日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

拘束介護を考える

2015年02月28日 10時14分06秒 | 日々雑感
 東京都北区の高齢者用マンション3棟の入居者を「拘束介護」していたと、東京都は17日、介護保険法に基づき改善するように訪問介護事業者に勧告したとの報道があった。マンション3棟は有料老人ホームとして届出していない制度外ホームである上、そこの入居者約150人の多くが要介護度5あるいは4であり、うち約130人が拘束されていたそうだ。
 厚生労働省は身体拘束を原則的に認めていない。①生命や身体が危険にさらされる、②他に手段が無い、③最小限の時間にとどめる、の3要件を満たす場合に認めているが、極めて定性的で、個人や事業所の判断に負うところが大きい。拘束介護は、認知症などの高齢者が点滴等の管を途中で外してしまう等、治療の妨害行動がある場合や、ベットから転げ落ちる等の事故の危険性がある場合に行われる。
 拘束は、ひもや帯などの道具を使用して、手、足や体をベッドや車椅子に縛ったりして行う。また、部屋に閉じ込めて出られないようにしたり、あるいは、向精神薬を飲ませて動けなくすることも身体拘束に含まれるそうだ。大勢の認知症患者がベットに拘束状態で横たわっている様子は、まるで地獄絵図だ。
 ベットから落ちて骨折する事故も頻繁にあるようであり、対処法としては、介護人が常に目配りをして、落ちそうになったなら即座に元に戻してやることが理想であろう。しかし、現状では大都市における介護師の人手不足は社会問題化しており、常時見張ることは出来っこない。実際には、安全優先の名の下に何かしらの拘束が行われるのであろう。北区の高齢者マンションは、特異な例ではなく、どこの高齢者施設でも多かれ少なかれ行われているに違い無い。まもなく始まる介護報酬の引き下げは人手不足に拍車をかけ、拘束介護を促進するに決まっている。
 兎も角、老人介護施設における介護の仕事は重労働である。昔、3K(きつい、汚い、危険)と言えば、塗装や溶接の仕事であったがロボットに置き換えられ、今や3K(きつい、汚い、きりなし)は介護の仕事になった。危険は“きりなし”に置き換わった。その仕事は下の世話から、食事、風呂、話し相手等多岐にわたり、しかも24時間絶えることがない。このうちロボットで代行できるのは極一部であり、人手がどうしても必要である。
 人手不足を外国人で補おうと、外国人技能実習制度もある。しかし、日本介護福祉会は、現在求められている介護ニーズは、身体介護のみでなく、認知症へのケア、予防からターミナルケアなど幅広く、介護には一定の教育と専門性が必要であり、単純労働ではないと反対している。確かに介護の仕事は多岐にわたるためその通りであろうが、下の世話やベットからの落下防止のための見守り等、単純労働の部分もかなりある。介護の一部を外国人労働者に任せる等の工夫が無ければ、地獄が待っている。(犬賀 大好-107)

農協改革について

2015年02月24日 13時55分26秒 | 日々雑感
 2月9日、自民、公明両党と全国農業共同組合中央会(全中)は、全中の地域農協への指導・監査権の廃止を柱とする農協改革で合意した。
 農協は戦後まもなく、当時の深刻な食糧難の中で、食料を統制・管理する目的に作られたが、現在では風俗とパチンコ以外は何でもありと農民の互助会的な色彩が強い。戦後70年経ち、時代遅れの組織として長年その改革が叫ばれてきたが、強固な組織として、特に選挙に際しては絶大な組織票にものを言わせ、改革を拒んできた。
 しかし、TPP等のグローバル化の波が農業にも押し寄せ、安倍首相は農協改革を決断したわけだ。この改革により、地域農協が全中の指導を離れ独自の経営が出来るようになれば、その地域の特徴を生かした経営が可能となり、国際的にも競争力がつくとの思惑である。理念はすばらしいが、競争力を身に付けるためには、相当な努力が必要であり、しかも努力の結果が報われるとは限らない。
 平成26年の統計によれば、全国の約140万戸の農家のうち専業農家は40.6万戸であり、兼業農家は100.6万個である。約70%を占める兼業農家のうちほとんどが農業以外からの収入が主である。これ等の数値から、普段は近くの工場等で働きながら、全中の指導に従って土日等に農業を行っておれば、そこそこの収入が確保でき、安定した生活が出来るとの思惑が垣間見える。兼業農家の人にとっては、農業は片手間仕事であり、独自の経営が可能になっても戸惑うだけであろう。この安定した生活を自由な経営と引き換えたい人がどのくらい居るであろうか。
 地域農協は全中の監査を受ける義務がなくなり、JA全中から独立した監査法人か、民間の監査法人を選択できるようになったと言っても、これまでの安定した経営を希望する地域農協はJA系の監査法人を選ぶに決まっている。急激な変化を好まないのは農業従事者ばかりでなく日本人全般であろうし、他人と異なることをやるのは、“村八分”として排除してきた伝統がある。
 一方、専業農家の多くは、これまでも独自の工夫により、自らの道を切り開いてきたに違いない。これからは農協の柵がなくなり、思う存分活躍出来るかも知れない。いや、既に活躍しているかも知れない。日本の農業は、グローバル化や後継者不足等、前途多難であるが、手をこまねいておれば、一層苦しくなるだけである。
 今年1月に行われた佐賀県の知事選挙では、政府が推薦した候補が、地元農協の押す候補に敗れた。今年4月には統一地方選挙もあり、兼業農家の人々のご機嫌取りに、改革の骨抜きはいろいろあろうが、これまで何も手を付けられなかった点を一歩踏み出した安倍首相のリーダシップに期待したい。(犬賀 大好-106)

経済成長を期待できるか

2015年02月22日 14時33分35秒 | 日々雑感
 1月末の朝日新聞オピニオン欄に“経済成長を問い直す”の特集があった。テーマは、“この20年経済成長を追いかけても手に入らなかったが、そもそも経済成長を手に入れれば幸せになれるのか”のまことに当を得た設問であり、識者の意見が楽しみであったが、そこに満足できる回答はなかった。
 バブル経済が崩壊したのは、1991-1993年とほぼ20年前であるので、失われた20年とはバブル崩壊後の日本を指すのに間違いない。その間経済成長率は一時期5%に近い年もあったが、押しなべて±2%であった。バブル景気は1987-1990年頃と言われているが、確かに経済成長率は5%を超える年が何年か続き、日本国中好景気に浮かれた。東京を売れば米国が買えると言われた位、異常な状態であった。失われた20年と嘆く人は、異常なバブル景気の再来を夢見ているのであろうか。あるいは、戦後の高度経済期(1954-1973)の再現を夢見るのであろうか。
 失われた20年の間には6年間の長期に亘るいざなみ景気(2002.1-2008.2)もあった。技術革新に基づくデジタルテレビの普及や携帯電話の普及等もあったが、GDPの伸びは2%程度であった。いざなみ景気は、ゼロ金利政策に代表される金融緩和政策が主因であるそうだ。黒田日銀総裁は、これを見習い異次元の金融緩和政策により景気浮上を図ろうとしているのであろう。また、デジタル機器の普及は本来の経済成長に直結するはずであったが、たいした効果は無かったようである。
 今後、4Kテレビや3Dプリンタ等の普及や医療革命もかなり進むであろうが、携帯端末ほど国民一人ひとりに普及するものでないので、GDPがそれほど影響を受けるとは思われない。異次元の金融緩和政策も政府と日銀のコンビにより徹底されている。株価の高騰を招いていることは確からしいが、国民全体が幸せになったとの声は聞かれない。世論調査での政府の取り上げるべき課題の第1位は相変わらず経済政策であり、国民の不満は大きい。
 デジタル革命ほどの技術革新でも不十分で、未曾有の金融緩和でも効果ないとなれば、経済成長を何に期待できようか。しかも、購買に寄与する若者人口が減り続ける時代に、どうして経済成長を期待できるであろうか。
 日本大教授の水野和夫氏は、これまでのような技術革新に基づく経済成長は期待できず、「電子・金融空間」の中にしか望めないとの指摘は、まさにその通りと思うが、ではどうするかの処方箋が示されないのが不満である。この他の識者と言われている人は、相変わらず経済成長を夢見て、これ無くして幸せは無いとの論調である。真にがっかりである。(犬賀 大好-105)

報道の義務と自由

2015年02月19日 10時22分49秒 | 日々雑感
 フリーカメラマンの杉本祐一氏が外務省から旅券の返納を求められ、シリア行きが出来なくなったとの報道が2月10日にあった。「旅券名義人の生命、身体又は財産の保護」を理由に、旅券の返納を求められたとのことであるが、つい先日イスラム国による後藤健二さんの殺害があったばかりであり、外務省の対応は当然と思われる。しかし、メディア関係は、報道の自由、知る権利が侵されたと猛反発である。
 紛争地帯で取材することはジャーナリストの役目であり、写真やビデオ、また直接の体験談で、いかにひどい状態かを世界に伝えることは人間として当然の義務であるとの主張はもっともである。確かに、後藤さんのお蔭で、イスラム国の実態が明らかになり、後藤さんとしては本望を果たせたかも知れない。しかし、それは後藤さん個人だけではなく、日本政府やヨルダン政府、後藤さんのご家族そしてマスコミ等、大勢の人々の協力があったことを忘れてはならない。杉本さんは、後藤さんと同様な活躍を期待したのかも知れないが、例え同様な事件に巻き込まれても、今度はその反省の無さに非難が集中することだろう。
 後藤さん然りであるが、自分は安全と確信し紛争地に赴くのであろうが、結果として大勢の人を右往左往させ、国に多大な税金を使わせ、挙句の果てに殺されてしまった。紛争地帯に安全な場所は無いのであろうが、敢えて行くのであれば自己責任を全うしてもらいたいものだ。後藤さんも自分としては自己責任を果たすつもりであったであろうが、問題が起これば周囲は黙っておれない。自己責任は自分だけではなく、周囲の責任まで負わなくてはならない。
 先に、フランスにおける連続テロの原因に関し、報道の自由にも相手を冒涜しない等の限界があるとの趣旨の意見を書いたが、ここにおいても、自由の限界がある。自由を行使するためには、関係者を説得しなくてはならない。
 安全対策に万全は無いのであろうが、ジャーナリストだと名乗ることが安全を守る手段の一つであるとの話を聞き、そこにジャーナリストの驕りを感ずる。紛争地帯の支配者がジャーナリストの身の安全を保障するのは、自分らに有利となる宣伝のためである。ジャーナリストは、常に事実を報道する正義の味方のつもりであろうが、都合の悪い報道をさせるわけは無い。敢えて不都合な真実を報道すれば命の危険にさらされることは、イスラム国に限らないであろう。戦争とは勝つためにやるものであるから、自分に不利となる人は、殺すか人質として利用することを当然考えるであろう。イスラム国だけではなく、悲惨な所は世界中いたるところに在る。杉本さんは、出来るだけ安全な場所での活躍をお願いしたい。(犬賀 大好-104)

大学入試改革を考える

2015年02月15日 09時48分51秒 | 日々雑感
 中央教育審議会は、昨年末、知識量を問う従来のテストから、思考や判断など知識の活用を問う入試に改革するように答申した。具体的には従来のセンター試験を廃止し、高校基礎学力テストや大学入学希望者学力評価的なテストの複数回実施等を提案している。一発勝負の知識偏重試験ではなく複数回で評価するとの趣旨は真に結構であるが、現実を踏まえているか疑問である。そもそもセンター試験が私立大等にまでなぜ広がったかを考えると、文科省の圧力があったかも知れないが、試験する側の負担を軽減するのに大いに役立ったからであろう。また、人間による採点ミスが指摘され、機械で採点できるマクシート方式が再登場するとの話も聞かれる。マクシート方式は○か×が明確な問題に有効であり、知識の活用を問うようなアナログ問題に不向きである。
 これまでも、大学入試における知識一辺倒の弊害が指摘され、人間性の重視等色々な入試改革が提案されてきた。そもそも人間性の採点なんか出来るはずがないし、試験官の主観に左右されるところが大であり、公平性となるとはなはだ疑問である。従って1,2点の差で合否を決める現行の入試制度には不向きである。もし本気で実施しようとなれば、公平性は二の次にして、試験官の裁量に任せる試験制度にしなければならないであろう。
 そもそも、大学では、専門知識を含め自ら問題を見つけ、自分で解決する能力を身につけるところである。そのため、大学できちんと勉強できる学力があるかないかを問うのが入試であるはずである。すなわち、大学においては自主性、あるいはやる気が最重要であり、学力はその次である。センター試験で問われる「大量に覚え、短時間でうまく解く」能力は、自主性とは直接関係が無いところが問題である。
 中国や韓国における科挙の制度は全国から記憶力のすぐれた頭脳を集めるのには大いに役立ったが、余りに前例重視の記憶力偏重であったため、特に19世紀後半において世界の流れに取り残されてしまったとの指摘がある。毎年行われる韓国の大学入試試験の大騒ぎは日本でも報道されるが、試験内容は改善されたのであろうか。他国ながら気になる。
 兎も角、人間性を重視した入試改革は“言うが易く行うは難たし”である。試験方法の変更だけではなく、現行の大学制度を抜本的に変えることまで考えなくてはならない。例えば、大学入学希望者は簡単な学力試験で多人数入学させるが、卒業するためには厳しい試験を課す等である。少子の時代だからこそ可能な改革であろうが、恐らく既存の勢力は猛反対するであろう。大学による入学希望者の偏りはどうする?、途中で落第した学生の受け皿は?等である。確かに様々な課題が思い浮かぶが、10年以上かけて徐々に変化させていく経過措置が必要かもしれない。
 中央教育審議会は2~3年先ではなく、20年先を考えた方針を出してもらいたいものである。(犬賀 大好-103)