身をそぎて つくりたる飴 甘きぞと 子らに食はせる しらゆきの鶴
*これは試練の天使の作品です。彼らしい作品です。明快で、愉快な口調だ。それそのものを言う表現が、いかにも政治家だという感じです。
自分の身をそぐような苦労をして、飴を作り、甘いぞと言って、子等に食わせているあなたは、白雪のように白い鶴だ。悲しいほど美しい。
だが弱い。時がくれば、雪のように消えていくだろう。
政治家というものは、表現をそれほど衒いはしません。直喩も隠喩もかなり単純で、素朴だと感じるほどだ。剛直だが、言いたいことがわかりやすい。きついところで薬が効いていて、読む者の心にこたえる。
かのじょならば、もっと文学的にやさしく、美しく詠むでしょう。深い隠喩の中に心を閉じ込めて、甘い色や味を入れて、読む者の心に溶けていくようにやさしくする。それはそれは美しく快いが、薬が弱すぎて、それほど効かない。
たとえばこんな風でしょうか。
たまかぎる ほのかの色を 花に請ひ 月のかたへに 甘き飴煮る 夢詩香
うん、なかなかかのじょのようにはいきません。真似をしようとしてみましたが、どうしてもあの甘い感じが出ませんね。あの人はやさしい。透き通るような美しい言葉を、心の水の中に数千の銀の魚のように飼い育てている。とてもかないません。ああ、ちなみに「たまかぎる」は「ほのか」とか「夕(ゆふべ)」にかかる枕詞です。枕詞はよく使います。便利だから活用するとよろしい。
だが、それぞれは、それぞれらしいからこそ美しい。わたしは表題の、彼の明快で痛い口調も好きです。少々乱暴な感じもするが、鼻先にまっすぐに拳を突き出されるような、さわやかなものも感じる。なぜあの人は拳を突き出すのか。もうとっくにその理由は知っている。それはもう長い付き合いですから。
だがその理由というものを、ことさらに言うことはできない。そんなことをすれば、彼の不興を買う。いやなことはしないのが、わたしたちの流儀です。が。
かのじょだけは、平気でそんなことを言うのですよ。なぜ彼が拳を突き出すのか。その理由を、何も考えずにまっすぐに言うのです。あの人はそう言う人。まれにみるお馬鹿さんなのです。たとえばこれも、かのじょの歌です。
たかてらす 日には隠せず 青き鞭 ふりて血を吐く きみのしんざう
ね。わかるでしょう。
こんなことを彼に言えば、怒られるのに決まっているのに、かのじょは平気でまっすぐに言う。
そういう人なのです。