昨日初めて聞いた話ですが、岳父の従兄弟の家に食事にでかけたところ、彼がいくつかの日本の歌「さくら」等を中国語ながら歌うことができて、以前近所に日本人が住んでいて教えてもらったそうです。
伊藤さんという方で、もうお亡くなりになっているそうですが、1920年代に16歳で上海に来て、1978年までずっと住んでいたそうです。彼からもらったものとして、何故か日本製の変圧器がありました。80年前のものですので骨董品として売れるかもね等と話しましたけど。。
終戦時には日本軍を含めると150万人程度の日本人が中国に居住していて(満州を含む)、一部の軍人がそれぞれ国民党と共産党に参加して国共戦争に参加していたとか、エンジニアは何年か中国に残ったという話は見聞きしていますが、上海に残られた伊藤さんという方も、エンジニアだったのでしょうか。
文化大革命のときは過酷な日々を送らざるを得なかったでしょうね。もし今でもご健在ならこの間の中国の変化とか色々お話を聞いてみたいところですが、残念なことです。1978年に帰国されたそうですが、その後の中国の発展を見ればきっと驚かれるでしょう。
伊藤さんという方で、もうお亡くなりになっているそうですが、1920年代に16歳で上海に来て、1978年までずっと住んでいたそうです。彼からもらったものとして、何故か日本製の変圧器がありました。80年前のものですので骨董品として売れるかもね等と話しましたけど。。
終戦時には日本軍を含めると150万人程度の日本人が中国に居住していて(満州を含む)、一部の軍人がそれぞれ国民党と共産党に参加して国共戦争に参加していたとか、エンジニアは何年か中国に残ったという話は見聞きしていますが、上海に残られた伊藤さんという方も、エンジニアだったのでしょうか。
文化大革命のときは過酷な日々を送らざるを得なかったでしょうね。もし今でもご健在ならこの間の中国の変化とか色々お話を聞いてみたいところですが、残念なことです。1978年に帰国されたそうですが、その後の中国の発展を見ればきっと驚かれるでしょう。
自分で腕や足を切って、こじきをする。そういう人を何人もトラックに乗せて、朝街中に物の様において行き、夜拾っていく。。
自分の息子と同じくらいの幼児を、電車や街中で物乞いさせ、お金をもらったら親が取っていく。
飲み屋のお姉ちゃんを愛人にしている駐在員がたくさんいますが、彼らが彼女達の実家に行ったときの話しなどは絶句するものがあります。
でも、とりあえず、妻の実家周りの人を紹介しておきますね。