詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

ぐらぐらしてもぞもぞする

2016年08月14日 | 雑記
毎年恒例の家族旅行。私の両親と、私の兄弟の家族。合わせて10人。毎年同じところに行く。毎年行くなどと言っても、別荘のような高級なものではなくて、安い保養施設。けれど白樺林に囲まれた広い敷地に長い建物があって、スリッパでパタパタ歩くその廊下には横長の大きな窓があって、林の柔らかな地面にところどころ木漏れ日が落ちているのを眺めていると、胸がすーっとする。天に昇った人の笑顔をまた見つけたような不思議な穏やかさが降りてくる気がする。高原の空気、風、とてもさわやか。

旅行の少し前になるといつも、思春期のように、家族行事よりも自分のことをもっとなんとかしなくちゃいけない、もっと外に行かなくちゃいけない、と思ったりするのに、旅行から帰る頃にはいつも子どものようにさみしくなってしまう。甥っ子二人、子どももいるとにぎやかで楽しくて、みんなで一緒に住めないかなぁ、などと、本当に小学生みたいなことを思ってしまう。

昨年亡くなった先輩の言葉をふと思い出す。先輩と、同じサークルメンバー二人と私の合わせて四人で山登りに行ったことがあった。白馬三山縦走コース。白馬の大雪渓を登って、山頂アタックをして、杓子岳、白馬鑓へ。もう十年以上前のことなので、はっきりしないのだけれど、確か山小屋で二泊した。どこでだったか途中で、先輩が「みんなで旅行に行くと終わった後がさみしいんだよね。そのさみしいのが嫌で、行きたくないような気持ちになることがある」と言った。その言葉が自分の中でどういう位置を占めたのか、よくわからないけれど、「先輩、そんなこと言ってたな……」と、ずっと心に残っていた。

数日、生活を共にすると、家族のような特別な連帯感が生まれて、独特の空気感が生まれて、別れた後もその余韻が残る。その余韻を探してしまって、あーあ、終わっちゃったなぁと思う。大勢でワイワイしているときの自分は普段の自分とは違うようで、仲間の間でプカプカしていて満たされていて、それ以上なにもいらないような気がしてくる。仕事とか、なにか厳しいこととかが嫌になってしまって、よし、がんばろう、と思えなくなり、怖がりになり(これはオキシトシン効果なのではないかと思っている)、安楽なことばかりしていたくなる(これ以上?!)。詩を書こうと思う自分を奇妙な目で見遣ったりしている。

いまでもこんなだなんて、恥ずかしいことなのだろうけれど、いまだに、普段と違う人と一緒にいると、自分がぐらぐらする。普段とは何かというと、現在は、夫と暮らして、現在の勤務先に通っている、生活のパターン。まもなく二年になろうとする職場にもだいぶ慣れ、遠慮しながらも、能天気な私なものだから、かなり自分がこぼれ出てしまっていて、だけど、私はそう積極的に人と打ち解けようと努力するほうではないから、自分の柔らかい部分は隠してあるつもり。半分くらい閉じた自分の世界に入ってしまっている状態。ある程度固まっている状態。それが、たとえば、両親と一緒に時間を過ごす。すると安定している自分規定のようなものが、ぐらぐらとしてくる。昔のサークルの仲間と会ったり、夫の知り合いの家族に会ったりする。ぐらぐらする。自分はどんな人間なのかとか、妙に考えてしまう。自分がとても奇妙に思える。とても動揺してしまうのだけれど、普段の暮らしに戻れば、やがて、揺れていた水面が平らになるように、もとに落ち着く。毎度そうなのだからわかっているのに、毎度ぐらぐらして動揺する。さみしくもなる。

夫に以前、その話をしたら、「だからいいんじゃないの?いろんな人に会うことが」と言ってくれた。そうだなぁ、と思った。ほんの少し大変だけど、そうやってぐらぐらすることになんの意味が、と思ってしまいそうにもなるけれど、ぐらぐらしながら、安定を求めて、微調整のためにもぞもぞ動いているのが、いいのかもしれない。なんのためにかは、わからないけれど。本当の本当の本当の意味での安定のために、かな?

ところで、今年、子どもがいなかった兄のところ(私には兄が二人いる)にも子どもが生まれて恒例の旅行メンバーは来年から11人になる。うれしくてきっとまた、ぐらぐらぐらぐらしてしまう。











今月末には先輩の一周忌。去年の今頃はまだラインしてたな、などと思うと苦しいけれど、お墓参りに行く準備として、またいろいろ思い出してあげたい。
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