瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■瀑流の如し

2004年10月29日 | 輪廻説
◆輪廻と阿頼耶識
唯識関係の研究書や入門書のなかの「輪廻と阿頼耶識」の問題に触れている部分をざっと読み返してみた。唯識はやはり独特の用語が多用されるので、述語の説明をしないでその部分だけ要約するというのがどうも難しい。まずは、横山紘一の『やさしい唯識』(NHKライブラリー)にしたがってごく基本的なことをまとめると、以下のようになる。

◆瀑流の如し
あくまでも同一なるものとして存在し続け、しかも自分で自分を統御できる「常一主宰の我」としての霊魂を、釈尊はみとめず、無我を主張した。しかし、仏教が、無我を説きながら輪廻を認めるならば、輪廻する主体は何かという問いが生じる。

これに対して釈尊は、生じては滅していく業の相続体があり、それがこの一生を生き、未来にも続いていくと説いた。

ところが、業の相続体が輪廻の主体であるという主張も、すんなりは納得されない。そこで部派仏教の諸派がいろいろな説を出したが、どれも満足できるような説ではなかった。そこで、唯識派が阿頼耶識ことが輪廻の主体であると主張するに至り、この問題も一応の結論が得られたという。

が、ここでまた、阿頼耶識が輪廻の主体であれば、それは「我」のようなものであり、無我説に反するのではないかという問題が生じた。これに対し『解深蜜経』などでは、阿頼耶識は「瀑流(ぼる)の如し」というたとえで答えている。すなわち、阿頼耶識は実体として常にあり続けるのではなく、刹那に生滅する瀑流の如き不連続の連続体としての心があるだけだという。

のちの『成唯識論』では阿頼耶識の中の種子がそのように刹那生滅しながら相続するとらえ、それを「種子生種子(しゅうじしょうしゅうじ)」と表現するようになった。これによって唯識派は、深層心をも含めた心の全体を一大エネルギーにの変化体ととらえることになった。

◆少しづつ
正直言ってこれだけでは、唯識の説明が納得のいくものかどうか、皆目わからない。もう一度最初から再勉強をし、輪廻の問題をどのように理解したのかという視点からもとらえ直す必要がある。とりあえず、入門書でひとつ読み残していた竹村牧男の『知の体系・迷いを超える唯識のメカニズム』を読んでみよう。

私には、「経験の中心として私」の絶対唯一性という問題が、輪廻の問題と深くかかわっているように思える。阿頼耶識説は、それにどう答えようとするのか。