瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■深淵かつ普通

2004年10月25日 | 瞑想日記
◆深淵であり普通でもある

ここに来られたら
今、この瞬間に着いたら
毎日が特別になるでしょう
毎日は同時に 「深遠」であり、「普通」でもあるのです
 
(エリエール&シーヤ・カーン『今ここに生きる力』voice)

◆これも忘れられない言葉
何気ない一瞬一瞬が、普通であると同時に、計り知れない深淵である。
なぜなら、私たちは限りあるいのちとてこの世に投げ出されて生きているから。
生きているこの一瞬一瞬が、何故という問いを超えた無限の神秘
その神秘をかみしめながら行きたいと思う。

■ただ今この瞬間を

2004年10月25日 | 瞑想日記
◆ひたすらに今もの瞬間を
どんな欲望も、『大いなる存在とひとつになる喜び』の代用品として、
外界に満足を求めることからはじまります。
この次元にとどまっているかぎり
「自由になりたい」、「さとりをひらきたい」という思いも、
『欲望のひとつ』になってしまいます。
ですから自由になる方法を追い求めたり、
さとりをひらこうと努力したりしないでください。
ただひたすらに、『いま、この瞬間』という時を、 生きるのです。
『思考を観察する人』になってください。
(エックハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(徳間書店、2002)

◆忘れてはならない言葉
何かを追い求める心は、私たちにとってあまりに慣れ親しんだ心のあり方だ。
さとりを求める心もその一つ。
しかし、追い求めているかぎり、どこかで今を否定している。
今を否定して、どうしてすべてを受け入れることができよう。
何度でも思い出し、思い出しては確認すべき言葉だ。

■座禅、腹の動きへの集中

2004年10月25日 | 瞑想日記
座禅のとき、腹の動きに集中し、膨らみ、縮みを観察していれば、30分なり40分なりの坐禅のなかで、その動きに様々な変化があることに気づく。ヴィパッサナー瞑想では、とくに呼吸をコントロールしないから、変化は自然に起こる。

私の場合、一般的には、瞑想が深まるにつれて呼吸量も減り、腹の動きはきわめてかすかになる。それでも一回一回の呼吸によって腹の動きは微妙に違う。そのかすかな違いにまで細やかに気づいていくことが大切なのだ。これまでの私は、どちらかというとおざなりにラベリングするだけで、腹の動きの微妙な変化まで注意を注いでいなかった。

と同時に、毎日瞑想をすることの大切さをつくづく感じる。続けていれば、それなりの深まりや気づきがある。途切れると、また元の木阿弥だ。

■何が輪廻する?

2004年10月25日 | 輪廻説
◆何が輪廻する?
無我説をとる仏教において、固体の連続性は否定されるが、業という影響力は死を超えて伝わるという。常識的な輪廻転生は認めないが、死後にどんな影響力も残らないという考えか方も否定する。

いわゆる霊魂のようなものが不滅のまま輪廻し続けるという考え方を仏教は承認しないが、何らかの影響力は伝達され、それによって新しい物体が何らかの力を得て動きだすのだという。つまり、業という行為の目に見えない影響力が過去から現在に、そして未来へと影響を及ぼしていくことこそ、輪廻にとって重要である。

しかし、無我を悟った人には、閉ざされた輪廻の世界に影響を残すような悪業がないから、輪廻は終わるのだという。(田中教照「輪廻するものは何か」、『輪廻転生』大法輪閣、1988年、所収より要約)

◆疑問続出
この論文自体が、一般読者向けの短い紹介という体裁なのでかも知れないが、これだけの説明では、昨日提出したような疑問には一切答えていない。つまり、業が固体Aから固体Bにどのように影響を与えるのか、なぜ固体CやDに影響を与えるのではなく、Bなのか等々、様々な疑問に何も答えたことにはならないのである。