初めて出逢った日のように
4
「どこの病院ですか?」
「茨城の病院なんだけど」
「茨城か……」
「やっぱり、ちょっと遠いわよね……」
利布もうなずいている。
「でもいつ退院できるかわからないし、このままここにいても
流夏ちゃんが大変でしょう」
「茨城に行ったら学校はどうするの? バイトだってあるし」
「お父さんだけ行かせられない?」
「父さんをひとりにするの? 話しかける人がいなかったらきっと
淋しがるわ」
「向こうの看護士さんが流夏ちゃんの代わりにたくさん話しかけて
くれるわ。
看護学校がいっしょだった人でね、すごく面倒見がいいのよ」
病院側ではそんな話が出ているのか。
利布さんは優しく言ってくれているけど、担当が違っていたら
きつく言われていただろうな。
追い出されるかもしれない、とか。
利布さんはわたしの家の事情をよくわかってくれている。
きっとわたしのために一番いいと思ったからこそ話してくれて
いるのだ。
ベッドの横にもどると新井夫婦は曇った表情でうつむいている。
看護士との話し声が聞こえたのだろう。
流夏は父が目を覚まさないでよかった、と思った。
今の話を聞かれたくないし、自分のこんな途方に暮れた顔を
見られたくない。
将来は看護士になりたいと思っていたけど、それも無理かな。
ぼんやり天井を仰いで、ふと自分を見ている山田と目が合った。
《資本主義の終わり》、と書いてある文庫本を腹に乗せてい
るが、まったく文字は追っておらず、まっすぐに落ち込んだ
少女を見ている。
あふれるばかりの同情と、どこか強さのこもったまなざし、
流夏は恥ずかしくなって視線をそらした。
そのとき、廊下からヒールの甲高い音が聞こえてきた。
女性の声で、なにこれ、なんでこんなに粗末なの、と怒った
口調で言っている。
その声の主がドアから入ってきて、部屋はいっきに香水くさ
くなった。
二十五歳ほどの若い女で、ブルネット色の髪を肩のあたりで
跳ね上げ、流行の帽子をパールのピンで留めている。
化粧ばっちりの顔、アイラインは濃く、唇は赤く、着ている
スーツはシャネルで、まるでブランド雑誌のグラビアから出
てきたような女だ。
一緒に入ってきた紺色スーツの男が両手に花と果実を持って
いる。
女は右から左へと部屋の中を見わたし、その視線は流夏を
とらえたがすぐに離れ、奥のベッドに寝ている対象を向く
と、あらあらあら、と寄っていった。
「雄一、なんであなたがここにいるのよ。もっと病気に
なりたいわけ」
女の声は病人にも見舞客にも、廊下を歩く看護士にも聞こ
えた。
流夏はその声で父が起きるかと思ったほどだ。
山田は本を横に置いて半身を起こし、困ったような顔を
あげた。
「ああ、いや、珠姫(たまき)、あの、もう少し声を
小さく―――」
「何言っているのよ。ここはあなたのような男がいる場所じゃ
ないでしょう。
せまいところに大所帯で息がつまりそうだわ。すぐにパパの
病院に移してもらうように掛け合ってくるわ」
「いや、いいんだ。わたしはここで」
ええっ、と珠姫はつけまつげの目をバサバサさせた。
「なによ、正気で言っているの。こんなところにいたいなんて、
もしかして頭も打ったんじゃない?」
珠姫は自分のジョークに笑ったが、愛想よくしたのはいっしょに
来た紺色スーツの男だけで、山田はやれやれと肩をすくめた。
「どうせもうすぐ退院だし、荷物を動かすのが面倒だよ」
スーツの若者は山田に挨拶をすると花をサイドテーブルに、
果実は床に置いた。
「ほら、見なさいよ。こんなにせまくちゃお見舞いのメロンを
置くところもないわ」
自分は車にもどっています、とスーツの男が出ようとすると
山田は声をかけ、車いすに移してくれないかと頼んだ。
「きみの秘書を使って悪いが、看護士を呼ぶより早いだろう」
「それですぐに退院だなんて、よく言えたものだわ」
山田は秘書の手を借りてベッドから腰をあげ、片足をあげたまま
横に置いてある車椅子に移った。
「外で話そう」
「どうしちゃったのよ。パパが特別室を空けて待っていることは
知っているでしょう」
「その申し出は前に断っただろう」
「たしかにそう聞いたけど、まさか本気だとは思わなかったわ。
わたしがすぐにお見舞いに行かないのでわざとごねているのかと」
山田は車椅子で廊下に出てしまい、待ってよ、と言いながら珠樹が
後に続いた。
「せまくて悪かったわね」
新井夫人がドアに向かって言い放った。
つづく
流夏のイメージ