刹那・F・セイエイ
ソレスタルビーイングのガンダムマイスターの一人。機体は近接戦闘型のガンダムエクシア(ファーストシーズン)→ダブルオーガンダム(セカンドシーズン)→ダブルオークアンタ(映画版)。
幼い頃に祖国である中東の小国家クルジスの内戦に少年兵として参加。その際指揮官だったアリー・アル・サーシェスに〈これは神のための聖戦〉だと洗脳され、聖戦の参加資格を得るために必要な〈儀式〉と信じ込まされて己の手で両親を殺している。
この件が彼の精神に拭い去れない影を落とし、紛争根絶を望んでソレスタルビーイングに入る原因となる。
個人的に刹那をすごいと思うのは物語冒頭の段階で「この世界に神はいない」心境に至っていること。躊躇なく両親を殺すほどに深く洗脳されていたにもかかわらず、周囲の子供たちがなおも神を信じ神のため戦っている中で(ロックオンの一家が巻き込まれたテロの実行犯の少年は、刹那が止めるのに耳を貸さなかった)、すでに洗脳から脱している。
神の存在を疑うことは両親を殺した行為は間違っていたと認めることに繋がる。その苦しみに耐えられず間違いを認めまいとする、自ら洗脳状態を継続させようとするのが通常の心理であろう。そうした心理的罠に陥らず現実に目覚めた刹那は、それだけ精神的に強い人間だったのだと思う。
ところで彼を洗脳から目覚めさせたものは何だったのか。はっきり描かれてはいないが、おそらくは死体と瓦礫の山となった街の状景、いわゆる“神も仏もない”と嘆きたくなるような戦場の惨状だったのではないだろうか。
上で書いたように、刹那は〈武力介入による紛争根絶〉というソレスタルビーイングの理念に強く共鳴する。そのきっかけはファーストシーズン第一話冒頭部でのガンダム(リボンズ・アルマークが操縦する0ガンダム)との遭遇にある。
たった一機だけでその場に現れるなり敵も味方も殲滅、一瞬で戦闘を終了させてしまった。その圧倒的な強さと優美な形状、空から〈降臨〉したと形容したくなるシチュエーションと相俟って、ガンダムの姿は幼い刹那の心に強烈な印象を持って刻み込まれた。
泥沼の戦場の中で〈自分は名誉ある聖戦を戦っているのだ〉との洗脳から解かれて〈この世界に神などいない〉心境に至っていた刹那は、ガンダムを新たな神としてある種崇拝の対象としたのだ。
そしてソレスタルビーイングから勧誘された刹那はガンダムエクシアのマイスターとなる。ファーストシーズンで彼はしばしば「俺がガンダムだ」と口にする。さすがに自分が神だと言うのではなく、神の御心を代行する使徒くらいの意味だろうが、出会いの経緯からすれば刹那にとってガンダムとはその圧倒的な武力によって戦いを終わらせる存在なのである。
刹那は彼にとって故国とも敵国ともいえる(刹那の故郷クルジスを武力で併合した)アザディスタンの王女マリナ・イスマイールとたびたび接触を持ち、武力解決を否定する彼女に一目置いてさえいるが、彼女にアザディスタンの再興を手伝ってもらえないかと誘われた際には「俺にできるのは戦うことだけだ」とこれを断っている。
そして「悲しいことを言わないで」「戦いからは何も生み出せない・・・失くしていくばかりよ」というマリナの言葉に「破壊の中から生み出せるものはある。世界の歪みをガンダムで断ち切る。未来のために」と返す。
この〈自分は戦うことしかできない〉という諦念を刹那はしばしば(「俺がガンダムだ」と同じくらい)口にする。幼い頃から銃を持って戦い、その後はソレスタルビーイングに入って武力介入を行い、と彼の人生は両親と過ごしたごく幼い時期を除けばずっと戦いの連続である。
ファーストシーズン終了後からセカンドシーズンが始まるまでの4年前後は世界のあちこちを旅していて、その間は直接戦うことはなかったのではないかと思うのだが(片腕と顔の一部が破損したままのエクシアを携行してはいたが、4年間ソレスタルビーイングは表舞台から消えたと見なされていたということは、刹那もエクシアを使っての戦闘は行わなかったのだろう)、自分たちが変えた後の世界を偵察して回っていただけで、積極的に何かを作る、生み出す行為をしてはいない。
彼ができる、やったことがあるのはスクラップ&ビルドのスクラップの方だけで、「破壊の中から生み出せるものはある」と言いつつも、自分が担うのはあくまで「破壊」の部分で、自分が歪みを断ち切った後に新しいより優れた世界を構築するのはマリナのような人に任せたいと思っているのではないか。
無責任とか投げやりとかではなく、おそらく刹那には〈平和な世界で生きる自分〉というものを上手く思い描くことができないのだ。
(つづく)