ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

鉄槌

2017-02-18 04:44:05 | 短歌






旨酒を 盗みて酔ひし 馬鹿どもの 寝ぼけまなこに 鉄槌が落つ






*今日は厳しいのを選んでみました。これは獅子の星の作品です。だれの作品かは、あえて言いません。

読んだらそのまま意味が伝わる歌ですから、解説はしなくてもわかるでしょうが、一応やっておきましょうか。

どこかのだれかから、いいものを盗んでいいものになったつもりで、その自分に酔って好きなことをしている馬鹿なやつめ。その寝ぼけまなこをしたぼんやり顔に、鉄槌を落として目を覚まさせてやろう。

表現を凝らず、はっきりと明快にわかりやすいのが、獅子の星の特徴です。怖いですね。まるで逮捕状のようだ。

彼らは正義を剣にして、馬鹿を奴隷のように這いつくばらせます。その鉄槌は、重いなどというものではない。氷よりも冷たい。馬鹿は震えあがるなどというものではない、厳しい運命の動物に翻弄される。

動物というものは、情けはほとんどありません。目的と、やることのみが、あります。情の入る余地などないことをせねばならないとき、獅子の星は、動物のように酷薄になることも、できるのです。それも、愛の存在ができることの一つなのです。

食い殺すことのみしか考えていない動物のように、いやなことばかりする馬鹿を、痛め殺すためだけに、すごいことをすることもできる。そういう天使はたくさんいます。

獅子の星を怒らせたら、もうおしまいです。馬鹿に許される選択は、滅亡か、死しかない。生き延びられる可能性は、ありません。

怖いですか。今まさに、彼らの鉄槌を浴びている人もいることでしょう。そういうものたちは、獅子の恐ろしさを心底味わっていることでしょう。

天使を、かのじょのように、やさしいことしかできない甘いやつばかりだと考えてはいけませんよ。あの人の方が、ずっと珍しいのです。自己存在の進化の道には、厳しいことができる男が進化した、すごい、という存在のほうが、多いのです。







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冬の雨

2017-02-17 05:07:47 | その他






冬の雨 心こごりて 子を思ふ     夢詩香






*ここは南国ですから、冬でもあまり雪は降りません。降っても2~3センチ積もるくらいで、すぐに溶けて消えてしまいます。

雨が降ることのほうが多い。だが冬の雨というのは寒い。冷たい風の中で雨に濡れたりすると、骨まで染みるような気がします。

北国の寒さとはまた違うものがある。

部屋の中で、暖房に守られながら、外の雨の音を聞いていると、自然に、今は心を閉じている、あの子のことを思う。

わがままな子ではなかった。かのじょに似て美しい子なのだが、かのじょの子だというだけで、あの子は一番苦しみを味わってきた。

小さなころから、いろいろなことを経験してきて、世間のあまりに愚かな人間模様を見てきた。それは、親に対する恨みの色にも覆われて、彼の心をむしばんだのだ。

だから今、彼は隠れている。自分を守ることにしか、自分を使っていない。わたしたちは、それをことさらに責めはしない。悪いのは、彼のほうではない。世間のほうだからです。

今の時代は、悪いもののほうが、世間になっているのです。わがままをがまんできない馬鹿な人間の方が偉くなっているから、本当によい子が、引きこもりなどで自分を守ることでしか、自分を表現できないのだ。

だが、馬鹿ばかりになった世間は、もう崩れ始めている。自分よりいいというものをことごとくつぶしてきて、馬鹿ばかりが偉い世界を作ってしまったら、とたんに美女が滅びてしまった。そうしたら、馬鹿の世界は一瞬で無意味になってしまったのです。

馬鹿が、あらゆる理屈で防衛しながら、営々とやってきたことは、すべて、美女を手にいれるためだったのだと、そういうことが、もろに明らかになったのです。

いずれ馬鹿は、南国の冬の雪のように、次第に溶けていくだろう。そしてすっかりなくなってしまうだろう。冬でも、南の国の光は暖かい。冬将軍の白い使いが勝てる相手ではない。

美しいあの人が、愛していたあの子が、外に出られる日が、必ず来る。

冬の雨の音は寒い。だがいつか来る春を思わせる音でもあります。







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花のうれひ

2017-02-16 04:20:06 | 短歌






見る者も なき闇の夜を たへて来し 花のうれひは 朝露に散る







*わかりやすい歌ですね。人の目の曇っている闇の夜には、花の美しさはわからない。だが、光るあふれる朝が来ると、だれにも明らかにわかるようになる。そうなると、花々の憂いは、朝露が光の中に散っていくように、消えていくだろう。

もう二度と、あんな思いをしなくてもよい。

女性たちは今まで、馬鹿な男たちによって貶められてきました。どんなにがんばっても、男と同じことができないというだけで、馬鹿なものとみなされ、何も認めてもらえなかった。

女性的な形の美しさだけを見られて、男の性的相手としての価値だけしか認められず、様々にいじられてきた。そういう世界では、女性の真の美しさは夜の薔薇のように、誰にも見えないのだ。

男がまだ馬鹿で、何もわかっていないからです。

女性というものが美しいのは、自分を半分ないものにして、神の心を受け入れ、みんなの幸福のために自分を使えるという、美しい本質を神に頂いているからです。その愛は神の愛に似ている。神は自分を下げて、すべての存在のためにあらゆることをしてくださるからです。

そのような女性の真価を認めないことは、神を侮ることに等しい。まだ小さいうちは目をつぶってもらえるが、よほど大きくなってくると、害が大きくなるので、神も、怒る。

そしてあらゆる男たちに、馬鹿を教えるのです。おまえたちが女を嫌だというのなら、もう二度と女をやらないと。おまえたちが愛さないのなら、おまえたちの欲しい女は二度とやらないと。

そうなって初めて、男たちには、女性たちが何をしてくれていたのかを、理解することができるのです。

あれほど馬鹿にしていたのに、あれがいなくなると、生きる目的があっという間に消えてしまう。すべてをやれて来れたのは、女がいたからなのだと。女こそが、男が生きる目的だったのだと。

あれほどに麗しい、男が生きるにふさわしい目的はなかったと。

男というものは、すべてがだめになってから、ようやく気付く。だが、それを仕方ないと言って自分に許してはなりません。そういうことになったのは、他でもない、自分があまりに愚かすぎたからです。

弱いからと言って馬鹿にしたからこうなった。

この苦すぎる経験が、何をもたらすかを、痛いほど味わって、男たちはようやく女性を認めるようになるでしょう。彼らにも高いことがわかるようになる。男の力だけが尊いものではないと、わかるようになる。そうなればもう、女性たちも、二度とあんな苦しい思いをしなくて済む。

そういう朝が、たぶんもうすぐやってきます。







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若槻の

2017-02-15 04:20:01 | その他






若槻の 血もしたたらむ 石畳     澄






*これは、かのじょが鳥音渡という架空の詩人が書いたという形にして書いた、詩の中の一節です。五七五のリズムになっているので、ここだけを抽出して俳句にしてみました。

「若槻(わかつき)」というのはもちろん、若いケヤキの木のことです。相変わらずちょうどいい写真がないので、これで我慢してください。

けやきという木は落葉樹ですが、紅葉する秋になると、黄色くなるものと、赤くなるものと、二種類ありますね。この句で詠われているケヤキは、赤くなるほうのものでしょう。

秋になれば赤く紅葉したケヤキの葉が石畳の上に散る。それはまるで血が滴っているようだろう。

これを書いていたころ、かのじょは傷だらけでした。満身創痍などというものではない。自分の存在そのものが、大きな傷になっているかのようでした。

血を滴り落しながら、歩いているようなものだったが、麻痺感覚で自分を守って、何とか生きていた。嵐のような、人間の侮辱の嵐の中も、自分の感覚を低空の低空状態にして、何とかしのいでいけば、生きていけるのではないかと、考えていた。

だが、現実はそんなに甘くなかった。馬鹿がやっていることは、当時のかのじょの想像を超えていました。人間の男が、美女を見て何を考え、どんなことをやるかということを、かのじょもある程度は知っていましたが、まさかそこまでのことをやるとは思っていなかったということを、馬鹿な男たちはやっていたのです。

美しい女というものは、ある意味、男を絶対支配するのです。

人生以上のものを賭けて、あらゆることをやってしまう。

だがかのじょは、自分をそれほどの美女だとは思っていなかったのですよ。美しい女性の常として、自分の美しさというものが、本人にはあまりわからないのです。その人の美を見て衝撃を受けるのは、いつもそれを見る他人の方だ。

あなたがたには、あの人が、世界をひっくり返すほどの美女に見えたのです。

だがそれに対してあなたがたがやったことは、神も愛をひっくり返すほど、ひどいことだった。

言わずともわかるでしょう。

ここで、わたしの友達の一人が、この句に対して寄せた歌を紹介しておきましょう。






上弦の 傷を硝子の 石に書き あほうの面を 破りてもみむ






上弦の月の形をした傷を、ガラスの石に書き、それを馬鹿どもの顔にぶつけて、割ってもみよう。

どんな色の血が滴るだろう。







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落葉松

2017-02-14 04:40:58 | 短歌






落葉松の 空を浄むる やはらかき 梢を愛でて 北斗はかしぐ






*落葉松(からまつ)は文字通り落葉する針葉樹のことです。秋ともなると金色に色づいた姿が美しいが、南方のここらへんでは見ることができません。ですから写真もないので、これで我慢してください。

これはかのじょの、初期の作品です。短歌を詠み始めてから、まだ間もないころですね。もう今はない旧ブログに発表されていたものですが、ノートにメモが残っていたので、発表してみました。

北国に住むシリウスと出会って間もないころの歌です。シリウスが写した、落葉松の写真に寄せて歌ったものではないかという記憶があります。

記憶では、葉をすっかりおとした一群の落葉松の木が、夕暮れの空を背景に静かに立っているというような写真があったように思います。それが、かのじょには、落葉松が箒のように空を掃き清めているような感じに見えたのです。

ああ、あの落葉松の梢は、箒になって、空を掃き清めているようだ。そしてわたしは知っている。あなたはそのように、世界を清めてくれる人なのだ。そのあなたの心が美しいから、空に傾いている北斗七星のように、神が顔を傾けて、あなたを見に来るだろう。

そういう心を秘めて詠われた歌ですが、真意は誰にも届かなかったでしょう。当のシリウス本人にも、わからなかったでしょう。

かのじょは、彼に出会ったとたん、彼がそういう人だとわかったのです。あれは、あの人だと、わかったのです。

わたしたちは、この地上で会うことはまれですが、霊的世界にある故郷では、お互いを深く知っています。だから、この世で初めて会っても、なんとなく互いがわかるのです。

シリウスも、のちに、美女の姿をしたかのじょの中にいる、ほんとうのあの人を感じて、わかったはずです。ああ、こいつを知っていると、思ったはずです。

霊魂の邂逅は奇跡だ。なつかしさが強い望郷の念を産む。帰れるところがあるが、今は帰れない。わたしはここでやるべきことをやらねばならないのだ。あなたも、きっとそうなのだろう。

あの頃の世界は苦しすぎた。かのじょもシリウスも傷つきすぎていた。それを何とかしまくった結果、とうとうかのじょは倒れた。

もうこの地上世界では、二度とあなたに会うことができない。








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近き虹

2017-02-13 04:21:04 | その他






かぶるごと 近き虹あり ビルの窓     夢詩香






*かのじょが書店でパート勤めしていたころの話です。

いつだったか、勤めている書店の窓から、大きな虹が見えたのです。その虹は、窓の向こうに見える近くの山よりも近いところに降りていた。透き通っていたが、大きな窓の半分を埋めるほどに大きく見えた。

あまりに大きな虹だったので、職場のみなも驚いていました。

あれは何だったのか。教えてあげましょう。神が、あの人を見に来たのです。それが、現象として現れてきたのです。

天使が普通の女のように、家族を養うためにパート勤めするなど、本当はありえないんですよ。普通は、そういうことになる前に、天使はいなくなってしまうのです。そんなことを天使にさせてしまったら、人間の方が大変なことになるからです。

だがかのじょはそれをした。どんなことをしてでもがんばって、生きていかねばならなかったからです。ほかに選択の余地はなかった。だからかのじょは、天使としての何かを捨てて、普通の女性になり、書店に勤め始めたのです。

それに驚いた神が、かのじょを見にきたのです。

あれはかのじょの決意に等しかった。どんなことをしてでも、人間を助けてあげたいと。その心を見た神は、かのじょに救済の使命を付したのです。もう、あれしかこの世に頼るものはないと。その結果起こるだろうことを知ったうえで、神はあの仕事を、かのじょにやらせたのです。

気付いている方もいるでしょう。書店に勤め始めたころから、かのじょは異様に美しくなり始めた。それまでも美しかったが、あの頃から不思議に何か別のものになっていった。人類を救うために、自分の大事なものを捨てたかのじょの中に、何か別のものが入ってきたからです。

いやなものではない。崇高に美しいものだ。だがそれが入って来ては、もうおしまいだというものが、入ってきたのです。

いつもは遠い空にしか見えないはずの虹が、近くの山とビルの間に降りてきてくれた。神が、見にきてくれた。神でさえ、そうせずにはいられないほど、珍しいものに、あの人はなってしまっていたのです。

そして、かのじょは、重要な使命を果たした後、疲れ果て、虹のようだとあだ名される天使と、人生を交代したのです。







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しらゆきの鶴

2017-02-12 04:21:21 | 短歌






身をそぎて つくりたる飴 甘きぞと 子らに食はせる しらゆきの鶴






*これは試練の天使の作品です。彼らしい作品です。明快で、愉快な口調だ。それそのものを言う表現が、いかにも政治家だという感じです。

自分の身をそぐような苦労をして、飴を作り、甘いぞと言って、子等に食わせているあなたは、白雪のように白い鶴だ。悲しいほど美しい。

だが弱い。時がくれば、雪のように消えていくだろう。

政治家というものは、表現をそれほど衒いはしません。直喩も隠喩もかなり単純で、素朴だと感じるほどだ。剛直だが、言いたいことがわかりやすい。きついところで薬が効いていて、読む者の心にこたえる。

かのじょならば、もっと文学的にやさしく、美しく詠むでしょう。深い隠喩の中に心を閉じ込めて、甘い色や味を入れて、読む者の心に溶けていくようにやさしくする。それはそれは美しく快いが、薬が弱すぎて、それほど効かない。

たとえばこんな風でしょうか。





たまかぎる ほのかの色を 花に請ひ 月のかたへに 甘き飴煮る     夢詩香





うん、なかなかかのじょのようにはいきません。真似をしようとしてみましたが、どうしてもあの甘い感じが出ませんね。あの人はやさしい。透き通るような美しい言葉を、心の水の中に数千の銀の魚のように飼い育てている。とてもかないません。ああ、ちなみに「たまかぎる」は「ほのか」とか「夕(ゆふべ)」にかかる枕詞です。枕詞はよく使います。便利だから活用するとよろしい。

だが、それぞれは、それぞれらしいからこそ美しい。わたしは表題の、彼の明快で痛い口調も好きです。少々乱暴な感じもするが、鼻先にまっすぐに拳を突き出されるような、さわやかなものも感じる。なぜあの人は拳を突き出すのか。もうとっくにその理由は知っている。それはもう長い付き合いですから。

だがその理由というものを、ことさらに言うことはできない。そんなことをすれば、彼の不興を買う。いやなことはしないのが、わたしたちの流儀です。が。

かのじょだけは、平気でそんなことを言うのですよ。なぜ彼が拳を突き出すのか。その理由を、何も考えずにまっすぐに言うのです。あの人はそう言う人。まれにみるお馬鹿さんなのです。たとえばこれも、かのじょの歌です。





たかてらす 日には隠せず 青き鞭 ふりて血を吐く きみのしんざう





ね。わかるでしょう。
こんなことを彼に言えば、怒られるのに決まっているのに、かのじょは平気でまっすぐに言う。

そういう人なのです。







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黄水仙

2017-02-11 04:20:07 | 






いつの間に 我を訪ひ来し 黄水仙     夢詩香






*この家の庭の隅には、毎年一群の黄水仙が咲いてくれていました。植えたわけでもないのに、いつの間にかやってきて、咲いてくれるようになったのです。

かのじょがそれを見つけたときは、とてもつらい時期でした。いろいろなことが重なって、生きるのが苦しくなりすぎたころだった。その頃に、まるで神の贈り物が来たかのように、庭の隅に黄色い水仙が咲いてくれた。

かのじょは心にきれいな水を吸い込むように、喜んだのです。つらい日々を乗り越えていける材料が増えたと、喜んでいたのです。

花というものにも、魂があります。だいたい花は毎年同じところに咲いていて、その周りにいる人間たちに語り掛け、助けています。ただ時には、特別な活動をしている花もいます。

この黄水仙は、かのじょという天使を特別に愛して、かのじょが生まれてくるたびに、近くに来て咲いてくれるのです。かのじょの前世の人生においても、この花はそっと近くに来て咲いてくれていました。そのときの人生では、かのじょは男性で、とても厳しい人生を送っていたので、花にはほとんど気付きませんでしたが、この水仙は心を添わせて、かのじょを助けてくれていたのです。

なぜそんなことをするでしょう。もちろん、愛しているからです。愛しているから、追いかけずにいられないのです。

愛しているものを、追いかけたいと思うとき、それに無理に逆らうのは難しい。かといって、無理に追いかけて、愛するものを苦しめるのもつらい。そんなことに悩むときは、この黄水仙の生き方を参考にしてください。

花のように何気ないものになって、愛する人の世界の隅に、そっと咲くのです。気づいてくれなくてもいい。ただ、愛するためにそばにいたいからいる。それだけでいいと言って、影から愛するもののために、できることをすべてやるのです。

この黄水仙は、相当に昔から、そういう活動をしていたらしい。そして、最後のこの人生になって、かのじょがようやく気付いたのです。いつも自分の人生に、この花と同じ美しい心の気配があったと。それはあなただったのかと。

愛は愛するものを苦しめるものであってはならないから。あまりに美しい愛をささげなければならないときは、隠れていなければなりません。それでないと、愛するものを苦しめてしまう。

あの人がつらく思わないように、恥ずかしがらないように、見えないところから、愛していきなさい。それであの人が幸せになってくれれば、それでいいと思いなさい。馬鹿なことではない。なぜなら、神はそのような愛を必ず見つけてくださるからです。

あの人が、水仙のあの愛に気付いてくれたように。

なお、今年は、あの黄水仙は咲いてくれませんでした。かのじょがいなくなったから、もう去ってしまったらしい。ゆえに写真は、2013年のものです。

さみしいですね。







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2017-02-10 04:34:02 | 短歌






いつはりの 青き実をなす 花を選り ぬすとをゆでる 竈に投げよ







*これは、かのじょが2008年に詠んだこの歌に答える形で詠われたものです。





花の実の 朱を欺きて ことごとく あをきにしたり 阿呆の宴





覚えておられる方もいることでしょう。

朱い花の実を、嘘をついて、ことごとく青いものにしてしまった。それが阿呆の馬鹿騒ぎというものだ。

「阿呆」は「あほう」と読みましょうね。わかっているとは思いますが、一応。語調を調えて読むと、実にきつい歌です。

実際、この時代、馬鹿な人間たちがしたことはこういうことでした。嘘をついている自分を正しくするために、神が創った世界の姿をことごとくゆがめてしまったのです。馬鹿なことをやるほうが正しいのだにしたかった。だから、美女というものはみんな馬鹿なものだにした。朱い実にことごとく青い色を塗っていくように。それでなければ、自分のものにすることができないから。

だがその結果、得られたものなどほとんどなかった。馬鹿は幻の中に描いた自分の空想を食べていただけだった。そしてとうとう美女という美女を滅ぼしてしまった。

愚かなことをした。何も知らなかったからできたことだが、何も知らなかったでは済まされない。だから、誰かが表題のような歌を歌ったのです。

虚偽で作った青い実をつけるという花を、ことごとく選り出し、盗人をゆでる竈の火に投げ込んでしまえ。

馬鹿は、こういうことができるものがいることを知らない。高い存在はみな、女のようにやさしく、自分たちのすべてを許してくれると思っている。

だが、そうはいかない。

借金取りのように、きつい顔をして、馬鹿がしでかしたことの責任を、無理にでも取らしてくれる、痛い存在がいるのです。

地獄の釜の下で、ぼうぼうと火を焚いてくれる、鬼の仕事をしてくれるものが、いるのです。






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月の海

2017-02-09 04:19:42 | 






いかにして 深きを知らむ 月の海     夢詩香






*レオナルド・ダ・ヴィンチは、月には海があると考えていたそうです。確かに、月の表に移る薄い影は、海のように見えないこともない。今考えられている月の地図には、海と名付けられた地形がたくさんありますね。

「静かの海」とか「豊かの海」とか。「幸福の湖」とか「愛の入り江」とかもあるらしい。美しい名です。

海と言ってももちろん水はなく、暗い玄武岩に覆われた広く平らな土地です。月に水があれば月に住めるなどということを考えて、月に水を探している人もいるそうですが、それは無理だからやめたほうがいいですね。事実上、人間は地球以外のところに住むことはできません。科学的にも無理ですが、法則的にも無理です。なぜなら、神がお許しにならないからです。

宇宙開発はすぐにでもやめなければならない愚行だということは、わたしたちは何度でも言います。遠い未来の人類に、多大な迷惑をかけることになるのです。

あなたがたは、神の創造について、ほとんど何も知らない。地球から見た視点で宇宙を見ても、何もわからないのですよ。痛いことをすれば、神の世界にいやなことをしたことになり、それが返ってきた時には、実にすごいことになるのです。焦ってやめたほうがいいのですが、それがなかなかできないのが馬鹿というものだ。

それはともかくとして、表題の句はもちろん、月に擬せられたあの人の深い心を知るにはどうしたらいいだろうという意味が秘されています。月はとても高いところにある。そこにある心の海の深さはどれくらいだろう。

身近にある池の深さすら、測るのは大変だというのに、人の心の深さなど測れるはずがない。天使ならなおさら。

だれが考えていたでしょう。あの人が本気で、人類の救済を考えていたなどと。

あの人の心をとりこにすることなど、月にロケットを飛ばすことよりも難しい。それでも、美しさだけに目がくらんで、そんなことをやろうとするのが馬鹿なのだ。

月は紙でできているのではない。神が崇高な御技でおつくりになったすごいものなのです。それなのに人間は、紙でできていると信じているのではないかと思うほど、馬鹿なことをやるのだ。何も知らない。

何も知らない。







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