旅芸い者放浪記

前沢政次 ブログ

坪山明寛先生の生き方

2012-02-13 22:31:21 | 交友

ぼくは卒業して4年目に自治医大病院血液科のレジデント第1号になりました。科長は高久史麿教授。まわりの助教授、講師皆東大医学部卒業の秀才ばかりでした。

1か月ほど遅れて着任したのがレジデント第2号の坪山明寛先生でした。鹿児島大学の出身で言葉が独特でした。症例のプレゼンテーションでは「なま血をば、入れました」と言うので、多くの人がびっくりしました。

仕事は実直そのもの。患者さんや家族ともじっくり対話します。高久教授が自治医大を辞めて東大に転出されるとき、「東大で学べないものを自治医大で学んだ。それは患者や家族のために真剣に取り組む医師に出会ったことだ」と挨拶されました。

その医師は坪山先生が半分。ぼくが半分と思ってきました。ぼくには驕りがあったかもしれません。でも「死にゆくものに看護は何かできるか」というエッセイは、高久先生の胸に少しは残り、中尾喜久学長も読んで感じるものがあり、その後地域医療学教室の教員に抜擢してくれたのだと思っています。

でも坪山先生のすごさは書かずに実践に徹したことでしょう。なぜ彼が患者の立場に立てたか。それは学生時代の経験にさかのぼります。

医学部の学生だったとき悪性リンパ腫という病気が彼を襲います。主治医も余命いくばくもないことを両親に告げるほどだったと言います。

そこから彼は病気を克服し、「神の用のために」生きる。まさに復活したのでした。

自治医大から大分県立療養所三重病院に医師が派遣されることになり、その第1号がぼくでした。1~2年交代で数名の医師が応援に行き、最後の決め手が坪山先生でした。以来故郷の鹿児島にも帰らず、自治医大にも戻らず、三重病院で仕事を続けられました。

確か、平成8年から院長となり、病院の陣頭指揮を執ってこられました。1昨年この病院は県立病院としての使命を終え、緒方町立病院と合併し、豊後大野市民病院となりました。その初代院長を坪山先生が務めています。

旅芸い者は今年ぜひ豊後大野市を訪ねてみたいと念じています。