若槻の 血もしたたらむ 石畳 澄
*これは、かのじょが鳥音渡という架空の詩人が書いたという形にして書いた、詩の中の一節です。五七五のリズムになっているので、ここだけを抽出して俳句にしてみました。
「若槻(わかつき)」というのはもちろん、若いケヤキの木のことです。相変わらずちょうどいい写真がないので、これで我慢してください。
けやきという木は落葉樹ですが、紅葉する秋になると、黄色くなるものと、赤くなるものと、二種類ありますね。この句で詠われているケヤキは、赤くなるほうのものでしょう。
秋になれば赤く紅葉したケヤキの葉が石畳の上に散る。それはまるで血が滴っているようだろう。
これを書いていたころ、かのじょは傷だらけでした。満身創痍などというものではない。自分の存在そのものが、大きな傷になっているかのようでした。
血を滴り落しながら、歩いているようなものだったが、麻痺感覚で自分を守って、何とか生きていた。嵐のような、人間の侮辱の嵐の中も、自分の感覚を低空の低空状態にして、何とかしのいでいけば、生きていけるのではないかと、考えていた。
だが、現実はそんなに甘くなかった。馬鹿がやっていることは、当時のかのじょの想像を超えていました。人間の男が、美女を見て何を考え、どんなことをやるかということを、かのじょもある程度は知っていましたが、まさかそこまでのことをやるとは思っていなかったということを、馬鹿な男たちはやっていたのです。
美しい女というものは、ある意味、男を絶対支配するのです。
人生以上のものを賭けて、あらゆることをやってしまう。
だがかのじょは、自分をそれほどの美女だとは思っていなかったのですよ。美しい女性の常として、自分の美しさというものが、本人にはあまりわからないのです。その人の美を見て衝撃を受けるのは、いつもそれを見る他人の方だ。
あなたがたには、あの人が、世界をひっくり返すほどの美女に見えたのです。
だがそれに対してあなたがたがやったことは、神も愛をひっくり返すほど、ひどいことだった。
言わずともわかるでしょう。
ここで、わたしの友達の一人が、この句に対して寄せた歌を紹介しておきましょう。
上弦の 傷を硝子の 石に書き あほうの面を 破りてもみむ
上弦の月の形をした傷を、ガラスの石に書き、それを馬鹿どもの顔にぶつけて、割ってもみよう。
どんな色の血が滴るだろう。