日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

自動車の自動運転を考える

2015年11月28日 10時21分16秒 | 日々雑感
 各自動車メーカは自動運転車の開発を急いでいるそうだ。背景に、既にIT( Information Technology )企業の米グーグルやアップル社が完全自動運転の開発に着手しているからである。自動車はハード的には完成の域に到達しており、改良の余地は少ないが、ソフト的には運転の自動化等で技術革新の余地が大きい。近い将来に自動車産業を支えるのは、この技術革新を為し得た企業であろう。

 平成25 年に閣議決定された「世界最先端IT 国家創造宣言」では、「2018 年を目途に交通事故死者数を2500 人以下とし、2020 年までに世界で最も安全な道路交通社会を実現する」を掲げている。平成25年中の交通事故死者数は4,373人であるので大きな挑戦であり、国としてもIT技術を車に適用することの重大性を認識しているのだ。

 事故死の低減のためには、車自身のみならず、道路の整備等も当然重要である。このために、「車の自律系システムと車と車、道路と車との情報交換等を組み合わせ、2020 年代中には自動走行ステムの試用を開始する」としている。交通事故の9割は、不注意や居眠りなどの人為的なミスだそうだ。この点、車に各種のセンサーを設置すると共に、道路にも各種のセンサーを設置し、センサーで得られた情報を総合し、車の安全な走行および周囲の人々の安全を実現するとの構想だ。金はかかりそうだが、IT技術の格好な適用分野である。

 自動車企業にとって最大の関心事は車の自動運転であろう。一口に自動運転と言っても、その程度には大きな開きがある。一番初歩の自動運転はレベル1と称し、加速・操舵・制動のいずれかが自動化された状態であるとしている。障害物を検知して急ブレーキを作動させる車は既に商用化されているので、レベル1の一部は既に達せられている。

 一番高度な自動運転はレベル4であり、運転者が行き先を入力すれば、後は全く運転に関わらなくても目的地まで運んでくれるとの定義である。これは究極の完全自動走行システムであり、この実用化にはかなりの年数を要するであろう。

 最近TVで、高速道路において自動追い越しが可能であることを放映していた。技術の進歩を伝えるための放映であろうが、条件が整えばそう難しいことではないだろう。実際には、追い越される車は、追い越されまいと加速等の妨害行為にでるかも知れない。現実的には、このようなあらゆる条件に対応しなければならず、実用化までにはまだまだ課題が多い。

 しかし、走行条件が限定されれば、無人運転の実用化も早まるだろう。一番の問題は、既成の交通システムとの整合であろう。自動運転専用レーンを設ければ手っ取り早いが簡単な話ではない。特に交通量の多い都会においてはハードルが高い。

 この点、過疎地における無人バスの運行等に適しているかも知れない。バスは決まった経路で、決まった時間に走る。過疎地であれば元々交通量も多くなく、しかも決まった時間にバスが利用できるとなれば、ある時間帯は無人運転バス専用道路とすることも可能であろうからである。

 国の研究プロジェクトでも、完全自動運転の実用化は20年代後半と見込でいる。技術的な課題はいずれ解決されるだろう。問題はそれ以外にある。先述の既存の交通システムとの整合、法規の整備・改正、事故が起きた場合の責任の所在等がすぐ頭に浮かぶ。(犬賀 大好-185)

日本の独自外交に期待する

2015年11月25日 09時29分55秒 | 日々雑感
 安保関連法案の成立による集団的自衛権の行使容認は、米国への気兼ねと大きく関係している。日本を中国等のごり押しから守ってもらうためには、米軍に頼るしかなく、そのために自衛隊は米軍に少しでも協力をしなくてはならないと。

 過去を振り返ると、日本が安全保障の分野で、米国を離れて独自に判断できたとは到底思えない。この分野では今もって米軍の占領下にある。例えば、核兵器の日本への持込について、時の首相は「非核3原則」に基づき、日本へは持ち込めないと断言していたが、黙認する密約があったことは公然の秘密だ。

 原子力潜水艦が横須賀に配備されたとき、わざわざ核兵器をガァムの基地に置いて来るとは誰も信じないであろうが、政府の公式発表はあくまで核兵器を積んでいないである。

また、イラク戦争において、イラク攻撃の根拠とされた大量破壊兵器が存在しないことが明らかになった後でも、英国のように事後検証を行っていない。英国のブレア前首相が“あれは誤りであった”と表明した(10月26日報道)のに、日本は米国に気兼ねしてだんまりを決め込んでいる。

 今年8月24日、相模原市の米軍補給廠から火の手が上がった。市消防は消火のため駆けつけたが、約6時間何もせず待機していたのだ。米軍の指示で、「保管物が判明するまで待て」に従わざるを得なかった。これは日米安保に基づく日米地位協定による気兼ねである。

 また、日本は約2000億円を思いやり予算として米軍基地のために毎年使っている。思いやり予算(在日米軍駐留経費の日本側負担)は、1978年米軍の財政赤字を背景に始まった。米軍基地で働く従業員の労務費、住宅などの提供施設整備費であり、正に気兼ね費である。ピーク時は3千億円弱であったが、その後減少傾向にあり、今年度は2千億円弱となったが、国の財政難でもあり更に減らしたい意向である。安全保障関連法案の成立で、米軍に対する自衛隊の任務が拡大するのを契機に思いやり予算を縮小させたい思惑である。しかし、米国は安保法案の通過で対米支援を拡充すると受け止め、増額を要求しているとのことだ。

 以上のように、日本の外交は、特に安全保障に関しては米国抜きには考えられない。人生においても、自分で決めて、自分で行動し、結果に責任を持つことは、“言うが易く行い難し”である。有能な上司の言うままについていった方がはるかに楽である。これも上司が有能であればの話である。

 最近、耐震ゴムや杭打ち問題で、一流企業の有能な上司も怪しくなってきた。米国の経済も中国抜きでは考えられなくなり、一方政治では南シナ海で軍事衝突寸前である。日本の有能な上司である米国もいつまでも有能であり続けることが出来るであろうか。

 世界は変革の時にある。そろそろ米国から独立し、独自の日本外交も必要だ。国会議員は次の選挙を考えてのみ行動し、10年、20年先のことは考えない。官僚は余程のことがないと職を失わないが、独自な考えは窓際族行きだ。官僚の世界は先輩重視、前例踏襲で、独自な判断はご法度である。

 難民問題、テロ対策、対外経済政策、対中国・韓国外交問題等、問題は山済みである。(犬賀 大好-184)

シャンプーは何使っている?

2015年11月21日 09時29分00秒 | 日々雑感
 前期高齢者です。この2年間シャンプーは全く使っていません。毎日お湯で濯ぐだけです。若いときからふけで悩まされてきました。皮膚科に何回か行きました。処方される薬はステロイド系の塗り薬で使っている間は効果ありますが、止めると元に戻ります。
 現在お世話になっている医者はちょっと変わっています。市販のシャンプーには活性剤等皮膚に有害な成分が色々含まれて居るそうです。赤ちゃん用シャンプーも同様なようです。そこで、助言に従いお湯だけにしました。ただし、洗いっぱなしですとカサカサしてきますので、保湿用の油(?)を処方してもらって塗っています。長年の悩みふけからは解放されています。
 この効果に気をよくし、現在顔や体にも石鹸は使わず、お湯洗いだけです。色々な人に臭いが残っていないか聞いていますが、老人臭もないようです。 
 テレビでは、若い美人が石鹸やシャンプーを気持ちよさそうに使用し、あたかも使用することによって美人になったように宣伝していますが、美人は別のところで作られます。
 以上

快眠できる方法

2015年11月21日 09時17分05秒 | 日々雑感
 スマホでクラシック音楽を聴きながら、横になっているといつの間にか寝ています。ただし、30分から1時間後にOFFするようにしておかないと、途中起こされてしまう心配があります。音楽の代わりに、外国語のリスニングが良いかも知れません。音楽はスマホのアプリ、Tuneinを利用していますが、外国語は分かりません。 以上

高齢者の存在意義と自殺について

2015年11月21日 09時09分49秒 | 日々雑感
 超高齢化社会である。しかもiPS細胞による再生医療やガン早期発見検査法等の進歩が著しく、現在でも世界一の平均寿命は更に記録更新すると思われる。しかし、一方では社会保障費が年1兆円づつ増え、日本経済は益々苦しくなる。一億総活躍社会と叫ばれる現在、高齢者の存在意義は何だろうとはたと考え込んでしまう。

 現在の日本の繁栄は高齢者の若い頃の苦労のお蔭であり、現在楽するのは当然の権利である、と言って堂々として人もいるが、一般的には何かと肩身が狭い世の中である。敢えて存在意義を見出そうとすると、社会、特に若者に対し自分の経験を伝えることに存在意義がある、とお仕着せの返事も聞こえてくる。確かに、そうかも知れないが、ほとんどの高齢者、すなわち老人は社会の足手まといであろう。

 儒教においては老人を敬えとの一貫した思想がある。しかし、老人が長生き出来ず、人数的にも少なく、希少価値として役立った時代に出来た思想であろう。何しろ石を投げれば高齢者に当たる時代である。後2,30年経ち、団塊の世代がこの世から居なくなれば、社会保障費も少なくなり日本経済は安定するとの待望論も聞かれる。兎も角、高齢者は社会のお荷物になっているのだ。

 老人が集まるとよく、ピンピンコロリ、略してピンコロが話題になる。生きている間は誰の世話にならず元気でおり、死ぬときはコロリと一瞬で死ぬことが理想であるとの話である。

 死はいずれやってくるが、通常突然やってくることは稀である。死に至るまでの間、多かれ少なかれ、誰かの面倒になる。面倒を見られる間、生きていることを実感できればまだしも、意識が無くなり植物状態になっても、まだ面倒をかけるのは、到底本人の希望するところではないだろう。

 突然死を迎えるためには、交通事故か自殺しかない。交通事故は自分で選択できない。選択できるのは自殺である。

 現在日本における自殺者は年間3万人強で、そのうち1/3強が60歳以上の老人との話だ。健康上の理由が一番多く、経済・生活問題が続くそうだ。共通するのは現在の苦しみから逃れるためとか、将来を悲観しての話であろう。人間の本能は生である。その本能に打ち勝って死を選ぶとは余程の覚悟が必要であり、当人の苦しみの大きさが伺い知れる。しかし、下流老人が激増する昨今、他人事と言ってはおられない。
 ピンコロと自殺が異なるのは、死を直前に知るかどうかである。死が恐怖であるか、希望となるか、誰も死んだ経験がないので断定できない。ピンコロが理想的と思われるのは、死の直前においても死を感じないことであろう。

 社会保障費が破綻寸前であり姨捨山がいつ制度化されてもおかしくない。いやもう始まっているかもしれない。特養の収容人数の倍が待機人数だと言う。下流老人は姨捨山に行くしかない。

 老人が住みにくくなる時代、ピンコロを実現するのは容易でない。せめてピンコロ希望者に安楽死を認める時代が来ないものだろうか。(犬賀 大好-183)