瞑想と精神世界

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覚醒・至高体験をめぐって11:  (2)至高体験の特徴③

2010年07月27日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《林武》 

まずは、その強烈な表現と独自の造形理論で知られた画家・林武(はやしたけし、一八九六~一九七五)の体験である。彼は、一番大事な絵を捨てようと決心した、あるときの心境と体験を次のように語っている。(『美に生きる―私の体験的絵画論 (1965年) (講談社現代新書)』)

『僕は、絵の道具を一切合財、戸だなのなかにほうりこんでしまった。愛するものを養うために、あすから松沢村役場の書記かなんかにしてもらって働こう。僕はそう決心した。それは実になんともいいようのない愉快な気分であった。からだじゅうの緊張がゆるんで精神がすっとして、生まれてこのかた、あんなにすばらしい開放感を味わったことはいまだなかった。』

『それは一種の解脱というものであった。絵に対するあのすごい執着を、見事にふり落としたのだ。僕には、若さのもつ理想と野心があった。自負と妻に対する責任から、どうしても絵描きにならなければならなかった。だからほんとうに絵というものをめざして、どろんこになっていた。そのような執着から離れたのであった。』

『外界に不思議な変化が起こった。外界のすべてがひじょうに素直になったのである。そこに立つ木が、真の生きた木に見えてきたのである。ありのままの実在の木として見えてきた。』

『同時に、地上いっさいのものが、実在のすべてが、賛嘆と畏怖をともなって僕に語りかけた。きのうにかわるこの自然の姿──それは天国のような真の美しさとともに、不思議な悪魔のような生命力をみなぎらせて迫る。僕は思わず目を閉じた。それはあらそうことのできない自然の壮美であり、恐ろしさであった。

この至高体験をまず取り上げたのは、マスローのいうD認識からB認識への変化をみごとに描写しているからである。B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められず、「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる傾向がある。自然がそのまま、それ自体のために存在するように見られ、世界は、人間の目的のための手段の寄せ集めではなく、それぞれのあるがままで尊厳をもって実感される。 逆にD認識においては、世界の中の物や人は「用いられるべきもの」、「恐ろしいもの」、あるいは「自己」が世界の中で生きていくための手段の連鎖として見られる。

林武の事例において、木が「真の生きた木、ありのままの実在の木」として見えたとは、主体との関係や主体の意図によって歪曲されず、主体自身の目的や利害から独立した「それ自体の生命(目的性)において」見られたということであろう。そのとき「その情緒反応は、なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、謙虚、敬服などの趣きをもつ」のである。認識が、D認識(目的―手段の連鎖の中で見る日常的認識)からB認識(それ自体の尊厳性において見る)に激変したことの驚きを、画家は「きのうにかわるこの自然の姿──それは天国のような真の美しさとともに、不思議な悪魔のような生命力をみなぎらせて迫る」と表現している。
覚醒・至高体験事例集・林武の事例も参照のこと)