現在行っている作業は、とりあえず自己観察に基づいて日常的な思考をおおまかに分類することである。分類された概念は、まだ充分に吟味され、その意味内容が明確にされたものではない。作業仮説としてとりあえず提示したに過ぎない。
とりあえず提示された概念(たとえば「目的をもった思考」と「散漫な思考」)について、その意味内容を検討し、相互関係を明確にする。また関連領域との関係や関連する概念との異同を明らかにしていく。
また先行する関連研究があれば、それとの関係や違いも明らかにしていく。こうした作業を繰り返すことで、提示された概念の意味内容が精確化され、概念相互の関係も明確にされていく。その過程で日常的な思考の構造も徐々に明らかにされていくであろう。
そこで次に、「目的をもった思考」と「散漫な思考」の違いを「自覚的」「無自覚的」という述語を用いて検討したい。
「日常的な思考」の性質や構造を考えていくうえで重要な役割を果たすのが「連想」だろう。「散漫な思考」が、次から次へと対象や内容を変化させていくのは、外的な刺激や、直前の思考そのものなど、様々な対象からの連想によるだろう。そして、ある刺激から次に何を連想するのかについては、いろいろな選択の可能性があるはずだが、ともあれ特定の何かが連想されていく。そして、ある可能性の幅の中から何が選ばれて連想されていくかという、そのプロセスについては、ふつう無自覚的である。さらに、そのつどの思考のテーマについても無自覚的である。つまり「いま私は何々について思考している」というような自覚化はほとんどされないし、されにくい。
「目的のある思考」の場合はどうだろうか。街を歩いている時に、向こうから歩いてくる人が、携帯で誰かと話していたとする。そこから連想が働き、「あ、B氏に連絡をするのを忘れていた」と思い出す。この連想もほぼ無自覚的になされたと言ってよいだろう。
しかし、次にこう考え始める。「そうだ、あの件はかなり難しい問題をはらんでいるから、よほど誤解のないようにうまく説明しないとな。うん、まずは、こう言って……」などと思考を続けていくのである。これはもちろん「目的のある思考」である。ここでは考えるべきテーマが特定され、自覚化されている。つまり「B氏に誤解のないように話すには」というテーマが自覚的に特定され、それを巡って思考がしばらく続くのである。このテーマに集中している限りでは、連想によって思考対象が、恣意的に、無自覚的に移り変わっていくことはない。
もちろんここにも程度の問題がある。「自覚的」「無自覚的」という区別も、曖昧領域を含んでいる。B氏との用件の場合にも、「いま、私はこの件について考えている」という言語化された自覚がつねにあるわけではない。しかし、少なくとも一度は、「この件をしっかり考えておかなくては」という、意図の自覚があったはずである。程度の差はあるが、何を何のために考えているのかという意図の自覚が「目的のある思考」の特徴だといえよう。つまりそこには、もし聞かれれば答えることのできる「思考目的」の自覚が、多かれ少なかれあるということだ。
とりあえず提示された概念(たとえば「目的をもった思考」と「散漫な思考」)について、その意味内容を検討し、相互関係を明確にする。また関連領域との関係や関連する概念との異同を明らかにしていく。
また先行する関連研究があれば、それとの関係や違いも明らかにしていく。こうした作業を繰り返すことで、提示された概念の意味内容が精確化され、概念相互の関係も明確にされていく。その過程で日常的な思考の構造も徐々に明らかにされていくであろう。
そこで次に、「目的をもった思考」と「散漫な思考」の違いを「自覚的」「無自覚的」という述語を用いて検討したい。
「日常的な思考」の性質や構造を考えていくうえで重要な役割を果たすのが「連想」だろう。「散漫な思考」が、次から次へと対象や内容を変化させていくのは、外的な刺激や、直前の思考そのものなど、様々な対象からの連想によるだろう。そして、ある刺激から次に何を連想するのかについては、いろいろな選択の可能性があるはずだが、ともあれ特定の何かが連想されていく。そして、ある可能性の幅の中から何が選ばれて連想されていくかという、そのプロセスについては、ふつう無自覚的である。さらに、そのつどの思考のテーマについても無自覚的である。つまり「いま私は何々について思考している」というような自覚化はほとんどされないし、されにくい。
「目的のある思考」の場合はどうだろうか。街を歩いている時に、向こうから歩いてくる人が、携帯で誰かと話していたとする。そこから連想が働き、「あ、B氏に連絡をするのを忘れていた」と思い出す。この連想もほぼ無自覚的になされたと言ってよいだろう。
しかし、次にこう考え始める。「そうだ、あの件はかなり難しい問題をはらんでいるから、よほど誤解のないようにうまく説明しないとな。うん、まずは、こう言って……」などと思考を続けていくのである。これはもちろん「目的のある思考」である。ここでは考えるべきテーマが特定され、自覚化されている。つまり「B氏に誤解のないように話すには」というテーマが自覚的に特定され、それを巡って思考がしばらく続くのである。このテーマに集中している限りでは、連想によって思考対象が、恣意的に、無自覚的に移り変わっていくことはない。
もちろんここにも程度の問題がある。「自覚的」「無自覚的」という区別も、曖昧領域を含んでいる。B氏との用件の場合にも、「いま、私はこの件について考えている」という言語化された自覚がつねにあるわけではない。しかし、少なくとも一度は、「この件をしっかり考えておかなくては」という、意図の自覚があったはずである。程度の差はあるが、何を何のために考えているのかという意図の自覚が「目的のある思考」の特徴だといえよう。つまりそこには、もし聞かれれば答えることのできる「思考目的」の自覚が、多かれ少なかれあるということだ。