日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

動物虐待を考える

2014年11月25日 19時19分26秒 | 日々雑感
 最近、犬の大量放棄が話題になった。栃木県内の河原と山で小型犬計七十匹以上の死骸が連続して見つかり、全国で320頭以上になるとのことである。繁殖で使えなくなった用済みの犬を捨てたのではないかと思われる。ペット犬は人間に頼ってしか生きられない。犬にとって人間は神様である。その神様が、自分の利益のため適当に利用し、用済みとなれば塵芥同様に安易に破棄するとは、神様にあるまじき行為である。
 キリスト教においては、人間と犬は明確に区別されると言う。犬の品種改良が積極的に行われ、意に沿わない品種は随意に破棄されるが、認められた犬は大切に飼育しないと動物虐待で訴えられるとのことである。仏教的には生きとし生けるものは分け隔てなく大切に扱わなくてはならない。仏教徒としては、キリスト教のこの二面性が理解できない。
また、日本における鯨、イルカの捕獲がキリスト教圏の国々からよく非難される。豚や牛とどう違うのか理解に苦しむところがあるが、要は心のつながりの問題ではなかろうか。知能の高いイルカ等の動物は人によく懐くようである。そこに人間との心のつながりを見出して、殺傷まかりならんとなるのであろうが、それならば食用の牛等に対してはどうかと反論したくなる。牛は人間の食用として役に立って初めて生まれてきた価値が有ると、都合の良い理屈をつけて納得する人もいるが、まさに人間本位の勝手な解釈である。牛も人間に危害を加える訳でもなく、子供の頃より飼育すれば、お互いに感情を理解し合える仲となるはずでる。豚をペットとして飼う人もいるようであるが、生育した暁には食用とする人はまずいないであろう。
 人間は動物の頂点に君臨し、生殺与奪権を行使する。しかし、人間は神様のように権利を行使するが、義務を果たさない。しかも人間は、人間以外の動物ばかりでなく、人間そのものにも差別や虐待を繰り返す。民族や宗教に対する虐待のみならず、自分の生んだ赤ちゃんに対する虐待もしばしば報道される。すべての生き物を分け隔てなく大切にしなくてはならない義務があるはずだが。(犬賀 大好-78)

違憲状態解散

2014年11月21日 15時40分55秒 | 日々雑感
 11月17日、安倍首相が衆議院の解散を宣言した。理由は、1.5年延期される消費税10%引き上げに景気付帯条項を付けないことに国民の審判を仰ぐためとのことである。来年10月に予定されていた消費税10%化には、その時の経済状況を鑑みて引き伸ばすことが出来るとの付帯条項があったので、延ばすこと自体は何も問題ない。しかし、今回は付帯条項を付けないことが重要であるからと言う。こんなことに選挙費用700億円を使用するとはもっての他である。
 その後、安倍首相の口調はアベノミクスの是非を選挙で問うに変わったが、大義名分に欠けることは相変わらずである。マスコミにも解散に関しては様々な意見がある。安倍政権の進める特定秘密保護法、原発再開そして集団的自衛権等には民意を2分する意見があるが、これらにはあまり触れず、経済政策のみを前面に押し出すのはおかしいとの指摘はその通りと思う。しかし、前回の選挙でも指摘された「一票の格差」問題に余り触れられないことが不満である。
 2012年の衆院選挙について、最高裁は昨年11月、「違憲」の一歩手前となる「違憲状態」と判断し、国会に抜本的な改革を求めた。しかし、国会は5減0増を決めたが、抜本的改革は何も進んでいない。伊吹衆院議長は「次の選挙が今の制度で行われるのがいいか、悪いか司法判断を待たねばならない」と記者会見で述べたらしいが、他人事の無責任な発言である。どうせ最高裁は政府の意を汲んで違憲であるとは判断しないであろうとの思惑が透けて見える。最高裁もだらしない。かって “高度な政治的判断をしない”と砂川裁判で言ったが、三権分立の大原則を自ら放棄してしまった前歴がある。
 野田前首相との党首討論において、安倍首相が定数削減等、身を切る改革を「約束」すると大見得を切った。5減0増で身を切る改革は終了したとばかりに総選挙をするとは、今回付帯条項を付けないといくら言ったところで信用できない。
 今回の選挙を、いきなり解散、消費税解散、財務省惨敗解散とか、いろいろ呼ばれているが、私は“違憲状態解散”と呼びたい。(犬賀 大好―77)

ロボットの知能化

2014年11月17日 10時57分03秒 | 日々雑感
 トレイ・カーツワイル氏(グーグルのエンジニアリングディレクター)は、人口知能の開発を進め、2045年までに人間の頭脳を追い越すコンピュター実現を目指すそうだ。ビノット・コーラス氏(サン・マイクロシステムの共同設立者)は、コンピュターが将来的に医師の8割にとって代わると予測している。また、セルゲイ・ブリン氏とラリー・ペイジ氏(グーグル創始者)は、コンピュターが人間の要求を簡単に実現してくれるため、家族との時間や自分の関心を追及する時間に振り向けられると楽観的である。以上のようにシリコンバレーのIT企業家にとっては未来がばら色であるようだ。
 人間の知能とは何かの定義を明確にしないと拙いが、まず創造性の面から考えてみる。ジャロン・ラニアー氏(「未来は誰のものか」の著者)は、「現状脳の働きを理解できていないのだから、自ら思考するロボットを作り出すことも出来ない」と言っているが、その通りであろう。全ての人間に創造力があるわけではない。天才的人間の創造力がどうやって生まれるのか。まずこの疑問が解決されない限り、ロボットに創造力は期待できない。逆に創造力を有するロボットが出来た場合、空恐ろしくなる。地球上に害を撒き散らす人間の存在を許すであろうか。
 ロボットに創造力を期待できないし、また持たせない方が良さそうであるが、しかし、知識の記憶となるとビノット・コーラス氏の言う通りであろう。病気に関する知識をほとんど持たない患者が自分の病気を調べるためにコンピュータを利用することは既に行われ始めている。専門家の知識を溜め込むことはコンピュータは得意である。
国立情報学研究所の人工頭脳プロジェクト『ロボットは東大に入れるか』は、東大入試を題材に人口知能の研究をしており、近い将来人工知能が東大入試を突破するだろうと予想している。また、裁判官や弁護士は六法全書やこれまでの判例を頭の中に叩き込む。司法試験の難しさはその量の多さにあるが、この分野においてもコンピュータが取って代わることは容易に想像できる。
 コンピュータ技術の進歩は目覚しく、社会的に及ぼす影響も著しい。既に一般事務職の仕事もどのくらい奪われたであろうか。そのうち、医者も8割方不要になり、裁判官や弁護士も半減しそうである。この場合、家族との時間や自分の関心を追及する時間が増えると喜ぶ人間はどの位いるであろうか。ほんのひと握りの人間であろう。残りの人間はコンピュータにこき使われるに違いない。
 人間の知的追求欲は果てしなく、次から次へと新たな技術を開発していくが、その社会的な影響はますます大きくなる。研究者にはその道に邁進するだけではなく、社会にどのような影響をもたらすかを常に考えながら研究に従事して貰いたいものだ。(犬賀 大好―76)

登山のリスク

2014年11月14日 10時59分27秒 | 日記
  御嶽山の噴火は、57名の死者と6人の行方不明者を出す未曾有の大惨事となった。これに対し、もっと観測装置を充実させるべきとか、避難設備を完備すべきとの意見が聞かれる。人命尊重の立場からはその通りであろうが、安直な意見であろう。そこには人間は何のために生きるのかの問題も含まれるからである。
  エベレストに挑みエベレストで死んだジョージ・マロリーの「なぜ山に登るのか」の質問に対し、「そこに山があるからだ」の返事は有名である。登山には、夏山であっても天候急変や体調変化などリスクが付きまとう。エベレストともなれば、そこに薄い大気、雪崩等の何倍ものリスクが伴う。リスクに直面しそれを克服してこそ、生きている実感も得られる。リスクの無い山登りでは、達成感は少なく、生の実感は得られない。
 安全のためリスクをすべて排除しようとするのは社会的なコストが余りにも高く、馬鹿げている。また、問題が生ずると社会的な迷惑が大きいからと、少しでも危険なことはやらない方がいいと自己規制するようなれば、社会全体が萎縮してしまいかねない。規制で得られるメリットよりデメリットの方がはるかに大きいと、探検家の角幡唯介氏も言っているが、まさにその通りである。
  最近安全が余りに前面に出すぎている感がする。小学校や中学校の運動会で、組体操や棒倒しのような危険を伴う運動を避ける傾向があるそうだ。まさに社会全体が萎縮しつつあるのだ。大人たちが「最近の子供たちは海外へ出ていこうとする覇気がないよね!」と嘆くのは、自分たちの教育方針が着実に結びつつあることに気がついていないからだ。
日本は自然豊かな国である。自然を楽しむと共に、自然災害に備える感覚を常日頃養うことが必要である。(犬賀 大好―75)