瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

病後にミンデルを読み返す

2013年08月09日 | 瞑想日記
今回の脳梗塞の発症とその後の入院生活、そして病院のスタッフの人々の働く姿を見ての喜びなどを思い返すと、何かとても静かな心でその全体を肯定的に捉えている自分を発見する。だからこそ、ミンデルをもう一度読み返そうという思いが湧いた。しかし、本を読み返すまでもなく、過去にこのブログにミンデルの言葉をたくさん載せてきたのを読み直す方がよいことに気づいた。このブログの右上の検索欄で「ミンデル」と入れて「このブログ内で」で検索した。それらを読み返していると、前回の脳梗塞(2008年1月)に触れているものもあり、その頃のブログも読み返した。ともあれ、病気のあとミンデルの言葉を読み返すと、また感慨深いものがある。

まずは簡単にミンデルの紹介。

ミンデルは、身体と夢とを同じ本流から流れ出た支流と考えて、その「つながり」、「関係性」を注意深く見ていく。体の症状も夢と同じように無意識の創造的な発現である。夢に意味があるように身体に起こっていることにも恐らく意味がある。それは単に悪いものではない。夢=身体(ドリームボディ)における夢と身体との関係には、原因も結果もない。夢と身体には鏡を介在したような相互に反映しあう関係があるだけだという。 夢と身体症状は、お互いに分身であり、夢のイメージも、身体の症状も根元は同じと考え、その共通の根元を夢と身体の一体になった「ドリームボディ」と名づけた。

ミンデルは、かかわりをもつ人間の中に、あるいは人間同士の関係のなかに、さまざまな現実そのものの中に、それらに即して、全体性を回復するうねりのような力を見ている。押さえつけていたもの、無視したり抑圧していたりしたものを明るみに出し、それらが充分に働くようにすれば、それが展開することで全体的な調和が生み出される。「大きい力」を心身や社会という現実そのものに内在する運動と見ている。

タオ=「ドリームボディ」=「大きい力」=「時空を超えた世界」が、実はこの日常的現実とひとつであり、夢や身体症状や偶然の一致や、一見不幸な出来事などの形をとって、絶えずこの現実の中でプロセスを展開しているということ。タオと現実とがひとつらなりであること。その働きかけを自覚してそのプロセスに自らをゆだねることが心理療法という実践のかなめであり、人間の心理的成長にとっても大切なことなのだ。

現実の中の病や人間関係のトラブルや苦悩や絶望や挫折、それらがすべてタオからのメッセージ、いやタオそのものが発現するための大切なきっかけなのだとしたら。そうだとすれば私は、日常を生きながら、その現実のプロセスの中により深い次元を発見し、その深い次元を生きることができる。そこに気づかせてくれるのが、ミンデルのたまらない魅力なのだ。

以上は、以前書いた文章からの抜粋なのだが、改めて読み直して、今回の脳梗塞を私は最初からこのような視点で捉えていたなと確認した。私にとって今回の病がタオからのメッセージ、働きかけであることは最初から明らかだった。病気を通して、妻との関係も以前よりよくなっている。病院のスタッフの人々の私心のない働きぶり(すべての人がそうだとは言わないが)は、私に静かな影響を与えている。これらすべての経験が、私に深い影響を与えている。

ミンデルは、ドン・ファンの「第一の注意力」、「第二の注意力」という言葉を借用して次のように言う。

「第一の注意力は、私たちが日々の仕事をこなし、定めた目標を達成し、自分のアイデンティティを保つのに必要な自覚である。一方、第二の注意力は、普段無視している内的な出来事、主観的な体験、非合理的な体験に焦点を当てる自覚である。第二の注意力は、無意識的(で夢のような)動作、偶然の出来事、うっかりした言い間違いといった、四六時中生じている自発的なプロセスへ向けられたものだが、それは夢見の世界への鍵なのである。(『シャーマンズボディ―心身の健康・人間関係・コミュニティを変容させる新しいシャーマニズム』)

第二の注意力を育むことによって、日々の生活の場である現実が、豊かな意味をもって働きかけてくる。夢が、私にそっと何かを教えてくれるように、体の症状も夢と同じメッセージを伝えようとしている。日常の中で延々と続けられる散漫な思考や夢想も、気づきさえすれば、私の奥深くから湧きあがってくる「傾向」を物語っている。それは、気づきさえすれば夜見た夢と同じプロセスを物語っている。そして気づき(サティ)は、日常の中でも研ぎ澄ましていくことができる。
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