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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

自覚しつつ生きる

2010年03月07日 | 瞑想日記
◆ミンデル『シャーマンズボディ―心身の健康・人間関係・コミュニティを変容させる新しいシャーマニズム』より

「自分の履歴(個人史:パーソナル・ヒストリー)はアイデンティティ、あるいはあなたがコミュニティや世界で引き受けた役割を示している。あなたは男性、女性、母親、父親、妻、夫、パートナー、学生、技師、教師である。あなたはプロテスタント、カトリック、ユダヤ教徒、イスラム教徒、仏教徒、アフリカ人、アメリカ人、ヨーロッパ人、オーストラリア人、日本人、インド人である。あるいは、その他いろいろな何かであることだろう。あなたは自分の過去、現在追い求めているもの、自分の才能や自分の問題に執着している。

こうした自分の履歴は消し去らなければならない。でなければ、あなたは他者からどう見られるか、によって操られてしまうのだ。アイデンティティは、社会的な役割やコミュニティから期待される型をあなたに押しつけ、あなたの境界を定めてしまう。そのため、他者のあなたに対する考えがあなたを操るようになる」P60

私たちは、自分が社会の中で担う様々な役割と、そこに付随する評価の寄せ集めによって「自己」という像を作り上げている。「頼もしい夫」、「理解ある父」、「有能な技師」等々、他者が期待するであろう評価を取り込んで、その期待に「操られて」生きている。

そのアイデンティティを消し、境界を消すことができたなら、それを「悟り」というのだろう。しかし、その執着を手放すことはそれほど容易ではない。無理に手放そうとすしても、かえって無自覚の抵抗が生まれるかもしれない。

社会に期待される「自己」に同一化し、他者からどう見られるかによって操られているなら、そういう自分をもっと自覚的に生きてみることが、大切なのだろう。それは「自覚的に自慢せよ」で触れたことにも通じる。

地位が欲しい、お金が欲しい、評価が欲しい、そういう動機に根ざした自分の日々のふるまいを、私はどれだけ自覚的に生きているだろうか。それらを否定するのではなく、自覚的に生き抜いてみよ。否定する心からは変化は生まれない。一瞬一瞬、どれだけ深く自覚しながら、それを生きることができるか。

◆昨日、一日半断食を開始しようと思ったが、午前中、テーブルに出ていたせんべいをつい食べてしまい、途中でやめた。一度食べてしまうと、それが胃を刺激するのか、脳を刺激するのか、さらに食べたい欲求が強まってしまう。

ということで、今日再チャレンジしている。