暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

政府に望む事

2012-07-08 10:20:44 | Weblog

 『政府に望む事』

 

 神とは、「法則を作った存在」だと思う。

 自民党の“公共事業10年間で200兆円計画”について、反対したいと思う。

 結局、“政治家”による、判断が絡むような事はして欲しくない。“無駄な公共事業”はいらない。それぐらいなら、“無駄な生活保護”をしてくれた方がましだと思う。その方が、“政治家”による、判断の余地が少なくなるので、ということで。

 

 共産党に投票する事はあっても。私は、共産主義の理論はおかしいと思っている。“政治家”は、何も判断するな、と思っている。“法則”すなわち、“法律”だけ作って。後は「何もするな」と。それが、私が「政治に望んでいる事」なのである、ということで。

 

 神は“法則だけ作って”『それを叶えるかどうかについて、いちいち判断したりしない』『私の法則に従えば、ある原因が生じれば、ある結果が生じる』と。「法律だけを作って」。「ある原因が生じれば、ある結果が生じる」ようにして欲しい。それが、私が政治に対して、望んでいる事なのである、ということで。

 

 何が善で何が悪だなんて事を、“たった一人の政治家という存在”が判断するかなんて、馬鹿げた事だと思う。“無駄な公共事業”をやられるぐらいなら、“無駄な生活保護”の方がましだと思う。生活保護の方が、同じ1兆円でも、多数の人にばらまかれるので。根本的に言って、同じお金をばらまくなら、公共事業にばらまくより、生活保護にばらまく方が、“民主主義的”だと思う。そのお金の使い道について、より多数の人が判断に関わるという意味において、民主主義的だと思う。

 

 “皆”を同じ回答にさせようとする人達がいる。

 

 空想小説を禁止する親がいるらしい。「この親に本当の科学というものが分かっているとは思えないが」。その親の論理によれば。『ファンタジーは嘘の話である。そう言う話を読んでいると、数学とかの勉強が出来なくなる』と。

 でも、私からすれば、「未来の科学とは、今、空想、ファンタジーと思われている事がすべて実現する世界の事である」と思っている。

 “新しい技術について考える為”と称して、『ドラえもんの漫画を読んでいる』という人の話を聞いた事がある。本当の科学者は、ファンタジー小説(SF小説)は多分、大好きだと思う。本当のファンタジーを読む事なしに、新しい技術を思いつく事が出来るのであろうか、と思う。

 

 『数学の出来る人は、少数意見でも、正解と言う事がありうる事を知っている』と書いていた人がいた。

 

 “皆を同じ意見、正解”にさせようとする考えには、反対なのだけれども。

 多分、数学の出来る人の方が、“たった一つの正解”に、すべての人をさせようとする考えには、反対だと思う。

 

 “技術開発”は必要である。でも、“地元優先”(中小企業優先)は、いらないと思う。何の技術もいらない道路舗装に、地元優先と称して、高いお金を払うのは反対である。“一番価格の安い”大企業に、大企業でなくても良いが、に仕事を頼むのは合理的である。政治家による、地元優先と称する変な判断はいらないと思う。

 

 もちろん、“一番価格の安い”企業に頼むのが、正しい事とは言えない事は分かっていると思う。

 でも。その“判断”は一体誰がするのか。結局、出来る限り、民間に任せて、“民間人の主観的判断”に、任せるのが一番合理的だと思う。“理論”通りにはいかない。“理論”から、はみ出た現象は常に起こる。それが、現実というか世界、宇宙の奇妙で、面白くて、飽きない所なのだけれども。常に“例外”というのが、存在する。それが、この宇宙という世界の飽きなくて、面白い所、事である、ということで。

 

 あるお金を、何の為に使おうと、その人自身が判断する事だと思う。他人が、世間の人達が、それを、“無駄な消費”“無駄な所への支出”と言おうと、その人にとって、“幸福を感じられる選択”なら、それは、正しい支出であり、正しい消費だと思う。

 何が正しくて、何が間違っていると考えるかなんて、ただのその人自身の判断に過ぎないと思う。

 

 政府は出来る限り小さい方が良いと思う。別に“小さな政府”を志向している、正しいと思っている訳ではないが。“出来るだけ、何が正しいか、間違っているかについて、判断しない”政府が正しい政府だと思っている。だから、“何も出来ない政府”は正しい政府だと思っている。別に、政府支出を減らせと言っている訳ではない。“必要な”“削れない”社会保障支出で身動きの取れない政府は正しい政府だと思っているだけである。身動きが取れて、財政支出について、好きな事が出来る政府は別にいらないということで。

 政府は“どうしても削れない”事だけをやれば良い、と。別に“やる必要のない事”については、やらないで欲しいと思っている。

 

 まあ、公共事業に反対する人達の意見の多くは。“金持ちが嫌い”なのだろうと思う。“政府”のお金によって、“金持ち”になる人達が許せないと。それで、左翼側、共産主義を理想と考える側の人達は、公共事業が嫌いという訳で。

 “公的資金”によって、“金持ち”になる人達が許せないという意見は昔からある。でも、本当は、国に任せるより、民間に任せた方が合理的なのだけれども。

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ぐぐれ

2012-07-08 10:19:12 | Weblog

 まあ、2ちゃんねるでは、『ぐぐれ』というけれども。

 

 大阪人権博物館が、大阪市長の橋本さんが、大阪人権博物館の展示を、『子どもが自分の将来像を描ける教育施設としての展示にして欲しい』と言った所。その展示の内容が、『大工さんになるには? めくってみよう』回答『工務店の求人に応募する』だったそうで。それに対して、2ちゃんねるの人は『ぐぐれの方が、ましではないか』と書いているが。

 まあ、ぐぐれの方が、ましなのでしょうね。というか、“ぐぐれ”(インターネットで検索しろ)の方が、情報量が多い。

 

 読売新聞が変な人生相談を載せている。いや、人生相談自体は、どこでもあるのかも知れないが。回答が下らない。どう考えても、ネット住民から見れば。“Yahoo!知恵袋”や!“教えてgoo”の方が、回答として、面白いし。情報量が多い。Yahoo!知恵袋や、教えてgooなら、大体、一つの質問について、回答が平均して、3つか5つぐらいつくから。それに対して、読売新聞の人生相談の回答者は、一つである。しかも、面白くないし。はっきりいって、愛が感じられない。あれなら、yahoo!知恵袋や、教えてgooの方が、愛があると思う。もっとも、この二つは、ちゃんと、監視人がいる、質問場だけれども。結局、新聞がネットに負けているということだろうなと思う。結局、新聞より、ネットの方が、情報量が多いのではないか。そんな気がするのだけれども。

 

 いまどき、調べ物をするのに、図書館に行く人はあまりいない。ネットの方が、早いし、情報量が多いから。

 

 障害者になる事は、不幸な事ではないと思う。障害者にならないと、分からない視点もあるので。

 ありが不幸で。象が幸福と言う事はないと思う。子どもの視点は低い。でも、低い視点で世界を見る事、高い視点で世界を見ること。その両方の視点から世界を見ること。その事に価値があるのではないかと思う。

 

 まあ、ある人は“抽象度を上げる”という言い方をしているが。“すべてを含む集合”を実現する事。それが、人生・生命の目的ではないか、と。だから。今、ありを体験しているからと言って、ネガティブ(否定的)な人生である、と考える必要はないと思う。加害者と被害者。その両方を経験することに、人生の価値があるということで。王様だけの経験では世界のすべてを体験したとは言えないし、兵士だけの人生ではすべてを体験したとは言えない。王様、兵士、農民、女性、子ども、どんな経験にも、それなりの、視点を得られるという人生を生きる価値があると思う。

 

 ある電機機器メーカーが、大幅赤字のため、1万人規模のリストラ(人員削減)をしようとしている。それに対して、リストラの対象となった、中堅の研究者の人が、『リストラは不当だ』と言って裁判を起こしている、という内容の記事であった。

 

 しかし、リストラしないと、この企業は、数年以内ぐらいに、倒産すると思う。でも、リストラされる側からすれば、今更、他の研究者としての仕事に就ける訳ではないから。『リストラは不当だ』とか言って、裁判をするのは、その人達の行いとしては正しい。

 

 会社の経営者にとって、“正しい事”と、リストラされる側の人達にとっての“正しい事”が一致しない。

 

 “階層度を上げること”というが。この二つの立場を、統合する、正義はない。まあ、その会社が黒字になれば、問題は解決するが。まあ、それが出来れば、矛盾は生じない訳だけれども。

 その記事によれば。『その研究者は、リストラの対象になるまでは、社内で高い評価を受けていた』とのことであるから。『悪い事をしたから、悪い結果になったのだ』と言う事は言えないと思う。でも、それでも、“リストラ”が必要な場合である。この矛盾の中で、『どちらが正義である』とか言う事は言えないと思う。「その立場においては、どちらも正しい」としか言えないと思う。

 

 この二つを統合する正義はない。

 もちろん、『経済成長すればすべては上手くいく』という主張がある事は知っている。この会社の例で言えば、『この会社が永遠に発展し続ければ』別にリストラはいらない、という正義である。

 

 大企業に就職する事にはそれなりの意義があるようである。

 ある自営業者の立場で意見を言う人は言う。『給料の切り下げは、どんなに小さな手当であっても、裁判所は切り下げを認めない。だから、給料を上げたいと思っても、ボーナスを増額する事しかやってはいけない。余計な手当をつけるような事をするな』と言う。

 だから。“大企業に勤める事”はそれなりの利益がある。大企業は、昔の高い給料のまま、引き下げる事が難しい状態にあるのだからして。その大企業に勤める事は、労働者にとって利益があると思う。

 そして、中小企業に勤める事には、それなりの不利益があると思う。例え、儲かっていても、給料の引き上げをなかなかしてくれない状況に置かれているのだからして。

 

 でも。『未来の事は分かりません』という。『日本航空は倒産するまでの10年間大幅赤字決算にも関わらず、女子大生の就職したい企業ベスト10に入っていました』と。

 

 一部のエリートを除き、就職活動をする時に、就職希望先の決算を見て、就職活動をする事はほとんどの人がしないと言って良いと思う。だから、大抵、ほとんどすべての人がその企業が赤字決算か黒字決算か知らずに就職活動をする。そして、赤字決算企業の会社は、いつか必ず、倒産する、ということで。大企業に勤めていたとしても、倒産間際の企業からのリストラ(退職)を逃れられる訳ではない、と。

 

 “大企業に勤めている自分”が、重要なアイデンティティ(自己同一性、自分は何者であるかを示すもの)になっている人達がいるみたいなのだよね。

 日本航空(JAL)が倒産して、リストラにあった後、『自分がリストラにあった事を人、家族に言えなくて、普通に出社するふりをした後、どこかの公園で暇つぶしをしている人』とかがいるようであるということで。

 でも、普通の人から見れば、日本航空が倒産した事ぐらい誰でも知っている訳で。別にその会社をリストラされたからと言って、恥でも何でもないと思う。隠す方が不自然だと思う。でも、“日本航空という大企業に勤めている自分”が重要なアイデンティティになっている、いた人にとっては、“日本航空を首になった自分”では、自分の尊厳が守られないと感じているのだと思う。

 

 堺屋太一さんの意見によれば。“経済の成長が前提”の時期は、人類の歴史から見れば、短い期間である、という。

 “労働者不足”という時期は、永遠の真理ではないであろうと思う。

 私達は、“労働者過剰”という時期、“経済の成長を見込めない”時期という状況下における、正しい倫理とは何かと言う事について、考えていく必要があるように思う。

 

 資本主義+民主主義という体制が生き残ったのは。ただ、“変化”を受け入れる事が容易な体制であっただけの話である。まだ、我々の“資本主義+民主主義”という先進国体制も、“経済成長”“労働者不足”を前提とする倫理観の中で動いている。

 「その状況における、最善と思われる選択を」。それが正しい思考だと思う。

 結局、世界は変わるのだ。その事実は拒否出来ないと思う。

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チャンスの神様には

2012-07-08 10:17:43 | Weblog

 『チャンスの神様には、後ろ髪がない』とかいう言い方をする人達がいるが。どうだろうかと思う。反対の立場の意見を言う人がいる。ある本にはこう書かれている。『稼げる時に稼いでおくという方法はどうですか』という質問に対して、『それは貧困意識だ。方法が正しければ、チャンス(機会)はいくらでもある』と。

 多分、この2つは、逆の立場だと思う。そして、『チャンスの神様には、後ろ髪がない』と言っている人達は、後で、人生に失敗してしまったと思った時に、そういう思想を正しいと思ってしまうのだと思う。『それは貧困意識である』と言っている人は、今、自分の人生は、成功していると感じているから、そう言うのだと思う。

 

 『一度、正社員にならないかという誘いはあったのですけれども』と。『でも、今は、不況のせいで、もうそれは無理だと言われました』という。この人にとっては、『チャンスの神様は』は正しい。でも、それは、今、失敗した、人生を生きていると思っているから、そう言うのではないか。結局、その人の持っている、思想が、間違ったものであったから、そう、感じてしまうのではないか、と。

 

 世間では、『社長になりたい』と言って、“社長になろうと努力すること”が、“正しい事”であると思われている。でも、“人からのお願い”を聞いているうちに、“社長になる”道があると思う。

 

 『金持ちになりたい』と思わなくても。金持ちになれる道はあると思う。

 “自分の”夢を叶える事、実現させることが、人生の目的であると、信じて疑わない人達がいる。でも、“他人からの要請”を聞いて行くうちに、今まで、自分が思いつきもしなかった、素晴らしい別の道に行けるという道もあると思う。

 何か、“目標”を見つけて、それにばく進するのが、“正しい事である”と考えられている社会的意識があるように思う。でも、“とりあえずなんとなく”で、他人から、『これをしてくれないだろうか』、『これをしてみるのは、どうだろうか』というお願いを聞いているうちに、子どもや若い頃には、想像もしていなかった、もっと違う豊かな道に行くという道があると思う。そんな気がするのだけれども。

 

 多分、恐らく、“私が、私が”で、幸福を感じる事は難しいと思う。“敵”、ライバルを押しのけて、出世する道もあると思う。世間の人は、それを、成功者だと言う。でも、人からのお願いを聞いているうちに、出世するという道もあると思う。その方が、幸せを感じる人生を生きられるような気がするのだけれども。

 

続く

 

 しかし、この問題の重要な点の一つは。“他人からの望み”を聞く事を嫌がる人がいる、という点だと思う。

 『正社員にならないかという誘いを断って』この人は何をしたかったのだろうかと思う。

 仕事というのは、『自分はこの仕事がしたい』という理由だけで、その仕事に就けるほど甘くはないと思う。『他人からの要請に従う事が仕事である』という部分があると思う。よく『この仕事はつまらない仕事だからやりたくない』と言っている人達がいるそうだけれども。“つまらないと感じる仕事”でも、誰かがやらなければならない仕事であると思う。誰がやるか。“与えられた”仕事は特別な理由がない限り、断らないのが、その道における、プロの仕事人になるもっとも簡単な方法だと思う。

 

 どんな仕事についても、その道のプロになるのが、幸せに仕事をする秘訣だと思う。“人からのお誘い”を断って、この人は一体何をしたかったのだろうかと思う。“人からの誘いを受ける事”が、仕事で、出世していくための秘訣なのに、と。

 

 別に仕事というのは、給料をもらうだけの事のみを、“仕事”というのではないだろうと思う。子育ても、立派な仕事である。家事も立派な仕事である。それを言うなら、友達からの『一緒に旅行に行かないか』というお誘いも立派な仕事だろうと思う。他者が関わること。そのすべてが、一種の仕事だろうと思う。

 働かなくても生きていけるが。人間関係なしに生きて行く事は出来ないと思う。実行すれば、毎日テレビ相手にしゃべるしか方法のなくなる、さみしい人生だと思う。一部の生活保護受給者はこの生活を実行し、不幸な気分を味わっているということで。

 幸福感には、幸福を感じている他者と付き合う事という側面があるように思う。怒鳴り散らすばかりの人と一緒にいても、幸福を感じる事は難しいが。幸せを感じている人と一緒にいると自分も幸せな気分になる。これが人間関係の重大な側面だと思う。“たった一人で生きる事”は、怒鳴り散らしている人と一緒に生きるよりしんどい事だと思う。

 “他者からの誘いを断らない事”それは幸せに生きる為の重大な行為の一つだと思う。

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あなた方は皆特別な存在だ

2012-07-08 10:15:41 | Weblog

 

ある人にとって、幸福をもたらす道が、ある人にとっては、幸福を感じられる道ではないかも知れない。

 ハワイに行って。なぜか、『もう一回ハワイに行くのは、いらない』と思う。それで分かった。『私は海外、長期ビンボー旅行をして、幸福と感じるタイプの人間ではない』と言う事を。

 人には人の道がある。何に対して、何をして、幸福と感じるかは人によって違う。その人にとって、“幸せ”と感じる道を生きる事。それが、人生の目的ではないかと思う。

 

 『生活保護が必要な人がいる』。それは、正しい。でも、生活保護受給者をねたんでいる人もいる。ブラック企業に勤めて、残業1日3時間で、残業代未払いの人とか。別に、残業1日3時間で、残業代未払いの会社に勤めている事が、“悪い事”という訳ではないと思うが。そういう会社でさえ、“辞める事が出来ない”と感じている事が不幸だと思う。

 一人暮らしの女性が、相対的貧困の人が多いと言っても。私は、その一人暮らしで、相対的貧困の人達のすべてが、不幸な人達であるとは思わない。貧乏承知で、好んで、一人暮らしをしている女性もいるからである。問題は、選択の余地なく、不幸な場所にいざるを得ない人達の事だと思う。残業1日3時間で、残業代未払いは、多分、アニメーターや、一部のIT企業も同じであろう。自由の選択として、その場にいるのであれば良いが、選択の余地なく、そういう企業で働かざるを得ない人達の事は、不幸だと思う。そして、そういう人達は、生活保護受給者の事を、『うらやましい人達である』という。本当は、彼らの不幸の方をどうにかすべきだと思うが。その不幸は、急には解消されないだろうと思う。

 

 ニートやフリーターの人生を選ぶ事は、ネガティブな事ではないと思う。本人が、その生活を望んでいるのであれば。

 一応、今の状況下では、“子どもを育てる”には、会社勤めをする必要があるように、ちゃんとした給料のもらえる仕事に就く必要があるように思う。でも、一人で生きていくだけ、子どもを作らないつもり、なら、ニートやフリーターという生活が可能であるように思う。

 世界というのは、急には変わらないけれども。ニートやフリーターというのは、豊かな社会の一つの生き方を先取りしていると思う。

 

 『生きていく為にしなければならない事は何もない』と。神は言う。しかし、今の状況下では、子どもがいては、その信念の下に生きる事は難しいと思う。子どもがいれば、生活の為にしなければならないことがあるということで。でも、子どもを持つ人生を放棄すれば、その信念の下に生きると言う事は可能だと思う。

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