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「世界で一番新しい国」の母子(南スーダン)

2018年12月27日 | 社会・経済

国境なき医師団」看護師が出会った人々~Messages sans Frontieres ことばは国境を越えて

  Imidas連載コラム 2018/12/27

白川優子  (看護師)「国境なき医師団」

 「世界で一番新しい国」

 その言葉から、どんな国を想像するだろうか。その国は希望や平和に満ち溢れているだろうか。若々しく、大きな期待を持たれている国だろうか。テクノロジーが発展した近未来的な国だろうか?

   この地球上で一番新しい国、それは2011年にスーダン共和国から独立した「南スーダン共和国」だ。私は2014年に、この南スーダンに「国境なき医師団」(MSF)の看護師として2カ月ほど派遣された。2010年からMSFに参加し、数々の派遣地で活動してきた私は、この国に足を踏み入れた時に感じたことがある。それは、南スーダンほど国内の惨状が世界に伝わっていない国は稀なのではないだろうかということだ。私が見た「世界で一番新しい国」の実態は、残念ながら、どこよりも「暴力にまみれ、命がたくさん消える国」だった。

 争いが絶えない国

 スーダンは、19世紀から20世紀にかけ、エジプトやイギリスによって占領されていた。スーダンには、もともと南北で文化的、宗教的な地域差があった。アラブ系住民やイスラム教を信仰するアフリカ系住民が多い北部(現・スーダン)と、伝統的な宗教などを信仰するアフリカ系住民が多い南部(現・南スーダン)である。20世紀に入り、イギリスの単独統治が始まると、南北間の交流を禁止する植民地政策がとられ、本格的に分断されるようになった。南部と北部は、1956年にまとめてスーダン共和国として独立することになるのだが、その前年から対立が始まり、内戦へと発展した。これが「アフリカ最長の内戦」と呼ばれ、半世紀以上にわたって多大な犠牲を出し続けたスーダン南北間の戦争だ。この戦争は南部が独立をするという形で2011年にようやく終結し、南スーダン共和国が誕生した。

 南スーダン共和国には、そもそも平和な状態を知っている国民が少なかった。やっとのことで独立したというのに、戦争に疲弊していた国民は、今度は新国家として誕生した南スーダン国内で新たに始まった内戦に再び巻き込まれていく。建国後まもない2013年12月、首都ジュバで起こった政治的な対立による武力衝突を発端に、瞬く間に民族間の殺戮へと発展して全国に広がり、そして際限のない報復のサイクル、暴力の悪循環が始まった。それが現在も続いている。

 南スーダン北部の都市、マラカルへ

 スーダンにおけるMSFの活動歴は1983年から、と長い。活動規模の点でも、南スーダンはMSFが医療支援を展開している約70カ国の中で常時、上位3位以内にランクインしている。

 私が派遣された2014年も、ずっと以前から活動を続けていたチームに続き、いくつかの緊急チームが南スーダンの各地域に送り込まれ、外傷患者や避難民たちへの支援を始めていた。

 派遣地は、上ナイル地方のマラカルという街だった。南スーダンの北東に位置する、人口15万人規模という国内第2の都市である。13年末に首都で始まった戦闘はここマラカルにも飛び火し、先に到着したMSFのメンバーたちが市内にある政府運営の病院で被害者への対応に当たっていた。私が到着した2014年の2月という時期は実はすでに戦闘が一段落していて、私は病院支援とは別に、ボートを使ってナイル川沿いの村落の避難民を支援することになった。

 当時のマラカルの様子はというと、ついこの間まで戦闘があったという割に、破壊された跡がそこまで目立ってはいなかった。それほど激しい戦闘ではなかったのかと思ったが、実際には多くの死者を出したという。素朴な街で人々が淡々と生活している姿が印象的だった。決して賑やかと言えるほどの盛況ではなかったが、ワゴンで野菜や雑貨を売っている青空マーケットもあり、そこで売り買いする人々の日常もあった。静かで地味ではあったが、平穏でもあった。

 戦争がやってきた

 到着後まもないある日のことだった。スーダン人民解放軍(SPLA)と呼ばれる政府軍の武装車両が、突然マラカルに入り込んできた。チームリーダーのカルロスによれば、戦闘が始まる、という。マラカルの市民たちも避難を始めていた。続々とやってくる戦車や武装勢力を横目に、私たちもあわてて街の外へと脱出し、6キロほど離れた広大な国連の敷地内へと避難した。

 翌朝になってみると、大多数の市民が国連施設へと押し寄せてきていた。敷地内には立ち入れず、フェンスに沿って人々がひしめく光景は壮絶であった。

 「戦闘が始まったら、空港が封鎖されてしまうかもしれない」

   この日、カルロスが言った。彼の考えには、チームの撤退も含まれていた。ただ、ここで医療チームが全員撤退してしまったら、戦闘で犠牲になる人々はどうなってしまうのだろう……。彼はそれを踏まえた決断をした。撤退するメンバーと残るメンバーに分ける、チームの縮小だった。

   カルロスは、一人ひとりに計画を説明し、メンバーそれぞれの意志を確認した。私の番がきた。

 「今日の飛行機を逃したら、空港が閉鎖されてもう撤退できなくなってしまうかもしれない」と切り出しながら、それでも私の手術室看護師のスキルが役に立つかもしれないので、残ってくれるかと聞いてきた。私はそれに対し、何の迷いもなく残れると答えた。市民を置いて逃げるわけにはいかないという、看護師としての思いが揺らがなかったのは間違いないが、今後、空港が本当に閉鎖されてしまった後の混乱の想像がつかず、割と楽観視していたのかもしれない。

 飛行機を見送った翌日、大衝突が始まってしまった。マラカルの玄関口である空港は反政府勢力に占拠され、全てのフライトの離着陸が不可能になった。当時の南スーダンでは、全国の舗装道路を合計してもたったの60キロ程度だ。移動手段は、ナイル川沿いであればボート、他にはチャーター機しかない。空港が閉鎖されたことで、私たちは首都へと脱出できずに閉じ込められてしまった。

 この日から国連施設には、大きな爆撃音や銃撃音をバックに、血を流し傷ついた人々がどんどんやってきた。戦争というものが、日常の中に突然侵入し、人々の平穏を簡単に奪い去ってしまうものなのだと思い知らされた。

 私たちも緊急で避難してきたため、医療物資をほとんど持ち合わせていなかったが、まずは国連敷地内の空き地を使って怪我人の手当てを開始した。消毒薬とガーゼ程度しかなく、手術が必要なほどの大怪我に苦しむ多くの患者さんたちには何もしてあげることができなかった。気温50度を超える猛暑の中、血を流す市民たちのうめき声が段々と小さくなる。世界の誰も注目しない戦争の、報道されることもない暴力によって人々は亡くなっていった。私たちには彼らの身元を確認する術もない。せめてもの思いで、遺体を入れたバッグに日付と性別、推定年齢を書いた。

終わらない戦闘の中、危機が迫る

  国連施設に残ったのは、チームリーダーと医師1人、助産師1人、看護師2人に、ロジスティシャンと呼ばれる非医療系技術職のスタッフを加えた、全部で6人のチームだった。露天ではなく、せめて屋根のある場所で手当てができるよう、ロジスティシャンが他のNGOから借りてきたテントとシートを繋ぎ合わせて、“それらしい”場所を作ってくれた。薬剤も物資もなく、「診療所」と呼ぶには程遠いものだったが、それでも医療を求める患者さんに手を差し延べるための場所を作らなくては、という思いがあった。

 洗濯もできず汚れたままのMSFのTシャツを着ながら、負傷者の対応に当たった。水を与えることしかできない時もあった。治療中でも、自分たちに危険が及びそうな場合は「バンカー」と呼ばれる防空壕のような場所に逃げ込む。それが1日に何回もあった。

 命の危機が迫っていたのは、負傷者だけではなかった。あっという間に始まった戦争から逃れた市民らは、国連の敷地内の空き地に、棒切れと布切れのみで作った緊急的な住居で避難生活を始めるしかなかった。

 市民らは何とか生き延びようと、炎天下の中、倒れそうになりながらも、ひたすら重たい水を運び続ける。何かを訴えることも文句を言うこともなく、惨事を静かに受け入れているようだった。

 私はこれまで、ほかの国々で紛争地活動をする中で、被害に遭う人々の泣き叫ぶ姿や、人々が恐怖に耐えきれずに騒いで混乱する場面を幾度となく目の当たりにしてきた。それに比べると、南スーダンの人々は、不測の事態や劣悪な環境への適応力が優れている冷静な人々、と言っても良いと思う。

 しかし、栄養失調の子どもに配った食料を、やはり空腹で苦しむ親が食べてしまったり、更なる食料確保のために売ってしまったりという現実もあった。

 常に戦争に翻弄されてきた南スーダンの人々。平和を知らないというのは一体どういう気持ちなのだろうか。戦争を知らない私には理解の域を超える疑問である。

 そんな中、1週間もしないうちに、まず老人と小さな子どもたちに命の危機が襲ってきた。赤ちゃんはお母さんのおっぱいを吸う力さえなくなり、小さな命が弱っていく。私たちはとにかく薬と医療物資が欲しかった。全ては6キロ先のマラカルの病院に置いてきてしまった。

 状況はどんどん悪化し、自分たちの飲み水も底をついてしまった。戦闘が始まる前は週に一度、首都からチャーター便で送られていた食料や物資の供給は断たれ、激しい戦闘の音が続く街には戻ることもできない。この時はナイル川の水を塩素消毒して凌いだが、その川には遺体も浮いていた。長引く戦闘で増える一方の遺体は、ナイル川に流すことが、戦時下にあっては唯一の対処方法だったのかもしれない。50℃の猛暑は地面に積まれた遺体をどんどん腐らせていたのだ。そしてその猛暑を生き延びるためには、私たちもナイル川の水を飲むしかなかった。

 マラカルに戻る!

 1週間後、それまで激しく続いていた戦闘音が止んだ。そこでチームリーダーが決断を下した。マラカルの病院の様子を見にいこうと言うのだ。戦闘の音は止んだが、本当に戦争が終わったという確証などない。ただ、その日は確かに空港が解放され、国連の飛行機が飛んできていた。多くのNGOは首都に避難していったが、私たちはここでも現場に残る道を選んだ。怪我人や、暑さで弱っていく老人、栄養失調で死にゆく赤ちゃんを救うには誰かが残るしかない。そしてそれには薬剤と物資が必要だった。

 ロジスティシャン1人を国連敷地内の拠点に残し、5人で2台のランドクルーザーに分乗して出発した。MSFの活動現場において、通常は安全上の理由から、スタッフが自ら運転することは決してない。ただこの時は現地で雇用していたドライバーたちの、行方も生死も知る術がなかった。チームリーダーと、ドイツから来ていたベテランの女性看護師が運転した。

 このドライブで目の当たりにした、戦闘直後のマラカルの街の光景を、私は一生忘れない。人間の死体の山、それに群がる動物たち、破壊された建物、略奪の跡。たどりついた病院は、まるでここが戦闘の中心になっていたのではないか、と思われるほどに破壊が激しかった。小児科病棟は特にひどかった。建物が燃やされ、子どもの遺体と、ウロウロしている野良犬の姿がそこにあった。

 しかし、一番驚いたのは、その病院に生きている市民がいたことだった。私たちはこの日、重傷者を数人、国連施設まで連れ帰り、翌日からは国連にバスを借りて、何日かかけて数十人の生存者を国連の敷地に運び込んだ。

 また、意外にも、病院の物資を保管していたプレハブが無事だった。とにかく何とか物資を持ち帰った私たちは、さっそくできる処置から始めた。弱っている赤ちゃんたちの鼻からチューブを入れ、胃に直接ミルクを注入し栄養を与えた。重症の赤ちゃんはお母さんともども入院させた。母乳が出なくなっているお母さんへの栄養補給も大事な治療の一環だ。

 旗を立てる

 空港が解放されたことで、MSFの応援人員や物資も次々に到着した。一番の助け舟は、MSFの“大工”が到着したことだった。彼と、協力を申し出てくれた南スーダンの青年たちによって、首都ジュバから続々と届き始めた物資を使った大きなテント病院の建設が始まった。テント病院は、これからやってくる雨期に備えて高床式の造りとなっていた。

基本的な設備が整った時点で、空き地の仮テントから患者さんをどんどん移す。

 そして私たちはテント病院の前にMSFの大きな旗を高く掲げた。どこにこんなものがあったのかと思うような、今まで見たこともないほど大きな旗が、空に翻る。「ここで医療活動をしています」というメッセージを近隣全域に告知し、命を救う希望の場所としての活動を本格的に開始した。ここまでこぎつけるのに、戦闘開始から1カ月が経っていた。同僚の男性医師はベルトの穴を新たにあけなければいけないほどに痩せ、私は8キロも体重が減っていた。

 同時に、新たに到着した医師と看護師、ロジスティシャンたちがボートを使ってナイル川沿いのあちこちに散らばった避難民コミュニティを訪問し、その場でできる医療と併行して、重傷者・重症者をMSFのテント病院に運びいれた。その多くがやはり栄養失調の赤ちゃんだった。病院は瞬く間に栄養治療中の赤ちゃんと、そのお母さんたちでいっぱいになった。MSFではこの病院を24時間体制で運営するため、避難民の中から看護師を探し出し、チームを編成することにした。

 迷子の赤ちゃんを探して……

 ある日、小さな小さな赤ちゃんが迷子として連れてこられた。その子は脱水が顕著なしわしわの状態で、よく生きていたと思われるほどだった。戦闘からの脱出の混乱の中でお母さんとはぐれてしまったのだろうか。何万人もの市民が一気に避難するという状況では、大人同士であってもはぐれてしまうであろう。私たちは、名前も身元も分からないこの子の栄養治療に取り組んだ。

 数日後、なんとテント病院にお母さんが現れた。夜のうちに到着したようで、私が朝病院を訪れた時には、彼女は赤ちゃんを抱いてベッドでおっぱいをあげていた。赤ちゃんとはぐれ、ずっと探していた時に、人々の口伝てによってMSF病院のことを知ったのだという。

 「あの大きな旗を目指して行ってごらん」

 そこに行けば病院がある。はぐれた子どもに会えるかもしれないと聞かされ、ナイル川を渡ってきたのだった。“命を救う希望の場所があると伝えたい”。私たちが旗にこめたメッセージを、人々は確かに受け取ってくれていた。

 今まで哺乳瓶のミルクを吸う力もなかった赤ちゃんは、お母さんの腕に抱かれながら、一生懸命おっぱいを吸っていた。入院していた他の患者さんたちもその母子を囲み、微笑んでいた。

 子供の回復力は強い。特に栄養失調は、適切な治療や対処によってみるみる回復していくものだ。救えない命ももちろんあるが、この病院で栄養改善の治療をしている大半の赤ちゃんたちは、すぐに元気になって退院できる。その後成長していく中で、この子たちはどんな南スーダンを目にすることになるのだろうか。

   「世界で一番新しい国」、南スーダンの大事な将来を背負っていく、大切な未来の市民として、今はお母さんの愛情をたくさん受けて育っていってほしい。私はそう願った。


「戦争」というものをよく考えてほしい。

 クリスマスも終わり、いよいよ「年末」。江部乙での仕事も今日で打ち上げた。今年を振り返る時期が来た。まずは今年を表すわたしの漢字(感じ)を考えてみた。

「差」

「差別」、「格差」の「差」である。
「異」と「差」は何が違う?「多様性」の認識であろう。

「差別」

「ハラスメント」さらに被害者に対する2次的ハラスメントが絶望的に大きくなった。

「ヘイト」に対しては国民の機敏な反応によって、ある程度の成果を上げている。

「差別」問題は複数の閣僚、官僚たちが加わっているという深刻な事態である。「民族差別」「性差別」・・・様々な「差別」。

「あんな人たち」と「おともだち」
国家の「長」としての総理。
等しく国民の「命と財産を守」らなければならない立場の人だ。
「沖縄」への差別は最たるものだ。

「格差」はますます開きつつある。

「正規」と「非正規」の「格差」は決定的だ。
「派遣法」成立から弱まる労働者保護の精神。「働かせ方改革」によって、さらに拡大している。
「消費税増税」も格差のさらなる拡大である。「幼児教育無償化」もまた格差拡大につながる。
実質賃金の低下と内部留保・役員報酬の巨大化。

これ以上の格差拡大を食い止めたいものだ。