やさしさ
久しぶりに藤川幸之助さんの「母のうた」
夕日を見ると
今日もここから
あの夕日が見えました
あの夕日を見ると
いつも思うんです
今日も母にやさしくできなかったと
もっと母にやさしくすればよかったと
ウロウロするな!
ここに座っていろ!
同じことばっかり言うな!
もう黙ってろ!
母さんが病気だって
わかっちゃいるけど
「おれの母さんだろう!しっかりしろ!」
と、つり上がった目で
何度も何度も母に言って
母は驚いて
私を悲しそうに見つめて
私は言った後自分をずっと責め続けて
この夕日を見ながら
明日こそ母へやさしくしようと
毎日毎日そう思うけれど
毎日毎日このくり返し
母さんごめんなさい
母さんに苛立つぼくを許してください
母さんごめんなさい
こんなぼくを許してください
この詩のあとに書かれていた文章が、詩そのものよりも心に残ってしまった。
この手の詩を書くと、必ず読者におしかりを受ける。「お母さんはあなたを大切に育ててくれたのだから、もっとお母さんに優しくしなさい」とか、「お母さんに対する攻撃的な詩は書いてほしくないです」とか。でも、介護の中ではいつも聖人君子のようには行かない。自分のイメージどおりに動かない母に苛立ち、怒り、悲しむ。そして、独りになって、苛立った自分を責める。この感情の繰り返しは、私だけではないはずだ。多くの介護者が経験した感情ではないだろうかと思った。そして、それを詩に書いた。「悩んでいるのはあなただけではないんですよ。同じように苛立ち、怒り、悲しみ、悩んでいる人間がここにもいるんですよ」と、思いをこめてこの詩を書いた。
藤川さんに「おしかり」の感想を送る読者というのは、どんな方たちだろう。
たぶん藤川さん以上に親や病人に優しく接することのできる人なのだろう。
いかなる状況でも、冷静さと寛容さと思いやりを失わない、まさに聖人君子なのだろう。
私など、この詩を読むと、藤川さんってなんて優しい人だろう・・と思うばかり。
そして、優しくない自分を意識して、少し自己嫌悪。
だから、その読者は、私から見たら神様のような愛と優しさに満ちた方に違いない。
しかし、そんな優しい方が、なぜ藤川さんを叱るのだろう。
「苛立つぼくを許してください」と言う藤川さんに、
苛立った自分を隠さず、偽らず、読者の前に晒して見せ、
介護のたいへんさに悩み傷ついている人たちに共感し、
心の負担を分け合おうとしている藤川さんに、
なぜ、非難の言葉を送るのだろう。
そう考えた時、その読者の優しさが偽物に思えてきた。
こういう人たちの何気ない言葉が、介護者を追い込み、孤立させ、悲劇を招くのではないだろうか。
近年、介護に疲れて・・という事件や犯罪が目につくようになった。
子ども手当てもいいけれど、
お年寄りや障害者も、社会で見守りケアしようとする方向へ向かってほしい。
今の日本があるのは、「後期高齢者」と呼ばれる人々が汗水たらして築き上げたもの。
介護する家族をサポートする政策をもっと充実させるべきだ。
一日も早く。
そうしたら、今よりももっと優しくなれる人が増えるだろう。。
ホームに長らくお世話になっていたので,私は藤川さんのようなご苦労は何も経験せずに済みました。施設の皆様には本当に感謝しています。
藤川さんご自身が母上を介護して,母上につらく当たられたことは,介護できつい思いをした人には共通の事ではないでしょうか。
私は,藤川さんを批判することなど,とてもできないのです。
私もこの詩を長崎新聞で読みましたよ。
途中から、涙が出てきて字が見えなくなりました。介護生活をしていた当時の自分と藤川さんが重なって、たまらなくなりました。
前に書いたことがあると思いますが、私も父と母と合わせて15年の介護生活をしました。父の介護のときは、まだ介護保険も出来ていない時代で本当に大変でした。
父は多発性脳梗塞からの痴呆症で、運動機能は何ともないのに、あれよあれよと言う間に(2週間ほどで)記憶がなくなり、徘徊して回るようになりました。
父には痴呆症からの暴力行為もあり、探して連れ戻そうとすると、道端で殴られたりもしました。情けなく、腹立たしく、ウロウロして交通事故にでもあって死ねばいい!と何度思ったことでしょう。
きっと、私の目も藤川さんと同じように釣りあがっていたと思います。
その一方で、救急車が通ったりすると、父が事故にあったのではないかと「死ね」と思ったことを後悔し、おろおろと探し回る。
そんなことの繰り返しでしたね。
介護する人間は、どうしても自分を責め続けます。
でも、「時が癒す」ってことはあるんですよね。母が亡くなって5年、そう思います。
私も介護の大変さは何も知りません。
母は今、栃木県のケアハウスに居ますが、そこはとてもアットホームな雰囲気で、本人もとても気に入っています。佐世保に移住する時、何度誘っても、そこを動こうとしませんでした。
近くに姉が住んでいるので安心ですが、なんとなく後ろめたさは消えません。
そぷんさん、
本当にしんどかったでしょうね…。
私は藤川さんの詩から想像することしかできませんが、そぷんさんにはご自分の思い出そのものなのですね。
でも、その日々を歩き続けてきたから、包容力いっぱいの今のそぷんさんがいるんだなあと納得させられます。
それから、そんな「おしかり」の事を書いた「藤川さん」は勇気のある人だともおもいます。
それに対しても、また「おしかり」をする人が居るはずなのを予想しながらあえてかいてるのですから。
天皇制家族制度にある日本社会では、老いた親の世話はおおむね長男の、さらにはその嫁の仕事とされてますね。
盆と正月くらいにしか帰らない兄弟に介護介助の苦労を話すと「鬼嫁」のごとくののしられる話を耳にします。
毎日暮らすものと、一年に数時間会う者では見えるものが違います。
「痴呆」を上っ面のやさしい言葉の「認知症」とごまかしても、現実に「痴呆」は凄まじいものです。
ウンコ、オシッコを垂れ流しながら歩き回る親を世話している人なら「おしかり」する資格があるかもしれません。
ところで,藤川幸之助さんの『まなざしかいご』を友人からプレゼントされました。
詩と美しい写真,それに心のこもった文章を少しづつ読み進めています。