瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート7

2005年01月09日 | 瞑想合宿レポート
◆求道こそ生きる意味
「真実でない部分がある」というラベリングは、どこか分析的な臭いがある。最初に出てきたのは「真実ではない」とか「ウソ」とかの単刀直入な言葉で、それをあとからあのように言いなおしてメモしたのかもしれない。

ともあれ歩行瞑想を止めて喫茶室に移動したとき、私はこの言葉から心随観をはじめていた。といってもかなり思考モードになっていた。私のいのちの底流は、求道であり、生死の真実の探求であった。そのことを私は、これまでもずっと意識のどこかでは分かっていた。しかし、この日ほどそれをまごうかたない真実として実感したことはなかった。このように明確な言葉とともに自覚したのは初めてであった。私のいのちの本質は、求道であり、それが生きる意味であった。それ以外の一切は飾り物にすぎない。

にもかかわらず私は、エゴの評価をもとめて必死になっている。そのことが、「真実ではない」こととして、「ウソ」として浮上してきたのだ。結局これは、最初の気づきをより深いレベルで捉えているようだ。そう思い至ったとき、何かしら感動があった。

この合宿でより深い内面への気づきと、劣等感からの解放とを求めるのは、私の底流から来る願いだった。しかし、合宿の体験をよいレポートにして評価されたいという渇愛はエゴだった。その渇愛が瞑想を邪魔していた。そしてその底には、求道とエゴ追求の矛盾があったのだ。自分は求道のために生まれて来たという遠い記憶が、ますますくっきりと形をとり、疑いようもない事実となりつつある。しかし一方では、相変わらずエゴの追求によってそれをかき消そうとする、その愚かしさとでもいおうか。その愚かしさとウソは、気障なセルロイドのメガネでもあった。

◆「こんなのまやかしだ」
その後は、かなり眠気の多い座禅や思考の多い歩行瞑想をしているうちに夕方になった。5時ぐらいから一階で座禅を始めた。やはり強い眠気で腹に全然集中できない。あまりにひどいので少し気を入れて集中力を高めようとした。それがきっかけとなり、最初に参加した合宿での瞑想を思い出した。やはり深い瞑想体験をしようと必死になっていた。そして同じように気を操作していた。すると何がしかの禅定に入りやすかった。

突如として「こんなのまやかしだ」と頭のなかで叫んでいた。「求める心の大ウソ」、「カニカ・サマーディなんかくそ食らえ!」