一度目の脳梗塞は、2008年1月2日(水)に起こった。暮れの12月28日からはじまった八王子での瞑想合宿の6日目であった。午前中の、先生のダンマトークをメモする字が乱れ、面接時に話す舌の動きが鈍く、歩行瞑想でもふらついた。父が脳梗塞で倒れた時の経験があるので、すぐ病院に行く必要があると感じた。いくつか電話してもらったがベッドの空きがなかった。しかしたまたまキャンセルが出た八王子市内の脳神経外科の病院がありその日のうちに入院できた。そのためか麻痺は軽くすみ、右手で字が思うように書けなかったのと、少しろれつが回りにくくなった程度であった。5日間の入院と退院後2日の病欠後、すぐ職場に復帰した。その20日ほど後のブログで、私はすでにミンデルとの関係で自分の脳梗塞の意味を考えていた。
1ヶ月もたつと麻痺もほとんど消え、発病前と変わらぬ生活に戻っていた。ところが1月27日、急にまたろれつが回らなくなった。回復するどころか明らかに後退している。少し、不安になった。また小さな脳梗塞が起っているのではないか。かかりつけ病院にいった。医者の判断は、本人がまたしゃべりにくくなったと感じるなら、ほぼ確実に小さなな脳梗塞が起ったのだろう、とのことだった。しかし、入院するほどのこともなく、結果を追認するだけのことだからと、MRIもとらなかった。
ただ不安に感じたのは、小さな脳梗塞が波状的に繰り返される可能性があるということだった。そんな不安の中で私は、ミンデルの『うしろ向きに馬に乗る―「プロセスワーク」の理論と実践』や『シャーマンズボディ―心身の健康・人間関係・コミュニティを変容させる新しいシャーマニズム』を再読した。
「うしろ向きに馬に乗る」とは、日常的な意識のあり方を裏返すことの比喩である。それは、たとえば病気に対して「とんでもない」と言いながらも、一方で「しかし、これは何と興味深いのだろう」と言うことを意味する。
「普通、死は恐ろしいと思われていますが、うしろ向きという異端の考え方では、死が何かを教えてくれると捉えることもできます。‥‥苦しみに対して『嫌だ』と行って何を試しても効果がないときには、苦しみに『なるほど』と言ってみてください。そうすると、トラブルが何か面白いものに変化して、喜びにあふれ、笑いをこらえきれなくなるかもしれません。」
プロセス・ワークは「世界に対して今起りつつある出来事の可能性を見抜き、何かが展開しようとしている種子として世界をとらえる」ことだという。この時、私は「自分にとって脳梗塞は、可能性に満ちた種子なのかもしれない」と書いている。
次に再読した『シャーマンズボディ』。 読み出してさっそく、思わず感嘆してしまう言葉に出合った。人は、何らかのワークや修行をすることで、あるいは年齢を重ねるだけでも、「自分のアイデンティティはいずれ消え去らなければならない」ということを学んでいく。個人のアイデンティティ、ないし個人の履歴は、消し去らなければならない。アイデンティティは、「社会的な役割やコミュニティから期待される型をあなたに押しつけ、あなたの境界を定めてしまう」からだ。
「自分の履歴を自覚的に手放すか、あるいは、それにしがみついて死や病気によってそれが奪われることを恐れるか、どちらかしかない。」(何と強烈な言葉か!)
「自分の履歴を手放すことが、この世に生まれた以上は誰もが必ず学ばなければならない決定的に大切なレッスンである」とミンデルは言う。
夢に現れる敵は、実は自分に強い影響力を持つ「朋友」だ。病気も、家族とのトラブルも、同じように強烈な「朋友」だ。「人生の神話とは、望もうと望むまいと、この朋友との対決の物語だ。」 それは、自分のアイデンティティを消し去るまで、何度も何度も繰り返し襲いかかってくる敵であり、「朋友」なのである。人生は、強固なアイデンティティを手放すというたったひとつの主題をめぐって、学習を続けていくプロセスだともいえる。
2008年2月9日付のブログで私は次のように書いている。
―― 私が軽い脳梗塞を体験し、その意味を夢で確認した(夢の内容は省略)のは、「自分のアイデンティティを消し去る」という課題に、私がこれまでにもまして真剣に立ち向かわなければならない、ということだったのだろう。
「自分のアイデンティティを消し去る」とは、今度の脳梗塞の後に私が使った言葉で言えば、「透明になる」「魂の浄化」と同じことだ。私が二度目の脳梗塞を経験してしまったということは、一度目の後、この課題に真剣に取り組まなかったということだろう。だからこそ、もう一度だけチャンスを頂いたのだ。
それにしても「自分の履歴を自覚的に手放すか、あるいは、それにしがみついて死や病気によってそれが奪われることを恐れるか」は、ずばりこの二つの選択肢しかないことを突き付けられる。私は、「自分の履歴を自覚的に手放す」チャンスをもう一度だけ頂いた。このことを肝に銘じよう。
1ヶ月もたつと麻痺もほとんど消え、発病前と変わらぬ生活に戻っていた。ところが1月27日、急にまたろれつが回らなくなった。回復するどころか明らかに後退している。少し、不安になった。また小さな脳梗塞が起っているのではないか。かかりつけ病院にいった。医者の判断は、本人がまたしゃべりにくくなったと感じるなら、ほぼ確実に小さなな脳梗塞が起ったのだろう、とのことだった。しかし、入院するほどのこともなく、結果を追認するだけのことだからと、MRIもとらなかった。
ただ不安に感じたのは、小さな脳梗塞が波状的に繰り返される可能性があるということだった。そんな不安の中で私は、ミンデルの『うしろ向きに馬に乗る―「プロセスワーク」の理論と実践』や『シャーマンズボディ―心身の健康・人間関係・コミュニティを変容させる新しいシャーマニズム』を再読した。
「うしろ向きに馬に乗る」とは、日常的な意識のあり方を裏返すことの比喩である。それは、たとえば病気に対して「とんでもない」と言いながらも、一方で「しかし、これは何と興味深いのだろう」と言うことを意味する。
「普通、死は恐ろしいと思われていますが、うしろ向きという異端の考え方では、死が何かを教えてくれると捉えることもできます。‥‥苦しみに対して『嫌だ』と行って何を試しても効果がないときには、苦しみに『なるほど』と言ってみてください。そうすると、トラブルが何か面白いものに変化して、喜びにあふれ、笑いをこらえきれなくなるかもしれません。」
プロセス・ワークは「世界に対して今起りつつある出来事の可能性を見抜き、何かが展開しようとしている種子として世界をとらえる」ことだという。この時、私は「自分にとって脳梗塞は、可能性に満ちた種子なのかもしれない」と書いている。
次に再読した『シャーマンズボディ』。 読み出してさっそく、思わず感嘆してしまう言葉に出合った。人は、何らかのワークや修行をすることで、あるいは年齢を重ねるだけでも、「自分のアイデンティティはいずれ消え去らなければならない」ということを学んでいく。個人のアイデンティティ、ないし個人の履歴は、消し去らなければならない。アイデンティティは、「社会的な役割やコミュニティから期待される型をあなたに押しつけ、あなたの境界を定めてしまう」からだ。
「自分の履歴を自覚的に手放すか、あるいは、それにしがみついて死や病気によってそれが奪われることを恐れるか、どちらかしかない。」(何と強烈な言葉か!)
「自分の履歴を手放すことが、この世に生まれた以上は誰もが必ず学ばなければならない決定的に大切なレッスンである」とミンデルは言う。
夢に現れる敵は、実は自分に強い影響力を持つ「朋友」だ。病気も、家族とのトラブルも、同じように強烈な「朋友」だ。「人生の神話とは、望もうと望むまいと、この朋友との対決の物語だ。」 それは、自分のアイデンティティを消し去るまで、何度も何度も繰り返し襲いかかってくる敵であり、「朋友」なのである。人生は、強固なアイデンティティを手放すというたったひとつの主題をめぐって、学習を続けていくプロセスだともいえる。
2008年2月9日付のブログで私は次のように書いている。
―― 私が軽い脳梗塞を体験し、その意味を夢で確認した(夢の内容は省略)のは、「自分のアイデンティティを消し去る」という課題に、私がこれまでにもまして真剣に立ち向かわなければならない、ということだったのだろう。
「自分のアイデンティティを消し去る」とは、今度の脳梗塞の後に私が使った言葉で言えば、「透明になる」「魂の浄化」と同じことだ。私が二度目の脳梗塞を経験してしまったということは、一度目の後、この課題に真剣に取り組まなかったということだろう。だからこそ、もう一度だけチャンスを頂いたのだ。
それにしても「自分の履歴を自覚的に手放すか、あるいは、それにしがみついて死や病気によってそれが奪われることを恐れるか」は、ずばりこの二つの選択肢しかないことを突き付けられる。私は、「自分の履歴を自覚的に手放す」チャンスをもう一度だけ頂いた。このことを肝に銘じよう。