螳螂の 臂を振りては 片山の 槻の太根を 倒さむとせり
*これは荘子のこの言葉から来ています。
螳螂の臂(ひじ)を怒らして以って車軼(しゃてつ)に当たるがごとし。
要するに、カマキリがそのカマを振り回して、車輪に向かっていくようなことで、とてもかなわない相手に立ち向かっていく、無謀な行動の譬えに使われます。ちなみに、「蟷螂の斧」は、「文選」のこちらの言葉から来ています。
螳螂の斧を以って隆車(りゅうしゃ)の隧(みち)を禦(ふせ)がんと欲す。
ほとんど意味は変わりません。
荘子は、玉砕覚悟で大きな権力に挑戦していくことなど、無謀で愚かなことだと言いたかったらしい。確かに、戦っても意味のない時に戦っても馬鹿になるだけだ。だが、無謀と見える戦いも、相手を見抜く目があれば、生きてくる時がある。
幕末期の幕府は、一見、車軼や隆車のように盤石なものに見えていましたが、実情はもう張りぼての権力に過ぎなかった。晴眼の志士が的確な意図をもって行動すれば、崩せないものではない。
馬鹿はこれがわからないから、大事な時に逃げて、何をなすこともできないのです。新たな時代を作るという青雲の志を持つ者が、古い時代を崩そうと思えば、自分の武器が螳螂の臂に等しいほど小さなものでも、何とかすることができることがあります。
だが、片山に生えた槻の太い根を倒すようなことは、やめたほうがよいですね。晴眼を持つ人ならば、これはとてもかなわないということがわかる。涼やかに何気なく立っているように見えるが、その根は強く深く大地に根差している。なんでもないように見える青葉が、社会を照らす大きな光になっている。
あの美しいものは、神の下で神の仕事をしている。幕府のように怠けて、国を誤っているようなものではない。むしろ、国を大きく支えているのだ。決して壊してはならない。
だが、馬鹿なものは、その槻の木の美しさが欲しいばかりに、螳螂の臂に等しい武器で、ぶつかっていくのです。そしてたまらない馬鹿になる。槻が弱いものに見えるので、それくらいで何とかなると、思い上がるのだ。だがそんな甘いものではない。
もう言わなくても何のことを言っているかわかるでしょうが、表現の仕方によっては、なかなかにいいものができるということです。
ああそういえば、かのじょは一時期、あるHPで、ケヤキというHNを使っていたことがありました。偶然ですが、おもしろいですね。
もちろん「槻(つき)」は「月」にかけてあります。