう辞めていたので、少し複雑な思いはあったのでしょうが、「貴方が演ってみたければ、演ってみたら・・・」と、僕の気持ちを察して、承諾してくれました。
 それで、この公演1回きりのつもりで、出演させてもらうことに決めたのです。
 本来が脳天気な僕、仕事がそんな状態なのに、結婚も決め、おまけに芝居出演まで決めてしまいました。1985年の春の頃のことだったと思います。

普通の日々 PART 1

2008-06-13 10:16:05 | Weblog
 故郷に帰った僕は、22歳と10ヶ月で初めて地元の会社に就職をします。それはできたばかりの新しい会社で、一緒に働く人たちも若い人が多いところでした。
 心機一転演劇の道を捨て、新たに再スタートを切った僕にとってはとてもふさわしいところに思えました。
 今までやらなかった遊ぶということ。新たな恋。会社の良き兄貴分Yさんと伴に、良く遠出に出かけたり、飲み歩いたりしました。
 次の年には自動車免許も取得し、行動範囲も広くなりました。幼馴染の友達たちとも、頻繁に顔をつき合わして遊んでいました。
 いろいろな恋の日々を経て、本気で向き合う女性(現在の妻)とも交際をはじめ、真剣に結婚を考え始めた時、僕の環境に少しずつ変化が生じていました。
 スタートを切って2年ばかりで、僕の勤めていたその会社が、業績不振でピンチに陥っていたのです。 

「僕の東京俳優修行」PART 11

2008-06-09 10:01:33 | Weblog
 僕の東京俳優修行は、1年という短さで、あっさり終了してしまいます。それは修行などといえる代物ではなかったでしょう。むしろ少しばかり演劇の世界を垣間見ただけの物見遊山に過ぎなかったと思います。よくいって、イロハのイくらいを味わっただけのことです。
 電話で劇団に今回の事の始末を詫びた僕は、劇団幹部のS・Tさんにこっぴどく怒られました。もう君の名前入りの印刷物も刷られていたのに、どうするんだ。と・・・。とにかくもう1度上京するようにといわれましたが、僕は頑なに拒みました。
 自分の我儘によって、多くの人に迷惑をかけました。アルバイト先の人たちにも、1年間とても良くしてもらいながら、最後には不義理な形で辞めるハメとなってしまいました。
 そして何より、僕は彼女の気持ちを裏切ったのです。夢に向って突き進む僕に、自らの夢も託し、声援を送ってくれていた、彼女の気持ちを裏切ったのです。

「僕の東京俳優修行」PART 10

2008-06-08 13:03:22 | Weblog
 4日ぶりの更新になります。こんなブログでも続きを楽しみに読んでくれている方がおありでしたら、お待たせしてすみませんでした。この週末は10年来続く大事な学校口演と、その後は外仕事に時間を費やしていました。

 さて、お話のつづきです。それは7ヶ月ぶりの帰省でした。それも、感傷に満ちた心持での帰郷でした。
 今から思うと、そんなにちょくちょく帰って来てはいけなかったんでしょうね。せめて2,3年くらいは行ったきりで、石に齧りつくような気持ちで、勉強しなければいけなかったのです。が、僕はこの短い1年の間に、3回も故郷に帰っています。最大の要因は親離れできていなかったんでしょう。ほんとうにあの頃の僕はまったく子供で、思い立つと我慢ができなくて、辛抱ののかけらもありませんでした。
 卒業公演で坊主頭になった僕は、まだ髪の毛の伸びきらない頭で、また衣装に使った黄緑色に染めたおかしなシャツで、故郷へ帰りました。それはよんどころないところから社会に復帰した人のようにも見えたことでしょう。
 とにかく僕は、結婚を前日に控える慌しい彼女に連絡を取って、逢う約束を取り付けました。
 出逢ったらああも言おう、こうも言おうと頭をめぐっていたことは、いざ逢ってみると、何も言えませんでした。ただただ涙が溢れてきて、言えた言葉は「おめでとう、幸せになってください」だけだったと思います。
 実のところそれ以上はよく憶えていません。彼女がなんと言ったのか、僕がどう答えたのか・・・。
 彼女の結婚式当日は雨でした。僕の頭の中にはむかし観た「卒業」という映画の、ダスティン・ホフマンの姿ばかりがめぐっていました。
 しかし、それは映画のことで、いくら演劇に憑かれた青年でも、現実はどんなものかわかっていました。
 何者でもない自分。経済的にも生活力のない自分。そんな人間が人一人幸せになんか出来っこない。
 傘をさして、ひとりふらふらと町に出た僕は、結婚式場の前に立ち、両家の名前を記した白い文字の看板を、しばらくじっと見つめていました。そのあとは傘もささないで、雨に濡れながら町を歩きつづけました。
 今の自分だったならば、この事をバネにもっと東京で頑張ってみようと思うんですが、それが劇作家としてのストーリー展開のセオリーなのでしょうが、この時の僕はそうは思わなかったのです。
 しっかりと就職して経済的にも自立した自分だったならば、彼女に結婚だって申し込めたろうに、幸せにしますと言えたろうに、そんな後悔の念が僕を支配していました。そんなこと、故郷を出る一年前にほんとうは、解っていなければいけないことだったのに・・・。
 芝居を捨てよう。普通の平凡な生き方をしよう。僕はこの2日間の帰省で、衝動的にそう決心してしまいます。
 取り急ぎ、東京へ戻り下宿先を引き払い、荷物をまとめてまた故郷へ舞い戻りました。これはまったく卑怯なことですが、説得されて翻意を翻すことを恐れて、またその後ろ暗さから逃げるように、劇団にはひとことも告げないまま帰ってしまったのです。
 社会人としてはまるで失格です。その尻拭いを親にしてもらったのですから、情けない話です。自分のしたことながら腹が立ってきます。もう26年も前のことですが・・・。
 

「僕の東京俳優修行」PART 9

2008-06-04 11:37:19 | Weblog
 昨日は長々と書き込みました。往々にブログというものは、短く端的に、余白を多く取ったほうがよく読まれるのでしょうね。ダメです。まったく真逆です。しかしこの自分のスタイルで続けていきます。まぁ、あしからずお付き合いの程を・・・。
 さて、気持ちの定まらぬまま、劇団に研究生として残ることを承知してしまった僕は、地に足の着かない日々を、3月の東京の空の下に過ごしていました。
 僕にとっての芝居って何だろう? 演劇は本当に一生を賭けてやる仕事なのだろうか。卒業公演を終えたこともあってか、気持ちの昂ぶりが消えて、少し沈みがちな気分が、僕の中に漂っていました。
 そんな折、故郷から1通の手紙が届きました。東京へ来る前に、心を寄せていた女性からのものでした。
 実は卒業公演の前にも1度手紙が来ていて、「観に行きたいのですが、行けなくて残念です。終わったら帰ってきますか? 1度逢って話がしたいです」という手紙をもらっていました。
 そして、その時手にした手紙には、結婚しますと記されていました。彼女は去年の秋口かに見合いをしていたのです。その前後にも「もう秋ですね、淋しくなりました・・・」と、手紙をもらっていることを思い出しました。
 彼女は東京での僕の1年を手紙で励まし支えてくれた人でした。彼女の存在が、誘惑の多い東京で、よそ見することなく演劇の勉強に励むことのできた大きな力でした。僕に夢や希望を託してくれていました。そしてなによりも、僕が自分ひとりの力で、歩んで行けるようになることを願ってくれていた人だったと思います。
 そんな彼女を裏切るようなことを、僕はこの後、してしまう事になるのです。
 気が付くと、彼女の結婚式が執り行われるその前に、彼女に逢おうと、僕は新宿駅からアルプス2号に乗って、中央線周りで故郷に帰ろうとしていました。 

「僕の東京俳優修行」PART8

2008-06-03 15:15:24 | Weblog
 PART7は急に時間がなくなり、「お話していこう・・・」という所で終わってしまいました。すみません。
 ではあらためて、お話しましょう。
 青年劇場へ入った経緯は、前にもお話した通り、この劇団が地元で公演した時、そのオルグとしてもまた俳優としても何度か見えられていた、E・Nさんに芝居の勉強がしたいと相談し、「東京へ出てきた折はうちへおいで」といわれた事でした。そして上京後入学金の分割がOKだったということも、この劇団を選んだ理由でした。
 これも前にお話しましたが、入所後、青年劇場が、僕のふるさとの劇団「劇団夜明け」と親交厚く、僕をその地元からの演劇留学生と勘違いしたらしいということ。もちろん、僕の推測の域の話ではありますが、そう考えるのが妥当のように思えることがしばしば合ったことは確かでした。
 昭和58年2月、僕ら養成所生は、当時の後楽園球場(現・東京ドーム)の近くにあった水道橋ホールという劇場で、卒業公演を行います。
 演目はふじたあさや・作「グスコーブドリの伝記」。もちろん宮澤賢治原作の「グスコー・・・」をベースにした賢治自身も登場するお芝居で、この年宮澤賢治没後50年ということで、選んだ作品でした。
 この芝居では3役ほどを演りましたが、その中の1役が宮澤賢治でした。僕はすかさず、演出の意見も聞かずに、頭を坊主にしてしまいました。そこまでする必要はないと叱られましたが、もう元には戻せません。坊主頭で芝居に臨みました。
 その2ステージの卒業公演も無事に終わり、さていよいよ次の進路を考える時が来たのです。
 劇団の研究生として残りたいといっても、劇団からいらないといわれればそれまで、これからの身の振り方を考えなければなりません。また、ここの養成所は養成期間が1年なので、もっと勉強したいと思う人は、他へいかなければなりません。
 僕も僕なりに悩みました。が、実は僕は他所の劇団を受けて合格していました。
前の年の夏の終わり、新宿花園神社に張られた赤テント、唐十郎率いる状況劇場の「新・二都物語」。ハイテンションでスリリングな展開、観客と舞台の異様な一体感に、興奮状態となった僕は、そのなんともいえない初めての感覚に打ち震え、「これこそ芝居だ」と、心の中で叫んでいました。
 その観劇体験をキッカケに、誰にも相談せず、状況劇場の試験を受けました。試験は1次2次とあり、200名近い受験者から、若干名を選ぶというものでした。
 試験内容もこれまでとは違うものでした。僕など到底残らないだろうと思っていました。が、1次通過の通知が来て、2次は確か実技と面接だったと思います。
 その実技試験は、大胆な格好をした女優さんに寄り添われて、セリフを言うといった試験だったと思います。そして主宰唐十郎氏とのマンツーマンの面接でした。
 履歴に俳優兼劇作家志望と書いていた僕に、唐さんは「戯曲を書きたいのか、それなら何故大学にはいかなかったか」と質問されたと思います。「勉強は嫌いだから行きませんでした」と答えた僕に唐さんは「勉強しなきゃ、本なんて書けないだろう・・・」といわれました。それ以外にどんなやり取りがあったかは忘れましたが、ああ、もうこれで終わりだなとおもいました。
 ところが、それから数日後僕の安アパートのポストに、合格通知のハガキが舞い込んだのです。
 どうしよう、合格してしまった。もちろん、行きたいと思ったから試験を受けたのに、いざ合格してしまったら少し迷いが生じてきました。状況劇場はバイトはできないという噂も聞いていました。押し迫る4月からのスタートは待ったなしにやって来ます。
 それでも意を決して、ぼくは青年劇場の僕らの担当である鳥飼先生に相談しました。「僕はこの春から状況劇場へ行きたいと思っています」と。「え? 何で君が? またよりによってアングラへなんかいくの?」というように言われました。「君はもう研究生として残ることが決まっている。劇団の方針で、ある芝居の役に着くことも考えられている」そういわれました。
 それからは劇団の幹部の人たちに次々事務所に呼ばれて説得されました。心の中で、何故自分の知らないうちに、進路が決められているのかということに反発しながらも、将来のため君のためと言われるうちに、僕はとうとう残ることを承知してしまいました。
 この優柔不断さ、意思の弱さ、心の幼さが、その後多くの方々に迷惑をかけることに発展していくことになるのでした。長くなってしまいました、今日はここまでとします。