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詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

ノートの行く先

2016年01月21日 | 
灰色だった人々の顔に血が通い始めて
冬の曇りも晴れものびのびとしのびこむ部屋で
書きたいことがすみれ色にわだかまって
霜が降り枝分かれしてしまったノートを
どうしたらいいか迷っている

それまで日記を書いていた茶色のノートは
その日をまたぐことなく
その空白を見るのがなんだか怖い
その前の何も知らない私を読むのも
それは多少はかわいそうに思うけれど
その後の空白のほうが
あの喪失を思い出させて苦しい

あの日から数日後
その人のためのノートを用意した
黒のノート
言いたかったこと
すればよかったと思うこと
いま感じていること
会いたいということ
ごめんなさいごめんなさい
二冊になった

洗面所や風呂場の黄色い電気がチカチカしたり
胸の奥底を通って抜けてしまう先があるらしく
誰かのちょっとした言葉が
私の感覚よりも速く駆けていって
肩にタッチ
戻ってきて
私の背中や右脚の脛や左頬に
さわっと寒い毛を走らせる
聞き流していた歌や
友だちとの何気ないやりとりに
いちいち涙が出たり

いない感触はたんこぶのように
私の外にあって
眺めたり
突ついたり
撫でまわしたり
していたけれど
盛りあがった形がくずれて鳥の群れになり
ひとしきりさえずったあと
深い呼吸で吸い込まれて巣をつくり
体のどこか隅のほうで
静かな営みを続けることができるようになった

そしてただ日々のことを書くときに
茶色のノート
黒のノート
どちらに先を続けたらいいのか
散らばってしまう言葉は
行き先を決めかねて

今夜は満月

そういう人は立つとき横にひろがらない
上にすっと立つ
さみしさを生きた人なので
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余韻

2016年01月16日 | 
電車がいろんな景色を過ぎていくように。
異なる好みを語っている靴たちが
かたかたかたと向き合い方を様々にして
立ち止まりしばしまどろむ林の間
目を閉じ
音楽を聴いていました
暗がりで伸びてくる蔓がありました
知り合いが次々と白い靄の中を駆けてきて
廃墟のように
言葉や表情に隠してどこかに触れた
そんな顔を見せて
次々通り過ぎていきました
これは一体なにかしら
それはもう、記憶でもなく
神経細胞を伝わる電気信号

小さなアパートの一室で
友人がふくらはぎをひらいて立ち上がり
隣の部屋へ行くと舞台のような
横幅広くしっかりとした木造の階段が現れ
家は立派な古い邸宅になっていました
階段に並行して段々になっている窓から
光が角をまるくするほどに入り
その明るい階段を
何か決意をしていくみたいに登っていく夢が
互い違いの感情を鮮やかに弾(はじ)くゴムを
朝に過剰なほど後ろへひっぱったこと
なんとなく気が付いていました
洗顔や朝食、着替えや化粧でも
冷えることのない静かな沸騰が
底の方でぐつぐつぐつぐつしていました

次の電車では座れず
ぼんやりと外を見ていました
晩秋の銀杏が灰色の空に映えていました
窓が空を敬い超然と整列して
見つめ返しているのを
私も瞳に映し
憧れをこめて見つめ返しました

電車の音や話し声が
ふいに耳に入ってきて
イヤホンを外してからずっと
無音を聴いていたことに気が付きました
気が付いてみると
さらにはっきりと
その響きが聞えました
透明なフードを透明な誰かが
ゆっくりとかぶせていってくれたように
くるまれているように
無音の響きが

さきほどまでショパンのバラードを聴いていて
黒いスーツに戸惑いと躊躇を隠しながら
それを弾いた青年
花にぐるりと囲まれた
ショパンの墓の写真を見せてくれた
その青年を思い出していて
音楽はやんでいたのに
音楽はずっと鳴り響いていたからです
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写経に行く!の巻

2016年01月11日 | 雑記
先日、長めの正月休みの間で写経をしに行ってきました。五反田にある薬師寺東京別院というところ。昨年知り合いが行ったと聞いて、私もぜひ行ってみようと思っていました。道具も全て整っているし、正座しなくていいし、いろいろ親切に教えてもらえると聞いていたので不安になることもなく気楽に行くことができました。

とは言っても、初めて。初めてのことってわくわくどきどきしますねー。前日は家でグダグダしてしまってしょうもない感じの一日だったので、まず知らないところ、知らない街へ行く、というだけで気持ちが高揚して、歩きながら昨日とは別人になった気持ち。
建物に入るときはどきどきそろそろ。

写経受付は二階との案内が出ていたので二階へ。
受付で申し込むとまずはお抹茶と落雁のお接待がありました。
これで心を落ち着けるということね。とめどなくぼーっとしていたくなりましたが、違う違う。

ごちそうさまでした、と受付へ戻り、写経の説明を受けて、輪袈裟を首にかけ、クローブ、丁子の花のつぼみを干したものを口に含むように渡されます。これは、写経がおわる頃には柔らかくなるので、そうしたら噛んで呑み下してください、と言われました。気になるようなら途中で出してかまいません、と小さな紙片も受け取りました。最後まで口に含んでいるつもりでしたが早々にギブアップしました……。

写経のお部屋に入ると何人かの方が静かに写経をされていました(みなさんどんな気持ちで写経をされているのだろう。どんな背景があって、などと考えてしまった私はまったく無になれておりません)。香象があるので、それをまたいで進み、前方には薬師如来様を中心に両側にも、えーっと、名詞を覚えるのが苦手で……、像があり、お正月には吉祥天女様をお迎えしているとのことで、その彩色画も置かれています。まずは合掌をしてから写経をお始めくださいとのこと。

この段階ですでに、とても心が落ち着きました。宗教なのか、仏教なのか、何かこのように、自分を迎えてくれる大きなものがあり、そこに気持ちを委ねることができるというのは有難いことだなぁと思いました。そして写経をする、ただひたすら無になって(なってませんが……気持ち)、有難い言葉を書き続ける作業がある、ということが何よりの救い、なんて大げさですけど思ってしまいました。どんなに自分が惨めでも、悲しいことがあっても、ただそれをしていればいい、そう思うだけでお寺の庭を風がすーっと抜けていくのを、畳に座って見ている気持ち、自分も空に溶けていくような気持ち。

墨を使って字を書くのなんていつ以来だろう。久しぶり過ぎて、つづり方、というより、すずり方から分からない……。墨と、筆と、硯と、穴の二つ開いた小さな陶器。なんだろう、これは?他の人の様子を見て、小さな陶器には水が入っているらしいとわかり(穴が二つ開いているのは空気穴ね、二つないと、水が出てこないか、ドワッと出るか、どっちだっけ?)、それを硯に出して、と、真似しましたが、水を出し過ぎたせいで、硯がプールになってしまったし、磨るのに時間はかかるし、ようやく書き始めてもにじむことにじむこと。そして色も薄い。ですが書いているうちにだんだん墨がなじんでくるのか、にじむことも少なくなり、墨の色も濃くなってきました。

こんなに久しぶりでも、そしてどんなに字の下手な私でも、こちらの写経は下の見本をなぞれるようになっているので安心。一文字一文字丁寧に。

一文字一文字丁寧に丁寧に。書いていたら。
背後の窓から入ってくる光が変化していくのがわかり、昼過ぎにそこに来ていたはずなのに、写経を終える頃にはカラスが鳴き始める時刻になってしまいました。ただ文字をなぞっているのが気持ちがよくて。何も考えなくてよくて、ただ文字を書いていればいいというのが心地よくて。般若心経が終りに近づくのが惜しいような気持ちでした。

書道を趣味(仕事でももちろん?!)に持つって、いいだろうな、と思います。そういえば知り合いに書道をしている人が多い気がする……。単に書道人口が多いということなのかもしれませんが。

これまたぜんぜん関係ないのですが、仕事が嫌なとき、「これは丁寧に字を書く、という作業なんだ」と思うとかなりテンションがあがります。怠けたがりな自分もいるけれど、何かきちんとする、みたいなことに覚える快感も不思議とあるのですよね。私ほんとは自由って苦手なんだよな……と思う。こんな歳になっても自分の中に芯がなくて、あるべき姿の理想がなくてしょっちゅうぐらぐらしているから、最近、自分の中にきちんとやりたい願望を見つけて少しほっとしています。案外、そのほうが楽だったりするのですよね。たとえば外で食べちゃうと簡単だけど、晩ごはんをちゃんと作ると、きちんとやった、という満足感があってかえって元気になったりとか。こういうのって大事なんだな、といまさらかもしれないのですけれど、思うようになりました。最近。(でもきちんと早起き、だけはムリ)

ようやく般若心経を書き終え、お願い事と自分の住所氏名を書く欄。ここが一番の緊張です。なぞれないのですから!しかもお願い事は幾つしてもいいということなので欲張ってしまい、まずはこれっ!と思っていたことを書き始めたら、こ、これは!他のお願いが書けないのでは!と思うほど場所を取ってしまって、そう思うと、欄の大きさは時間と相関関係にあるわけではないのに、やたらと焦ってしまって、慌ててしまって、ひどい字になってしまって、がっかり。でもまた来ればいいよ、そう思ってなんとか自分を慰めるのでした。

数日後、奈良の消印で葉書が届きました。写経を奈良の薬師寺に確かに納めました、ということと、薬師寺が続く限り永代にご回向させて戴きます、ということ。
ありがとうございます!!
また行かせて頂きます。

お正月休み中に撮った写真を脈絡なく




















これは友達と渋谷に行ったときに入ったお店で
他のブログの真似をしてこんな写真も撮ってみた
というか載せてみた


みなさま、今年の目標は決めましたか?
最近自分のブログ名を恥じている私は「今年は少し写真の勉強をしてみる!」(詩は本を読んで学ぶ、というわけにはいかないから、詩についてはさておき)
と夫に宣言しましたが、「それ去年もおととしも、もしかしたらその前から言ってた気がする」と言われてがっくり。
今年はもう少し分別を持ちたい。
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伸び縮みする

2016年01月09日 | 雑記
私が私になるために
私は私を離れなくてはいけない
小説家が小説について書いている本で
音楽家が画家について語っているくだりを読んで
そのように思った

私を意識している私は
幽体離脱のように
私を離れ
私を見ている

外の世界を曇りなく
見るため
感じるために
私よ、どいてください
私は私と一体になりたい
一体となって私を離れたい

水晶の中に火を灯すことができたら
赤いオレンジ色が無数に映って
いっせいに揺らめくだろう

夢の中ではどんな冒険も
私の器に映ったろうそくの火の揺らめき
だからぬくぬくとした家のように
閉じられていてあたたかい
出会う人々もへその緒でつながっているように親密で
目覚めても無意識に
その人の心地を撫で続けている
風景を歩いている

私は私にぴたりと重なり
私を見失い
純粋な世界を見ることができている
のだろうか
いや、私でいっぱい
容器までぐるんと私なのだ
一歩一歩初めてなのに

夢から覚めた世界で
同じイメージに閉じ込められているのは
どうしたことだろう
放射状に足跡をつけているのは知っているのに
蜘蛛の巣のように
私を囲い込む私
どうして抜け出したらいいのだろう
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あけました

2016年01月05日 | 
新しいカレンダーを置いた
知らず胸を張りながら
新しいものは喜ばしい
新しい命も
けれど私が迎える正月は
もう数えきれない

一年は計を立てぬうちに終わり
見渡すと楕円の形をしている
一年で一周のはずなのに
去年の一月は半周した
ちょうど向かい側にある
何から刻まれているのか
考えるのがなんとなく怖い

歌のように数えながら寝て
正月が正月にふさわしく
華々しかった頃を離れて
両親が雑煮の餅をつまらせないか目を光らせて
磨き忘れている隅をこっそりと磨いている
私もとっくの昔に少女でないこと
びっくりするほど自覚なかった

外からの明るさが
ぐるりと半周して色を変え
暮れていった
三ヶ日も過ぎて家人のいない部屋
私が充満してしまい
金縛りにあう
骨はぐずぐず
地面も繋がりも揺れ動いて
つかまえられない

簡単なのに
すぐそばにあるものを
しっかりつかめばそれでいいのに
風呂掃除のスポンジとか
買い物袋とサイフ
包丁まな板おたまに菜箸

このところ通勤電車の記憶しかない
どこかしら行っているはずなのに
イメージが細長い四角形に閉じ込められている
遠くへ行きたかったはずなのに
それとも、どこへも行きたくないのかな
破っても破っても
隠されている本音は
新年の旅にあけまして
いつかわかるでしょう
おめでとう

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