日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

コンクリートの寿命を考える

2015年02月11日 11時11分11秒 | 日々雑感
 コンクリートは石と同様に半永久的なものだとつい最近まで信じこんでいた。東京に林立するビルもヨ-ロッパの石造りの建物と同様に半永久的とばかり思い込んでいた。しかし、2011年の東日本大震災の際、難攻不落と思われていた防波堤が無残にも打ち砕かれたのは津波の大きさの影響もあろうが、コンクリートの劣化が主原因と聞かされ、驚いたのが記憶に新しい。2012年には笹子トンネルのコンクリート壁の落下事件も施工ミスとコンクリートの劣化が関係していると聞かされ、追い討ちをかけられた。
 コンクリートの寿命は、工事現場で採用される工法と大いに関係するそうだ。戦前の施工現場では、固い生コンクリートを手動のカートで運ぶことが一般的であり経年劣化も少なかった。高度成長期以降の大量・急速施工の時代には、工場でコンクリートを練り上げ、コンクリートミキサー車で現場まで運び、必要な高さまでポンプで送るというやり方が一般化した。生コンクリートを固まらないように練りながら運搬するコンクリートミキサー車は日本の誇る発明ともてはやされた。しかしポンプで圧送するためには、コンクリートに水を多く含ませ、軟らかくしなければならず、こうした製法で作られたコンクリートの寿命は、比較的好条件のもとでも100年程度、海岸部等の悪条件下では50年程度だそうだ。
 また、鉄筋を配置したコンクリートの登場により、それまでにない形状の建築物を建設することが可能になったが、その一方で、内部の鉄筋の劣化という問題も抱えることになった。これによりコンクリートの寿命は最悪数十年に短くなってしまったそうだ。そう言えば、東京都庁は建築後25年しか経っていないが、コンクリートのひび割れ等で雨漏りがひどく、修繕の必要があるのだそうで、費用の捻出に舛添都知事も頭を抱えていることだろう。
 高度経済成長期から40~60年経過し、高速道路等の劣化、特に海岸淵を通る道路の橋桁部分の劣化が激しく、2020年の東京オリンピックまでに何とかしなければと大騒ぎのようである。まさに高度成長期のつけが一気に出てきている。
 コンクリートの劣化の原因追及により、工法等の改善はどんどん進むであろう。東日本大震災並みの大津波は、500~1000年に一度と言われている。今進めている三陸海岸の防波堤は500年後にも耐える構造や工法となっているのであろうか。(犬賀 大好-102)

生命誕生の謎

2015年02月11日 11時07分45秒 | 日々雑感
 生物の定義は自己複製機能を有することである。すなわち自分と同じ個体を新たに生み出す能力を有するのが生物であるとのことである。生物である限り寿命があるため、永久的に将来に命を伝えるために生まれ変われる能力が無くてはならない。しかし、最初の個体がどうやって誕生したかは現代の謎である。
 地球上の全ての生物の共通の祖先があり(原始生命体・共通祖先)、その子孫達が増殖し複製するにつれ遺伝子に様々な変異が生じることで進化が起きたと信じられている。その進化の過程において人間のような知性ある生命体が誕生したことはほぼ確実であろうが、原始生命体の誕生に関しては、ダーウィンも何も言及していなし、定説も無い。
 地球上には、ウイルスやウイロイドのような生物か無生物か判断困難な不思議な物も存在する。ウイルスは遺伝子を有し、他の生物の細胞を利用して自己複製すなわち増殖できるが、自分のみでは増殖できない。ウイロイドは最小のウイルスより更に小さい病原体であり、特定の植物に感染して増殖するのだそうだ。従って、ウイルスやウイロイドの誕生以前に既に何かしらの生物が存在したと考えたくなるが、遺伝子が生物より単純であることから、これらが進化して生物になったと考える方が自然な気がする。
 また、1988年にドイツ人、ギュンター・ヴェヒターショイザーは、アミノ酸、核酸、脂質などに黄鉄鉱が触媒として働き、そこにある種の化学反応が生じ、原始生命体に進化したとの説を唱えた。しかし、あくまで仮説であり、実証はされていないようだ。いずれにせよ、生命の誕生は現代でも謎であることは間違いない。
 欧州宇宙機構(ESA)の探査機ロゼッタは、2004年に打ち上げられ、昨年夏にチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に到着した。11月には小型着陸機「フィエラ」が彗星表面に着陸したが、太陽電池による発電がうまく働かず、内蔵電池で70時間活動した後、休眠状態に入ったとのことだ。彗星や小惑星は太陽系が生まれた約46億年前の物質の情報を保持している可能性が高いそうで、生命の起源を探ることが大きな目的のようである。我が“はやぶさ2”も小惑星を目指し昨年旅立っている。(犬賀 大好-101)

宗教と自由

2015年02月07日 10時01分31秒 | 日々雑感
 イスラム教祖の風刺画をきっかけとしたフランスの連続テロの原因に関し、様々な意見がある。フランスの作家・哲学者のベルナールアンリ・レビ氏の意見である、「政教分離の下で、宗教を批判することは絶対の権利である」との主張は、いろいろ考えさせられる。
 そもそもヨーロッパ、特にフランスでは神から離れることで自由を得たとのことだ。ヨーロッパの歴史はキリスト教の歴史でもあり、長年にわたり宗教が支配し、宗派間の争いが絶え間なかったと学校で教えられた。18世紀末のフランス革命により、ようやく神から開放され「自由、平等、博愛」の権利を獲得したとのことである。そこにおいては、神を批判することや冒涜することも絶対的な権利であるとの主張も一理あるかなと理解できたような気になる。
 一方イスラムでは神と共にあることで自由になれるのだそうだ。イスラム教圏の国々は厳しい自然環境の下で肉体的な苦痛を神と共にあると意識することで精神的に救われるのであろうと、これも分かったような気になる。
 そもそも、自由とは何か。分かったつもりになっているが、上記のような議論になってくると、本当の自由が分からなくなってくる。我が日本では、憲法上政教分離の立場であるためか、統一教会をはじめとする新興宗教や創価学会に対する批判を公然と行っても法律上の規制は無いし、社会的にも許されている。そこまではフランスと同じであるが、冒涜することまでは社会的には許されない風潮がある。自由にも限界があることを自然に身に付けているのだと言えば格好よいが、本当の自由を知らないだけかも知れない。昔から、武士の情け、惻隠の情、謙譲の美徳等、相手を追い詰めないことを良しとする文化があり、これが冒涜を良しとしないことに繋がっているのかも知れない。
 フランスでは、人種差別や殺人の呼びかけ、反ユダヤ、名誉を傷つける表現は法律が禁じているのだそうだが、法律で禁止していること自体が不思議な気がする。フランスは、国民の7%がイスラム教徒であるような多民族国家であり、道徳的な価値判断を個人に任せるとまとめ切らないと言うことかも知れない。(犬賀 大好-100)

時間外労働を考える

2015年02月07日 09時38分50秒 | 日々雑感
 1月16日、年収1075万以上で高い職業能力を持つ人を対象に、労働時間と賃金を切り離し、「残業代ゼロ」とする新しい制度を盛り込んだ報告書の骨子案を厚生労働省はまとめた。国税庁の2013年の統計では、1000万円を超える給与所得者は全体の3.9%に当たるそうだから、残業代ゼロ層はまだ一部のようだ。この制度は、経営者側には経費削減となるため大歓迎であろう。残業代がなくなれば、経費を増やさずに仕事量をどんどん増すことが可能になる。一方労働者側にも手当てがなくなれば、時間外労働を少なくしようと効率よく仕事をするようになる利点があるとの説明である。
 そもそも、日本では労働時間の概念が曖昧である。一応、上司から命じられた仕事をしている時間が労働時間となっているであろうが、新入社員やアルバイトはともかく、一日単位で仕事を命ぜられることは無い。報酬額が高い人は一年単位ともなろう。その間、時間の使い方は個人に任せられる。また、営業職であれば自主的な顧客との飲酒も仕事すなわち労働時間であろうし、研究職であれば横になって考えることも仕事であろう。
 また、私の平社員時代には時間外労働は上限10時間で、後はサービス残業であった。労働時間の曖昧さはあったが、時間外労働代が十分支払われて来なかったとの現実があるのではないか。この状態は、昨今のデフレの時代、更にひどくなっているかもしれない。
 報酬は本来その人のなした仕事の成果に対して支払われるべきもので、すなわち成果主義で行われるべきであろう。20年ばかり前、成果主義が流行ったが会社内の共助の風潮が損なわれる弊害が生じたため、見直されているようである。やはり、“和をもって尊しとなす”日本では成果主義は無理かもしれない。
 年収1000万円を超える職業とはかなり特殊な才能を有する職業と思われ、そこに従事する人は自らの才覚で自由に仕事が出来るであろう。その意味から、時間外労働を少なくしようと効率よく仕事をする人も少なからず居るであろう。 この層にこそ成果主義を導入すべきかも知れない。しかし、年収額の上限がどんどん引き下げられる傾向にあるようであり、そうなれば仕事量が増えても不満を口に出せない人々が増えてくると懸念される。1000万円を超える人の残業代をゼロにするのであれば、少なくとも、これ以外の人に対しては残業代を上限無く払う約束が無くてはならない。(犬賀 大好-99)

生命の存在の可能性を求めて

2015年02月03日 10時30分13秒 | 日々雑感
 水が液体の状態で存在している可能性がある惑星を、太陽系から500光年離れたところで見つけたと、米航空宇宙局(NASA)がほぼ1年前の米科学誌サイエンスに発表した。この惑星は、太陽の半分程度の大きさの恒星の周囲を130日周期で回り、この恒星の温度と恒星からの距離を考えると、惑星の表面を水が覆っていてもおかしくないという。水は生命の存在に欠かせないと考えられているので、何らかの生命体がいるかも知れないとの期待が膨らむ。
 地球誕生は約46億年前であり、生命の誕生は約38億年前あたりらしい。34~35億年前には、ストロマトライトと称する微生物が地球上に酸素を誕生させ、その後酸素を有効に利用する生物が爆発的に増えていったと考えられている。原始生命体から人間と言う知性のある生命体が進化するのに凡そ40億年弱要したわけだ。しかし、地球の誕生を1年365日に置き換えると、人間が猿から進化し、生態系の頂点に君臨しだしたのは、暮も押し迫った12月31日午後11時頃からであり、地球の歴史から見れば極々最近の出来事である。
 NASAが発見した惑星が誕生以来どの程度経ているのか不明であるが、38億年以上経過しておれば、人間に似た生命体が存在しているかも知れない。その生命体は猿以前の知能かも知れないし、人間よりはるかに進化しているかも知れない。あるいは、進化し過ぎて滅亡しているかも知れない。知性が同程度となると宝くじ以上の偶然を期待するしかなさそうである。
 地球から500光年の距離は宇宙的には極めて近いが、宇宙船の速度が30Km/sec(はやぶさ2の平均軌道速度)として、約500万年かかる計算となる。従って現在の技術では訪問し、お土産を持ち帰るなぞとはもっての他である。また、人間と同程度の知性の生命体が存在し、電波で交信できたとしても、発信してから受信するまでに1000年では問題外である。
 テレパシーは、その通信速度が無限大との説もある。光速を超えるものが存在すること自体が、極めて怪しいが、テレパシー等の超常現象を真剣に研究している科学者もいる。そのような科学者の大活躍によりテレパシー通信が実用化される時代が来るかもしれない。その時には、500光年離れた知性体と交信できるようになり、人間の行く末を知ることが出来るかも知れない。夢は果てしなく広がる。(犬賀 大好-98)