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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

書くという癒し(今日の日記)

2005年01月08日 | 瞑想日記
◆書くという癒し
またレポートを続ける合間に、その日その日の思いなど、書きたいことがあったら(今日の日記)として綴っていくつもりだ。今回のレポートは、余計な描写は抜きにしてあまり長くしないつもりではある。レポートを書いていると体験の、合宿中には充分把握し切れなかった意味が明らかになってくる感じだ。今回は、とくにそれが多いと感じる。こんな風にじっくり書くことが自分自身にとって大切な「自己カウンセリング」になっているようだ。

書くときにいちばん注意するのは、言葉がそのときの自分の実感をどれだけ正確に言い当てているかどうかだ。これは、ある意味でサティに似ている。一方で、詩や文学表現にも似ている。表現が、しばしば癒しにつながるという意味がよく分かる。

もちろん書く上では、削ったり、編集したり、構成したりの作業は避けられない。しかし、それと自分の体験の真実をどれだけ表現しえたかというのは別問題だ。真実に可能なかぎり近い表現をしえたとき、自分のなかにエネルギーが流れ、何かと何かがつながっていくのを感じる。

◆夏の合宿のレポート完成
なお、夏の合宿のレポートの前半部分は、すでにアップしていたが、後半部分もようやく今日アップすることができた。

☆瞑想世界の旅(→こちら)から入ってご覧いただける。

瞑想合宿レポート6

2005年01月08日 | 瞑想合宿レポート
◆眠気と思考
しかし、それで問題が一気に解決するほど、ことは単純ではなかった。その日の夜の2回の座禅は、前半こそサティが入っていたが、後半眠気が来た。4日目の朝いちばんの座禅はとてもよかった。時折思考はあるがすぐにサティが入り、同時に腹の動きに戻れた。しかし、朝食後すぐの座禅とその後の歩行瞑想は、かなり強い眠気がずっと続いた。「昨日の気づきがあったのになぜなのか、眠気の原因は他にあるのか」という疑問が湧いた。食事が眠気の原因とは考えにくかった。すでに3回の合宿経験があり、多過ぎも少な過ぎもせずに自分の適量をとっていたからである。

ダンマトークが9時ごろに終了して最初の座禅はまあまあであった。そのあと歩行瞑想。またもや思考が多くなる。足裏の感覚に戻ろうとしても思考が次々に湧いて来る。いつしかサティを忘れて思考の団子状態となる。ハッとしてサティを入れ、また足裏に戻る。そんなことの繰り返しだ。しかし、次々湧いて来る思考にはある程度の一貫性があった。ヴィパッサナー瞑想と自分との関係を問う思考が多かったのだ。

◆気障なメガネ
実をいうと3日目あたりから、また例のメガネの錯覚が出始めていた。出たり消えたりだったが、そのときはなぜかフレームの両端が尖がったセルロイドの気障なメガネに感じられた。そこから、かなり思考モードではあったが、心随観が始まった。

私は一方で、求道者であり、生死の真実の探求者であった。それは嘘偽りない自分の姿であり、自分のいのちの底流をなしていた。他方で私は、自己愛や名利を求めようとする渇愛に囚われている。その矛盾、真実を求めながら「自己」拡大への渇愛に囚われていることのウソ、それがセルロイドの気障なメガネになって表れているような気がした。

昼食後すぐの座禅も眠気が多かった。仕方なく3階へ行って歩行瞑想を始めたが、やはり思考が多い。何とかしなくてはと、足の感覚のラベリングを実態に合わせて細やかにとっていった。たとえば、足が絨毯に着く瞬間の感覚をたんに「着」とするのではなく、感じているままに「ソフト」としたり、ラベリングはなしだが、足裏のあちこちの部位の感覚の変化を細やかに感じ取ってサティしたりした。そうすることでかなり思考が少なくなった。

そうやって足裏の感覚の微妙な変化にサティをしていると、ふと「真実でない部分がある」という言葉が浮かんだ。