「東京新聞」2020年8月9日 06時00分
長崎は9日、米国による原爆投下から75年を迎えた。長崎市松山町の平和公園で平和祈念式典が営まれ、投下時刻の午前11時2分に黙とう。式典は新型コロナウイルスの影響で規模を縮小し、田上富久市長が平和宣言で、核軍縮に逆行する国際情勢に危機感を表明する。会場では八日夜、市民らが核兵器廃絶を願い、手作りのキャンドルを点灯。女性被爆者は若者らに「二度と同じ思いをさせたくない」と訴えた。
原水爆禁止長崎県民会議は市民会館で集会を開き、爆心地から800メートルで被爆した下平作江さん(85)が「生き残った人も、原爆症などで人間らしく生きることができなかった。この苦しみは私たちだけで十分だ」と講話。核兵器廃絶を求める署名を国連に届ける高校生平和大使が「私たちは被爆者の生の声が聞ける最後の世代。思いを伝えていかなくてはならない」と決意を述べた。
日本政府に対し、2017年に国連で採択された核兵器禁止条約を「一刻も早く批准し核廃絶のため世界のリーダーとして行動するべきだ」と訴えるアピールを採択した。
「世界を平和に」「核廃絶」。平和公園にある「平和の泉」周辺には、小中学生らが願いを書き込んだキャンドル約4500個が並び、辺りを優しく照らした。
「戦争ほうき」と記した長崎県時津町立時津東小5年の佐々木海琉君(11)は「学校で被爆者の体験を聞いて、戦争の怖さを知った」。
式典で犠牲者に水をささげる地元の児童生徒らは8日朝、平和の泉から献水用の水をくんだ。市立長崎商業高二年の本村凜音さん(16)は「75年前に水を求めて亡くなった人が、天国で安らかに眠ってもらえるように献水したい」と話した。
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核廃絶へ「私も精いっぱい伝えなきゃ」 長崎の高校生平和大使の決意
「東京新聞」2020年8月8日 14時00分
車いすの80代の女性被爆者は、体を震わせながら声を絞り出し、体験を語った。女性が暮らす長崎県内の養護施設で、その姿を見たのは高校2年生の時。心を打たれ、「私も精いっぱい伝えていかなきゃいけない」という責任を痛感した。長崎市の私立活水かっすい高3年西村優香さん(18)は、核兵器廃絶署名を集める「高校生平和大使」を志した理由をそう語る。
◆被爆者の話聞き芽生えた使命感
祖父が長崎で被爆した被爆3世。ただ、祖父から戦争体験を聞いたことはなく、現実味はなかった。小学生のころから毎年、長崎に原爆が投下された8月9日に学校で講話を聞いてきた。被爆者が再現するB29の音は素直に「怖い」と思った。今でも、被爆当時の写真を見ると恐ろしさを感じる。
中学生の時、被爆者の高齢化を取り上げたテレビのニュースを見てから「平和に関わる活動がしたい」と感じるようになり、高校では平和学習部に入った。被爆者の話に耳を傾けるたびに平和を願う思いが募り、「私たち若者には後世に伝える責任がある」との使命感も芽生えてきた。
高校生平和大使は例年、核廃絶署名を国連欧州本部に届けるためスイス・ジュネーブに派遣されるが、今年は新型コロナウイルスの影響で行けない可能性が高いことは分かっていた。それでも、これまで関わってきた被爆者の顔が頭に浮かび、活動するチャンスがあるなら最後まで頑張ろうと応募に踏み切った。
◆同世代には「身近なところから平和の大切さを」
被爆から75年を迎える9日、長崎市の平和祈念式典に参列し、高校生平和大使としての一歩を踏み出す。核廃絶について世間の関心が低いとの危機感を抱くが、「今、私たちがやらなきゃ後世には伝わらない」。特に同世代には「過去と今で食べ物や衣服など生活がいかに違うか感じてもらい、身近なところから平和の大切さを伝えたい」と意気込む。 (共同)
寒くて目が覚めた。どうやら15℃を下回ったようです。うっかり窓を開けて寝ると風邪をひきます。うらやましいお話でしょう?
恵みの雨。
作物も生き返ったようです。