お疲れさまです。ミオです。
今日は仕事で何通もメールを書いたので、その感覚がまだ残っています。
ふと、どこに残っているのだろうと思ったのですが、会社でメールを書くときにはキーボード入力、いまこれを書いているのはフリック入力、とすると手の動きではない気がします。
お疲れさまですと言いたくなる感覚を、耳をすませるように、体をすまして探してみると、頭の中の口が、ぱくぱく、と動いているのを感じます。
などと書くと、日本昔話のあの恐ろしいお嫁さんの話みたいですね。
****************
働き者だし、とても小食だからお金がかからずにすんで、なんと良い嫁だ、と思っていると、ある時、米や味噌がごっそりなくなっていることに気が付く。そんなことが度々起こる。これはおかしいと思って、夜中にこっそりと台所を見張っていると、小食のはずの嫁が、大量のごはんを炊いて、たくさんのお握りと大鍋いっぱいの味噌汁をつくっている。準備がすっかり整って、嫁が自分の長い髪の毛をかきわけると、後頭部から大きな口があらわれて、お握りと味噌汁がそこに次々放り込まれていくというお話。
結末は、忘れてしまいました。なぜかたまに思い出すのです。そして、普段はほとんど食べないのに、夜中になると化け物のようになって食べている嫁には、どういう意味でかはわからないけれど、何かしら真実があったのではないか、なんとなく思うようになりました。そして、そこにもの悲しさのようなものを感じてしまいます。
お伽話や昔話には、真実が含まれているといった話は、たとえば心理学系の本などでもよく見るし、新しくない話ではありますが、上述の昔話に何かしらの真実があったのでは、と私が勝手に感じているのには、もっと個人的な記憶(というと大げさですが)が関わっているように思います。ということに、いまこうしてこの記事を書きながら気が付きました。
****************
母の友人で、娘さんを自殺で亡くした女性だったか。
それとも、同じく母の知り合いで、
娘さんが、ずっと調子が悪かったのだけれど、ようやく元気になってきたので安心していたら、電話で、ちょっと風邪をひいたようなことを言っていて、その数日後に娘さんが亡くなっていた
という女性だったか。
どちらの女性だったか忘れてしまったのだけれど、娘さんを亡くして「かぐや姫が本当の話だったとわかった」と話したというのです。
きっと、悲しみの暴風雨が過ぎ去って、もしくは胸の底に悲しみの嵐を沈めて、表面上は淡々と。
この話を思い出す度、不思議なくらいに、その悲しみがしみじみと胸に伝わってきて、まるで私自身が娘を発見する母になって、娘の部屋に入っていくような気持ちになって、泣きそうになります。
こんなに感情移入してしまうのは、もしかしたら、私も娘であり、自分の母からそれを聞いたからなのかもしれない、ということも、いまふと気が付いたことです。
****************
と、いつかの日記のごとく、というか、いつもの日記のごとく、まったく関係のない話が異様に長くなりましたが、今回書きたかったのは、こうなるとほんとにどうでもいい話のようなのですが、ふと耳にした言葉のことを書きたかっただけなのです。
つい先日、職場で、同僚がたまたま気持ちの悪い画像を見つけてしまい、「わあ、さぶいぼが立つ!」と言うので、そんな言葉を知らなかった私は「さ、さぶいぼ⁉︎」と驚いたのですが、関西の言葉なのだそうですね。
今日も仕事から帰ってきて、晩ごはんの準備をしながら、その言葉をふと思い出して、「さぶいぼかー、あー気持ち悪い」と思ったのでした。さぶいぼという言葉そのものが、さぶいぼだ!と思って。もしかしたらその画像の影響も大いにあるのかもしれませんが。すばらしくよく表現されている気がします。「さぶいぼ」には。その気持ち悪さが。
これに比べると「鳥肌」は、別に普通というか、肌がそんなふうに見えるということを、外から説明しているだけです(「鳥肌」もあらためて考えてみると、すごい表現ではあるけれど)。
でも「さぶいぼ」は、この字面といい、語感といい、気持ち悪さの感触をそのまま、内側から表現しているように感じられます。「きもち(パンチ!)わるい(パンチ!)」と、グーで殴ったらその部分がぼこぼこ出っぱった、ような感じ。
そんなこんなで結局、何を言いたかったのかというと、私も「鳥肌」ではなく「さぶいぼ」的な詩を書けるようになりたい、ということなのでした。恐らく間歇泉的な気の迷いで。
さぶいぼの写真なんて載せませんよ〜。
目に鮮やかな緑。
今日は仕事で何通もメールを書いたので、その感覚がまだ残っています。
ふと、どこに残っているのだろうと思ったのですが、会社でメールを書くときにはキーボード入力、いまこれを書いているのはフリック入力、とすると手の動きではない気がします。
お疲れさまですと言いたくなる感覚を、耳をすませるように、体をすまして探してみると、頭の中の口が、ぱくぱく、と動いているのを感じます。
などと書くと、日本昔話のあの恐ろしいお嫁さんの話みたいですね。
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働き者だし、とても小食だからお金がかからずにすんで、なんと良い嫁だ、と思っていると、ある時、米や味噌がごっそりなくなっていることに気が付く。そんなことが度々起こる。これはおかしいと思って、夜中にこっそりと台所を見張っていると、小食のはずの嫁が、大量のごはんを炊いて、たくさんのお握りと大鍋いっぱいの味噌汁をつくっている。準備がすっかり整って、嫁が自分の長い髪の毛をかきわけると、後頭部から大きな口があらわれて、お握りと味噌汁がそこに次々放り込まれていくというお話。
結末は、忘れてしまいました。なぜかたまに思い出すのです。そして、普段はほとんど食べないのに、夜中になると化け物のようになって食べている嫁には、どういう意味でかはわからないけれど、何かしら真実があったのではないか、なんとなく思うようになりました。そして、そこにもの悲しさのようなものを感じてしまいます。
お伽話や昔話には、真実が含まれているといった話は、たとえば心理学系の本などでもよく見るし、新しくない話ではありますが、上述の昔話に何かしらの真実があったのでは、と私が勝手に感じているのには、もっと個人的な記憶(というと大げさですが)が関わっているように思います。ということに、いまこうしてこの記事を書きながら気が付きました。
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母の友人で、娘さんを自殺で亡くした女性だったか。
それとも、同じく母の知り合いで、
娘さんが、ずっと調子が悪かったのだけれど、ようやく元気になってきたので安心していたら、電話で、ちょっと風邪をひいたようなことを言っていて、その数日後に娘さんが亡くなっていた
という女性だったか。
どちらの女性だったか忘れてしまったのだけれど、娘さんを亡くして「かぐや姫が本当の話だったとわかった」と話したというのです。
きっと、悲しみの暴風雨が過ぎ去って、もしくは胸の底に悲しみの嵐を沈めて、表面上は淡々と。
この話を思い出す度、不思議なくらいに、その悲しみがしみじみと胸に伝わってきて、まるで私自身が娘を発見する母になって、娘の部屋に入っていくような気持ちになって、泣きそうになります。
こんなに感情移入してしまうのは、もしかしたら、私も娘であり、自分の母からそれを聞いたからなのかもしれない、ということも、いまふと気が付いたことです。
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と、いつかの日記のごとく、というか、いつもの日記のごとく、まったく関係のない話が異様に長くなりましたが、今回書きたかったのは、こうなるとほんとにどうでもいい話のようなのですが、ふと耳にした言葉のことを書きたかっただけなのです。
つい先日、職場で、同僚がたまたま気持ちの悪い画像を見つけてしまい、「わあ、さぶいぼが立つ!」と言うので、そんな言葉を知らなかった私は「さ、さぶいぼ⁉︎」と驚いたのですが、関西の言葉なのだそうですね。
今日も仕事から帰ってきて、晩ごはんの準備をしながら、その言葉をふと思い出して、「さぶいぼかー、あー気持ち悪い」と思ったのでした。さぶいぼという言葉そのものが、さぶいぼだ!と思って。もしかしたらその画像の影響も大いにあるのかもしれませんが。すばらしくよく表現されている気がします。「さぶいぼ」には。その気持ち悪さが。
これに比べると「鳥肌」は、別に普通というか、肌がそんなふうに見えるということを、外から説明しているだけです(「鳥肌」もあらためて考えてみると、すごい表現ではあるけれど)。
でも「さぶいぼ」は、この字面といい、語感といい、気持ち悪さの感触をそのまま、内側から表現しているように感じられます。「きもち(パンチ!)わるい(パンチ!)」と、グーで殴ったらその部分がぼこぼこ出っぱった、ような感じ。
そんなこんなで結局、何を言いたかったのかというと、私も「鳥肌」ではなく「さぶいぼ」的な詩を書けるようになりたい、ということなのでした。恐らく間歇泉的な気の迷いで。
さぶいぼの写真なんて載せませんよ〜。
目に鮮やかな緑。