休日の朝8時、携帯が鳴って、貴女の訃報を知りました。
電話が切れても、まだ夢を見てるようで、信じられない。
ぼーっとしていたら、長崎のNちゃんや川棚のYさんから電話やメールが次々と。
どうやらホントのことらしい。
私も、SさんやAさんやYさんなどに連絡し・・・
夕方6時、やっと会えた貴女は、
白い柩の中で、ピンクの洋服姿で、ピンクのバラの花束を抱いて眠っていました。
今にも、「ああ~、よく寝た~」と言って起き出してきそう。
あんなに元気だったのに。
反原発の署名活動も、さよなら原発のデモ行進も、あんなに頑張っていたのに。
いつも幼いYちゃんを連れて、長崎や福岡にも出かけていたのに。
千葉県から疎開してきた貴女から、私たちは逆に励まされたり勇気をもらったり…
ごめんね。。
心臓が弱かったんだね。
子どもの頃に一度発作を起こしたことがあったんだってね。
でも、それ以後は全然なくて、
注意するように言われていた出産時にも問題はなくて、
ご家族も貴女自身も、その病気のことは忘れていたんだね。
お母様は、急に寒くなったからではないか…
あのアパートは寒くて、ストーブも1つしかなくて…とおっしゃっていました。
でも、疎開仲間の方たちは、心労も大きい要因だと言ってました。
人一倍元気に明るく振舞っていたその影で、
いろんな葛藤を抱えていたはずだと…。
何も気づかなくてごめんね。
頼りにならなくてごめんね。
お母様に謝ると、
いいえ、佐世保に来て、いろんな方に出会って繋がって、いろんなことを知って、
かつてないほど、とても充実した日々だと言ってました。
今までは、家族や周りに気遣ってできなかったことも、こちらでは積極的にやっていたようで、
「パパさんの立場も考えなきゃダメよ」と注意してたくらいです。
あなたのことも聞いてますよ。
石木ダムのことも何度も話してくれました。
「お母さん、アーケード街に行くと石木ダムの看板があるけど、あれを信じちゃダメだよ。
ダムなんて必要ないんだからね。ダムの予定地に行ったけど、すごく長閑ないいところで、
あんなところは絶対残さなきゃいけないと思った」って、言ってましたよ。
思いがけない話に、胸が熱くなる。
Yちゃんが駆け寄ってきて、おばあちゃんにケーキをおねだりしては、また走り去っていった。
あの子は何が起きたかわかっているんですよ。
でも今は、パパや私たちや、たくさんのお客さんが居て、ハイになっているんでしょうね。
娘が倒れたとき、あの子だけがそばにいて、
すぐに下の八百屋さんに知らせに行ったそうです。
でも、お店がお休みで誰もいなくて、お部屋に戻った時に、ちょうど私が電話して…
「ママが苦しいって言ってる!早く来て!」
あの子にそう言われて、びっくりして、私が神奈川から救急車を頼んだのです。
Yちゃんはきっと、いつまでも、その日のことを忘れないだろう。
母の苦しむ姿を一人で見つめていた日のことを。
母を失った日のことを。
なぜそこに父がいなかったのか、
なぜ母や自分が、暮らしていた千葉を離れて、佐世保で過ごしていたのか、
いつか疑問に思うだろう。
それが2011年3月の原発事故のせいで、
放射能の被害から自分を守るために佐世保に移り住んだと知ったなら、
Yちゃんは、新たな悲しみを背負ってしまうだろう。
Yちゃんの心の傷が少しでも軽くなりますように…
私たちにできることは何だろう…
幼いYちゃんを傷つけたのは、誰のせい?
小さいお子さんを置いて、どれだけ心残りでしょう。
Yちゃんが幸せに暮らせますようにお祈りしています。
と、告別式の挨拶の中で、Yちゃんのパパはママに向かって語りかけました。
優しそうなパパでした。
Yちゃんはきっと幸せに暮らせると思います。
ただ、元の家に戻ってからのYちゃんの体のことが気がかりです。。